173話 あの時以来の

 それからしばらくは、アセシオンの軍事行動も準戦時下での警戒行動ばかりで、主要な作戦行動は確認されなかった。貴族たちは本格的にあおばとの交渉に入ろうとしているのだろうか。

 それを裏付けるかのように、ライザは前回の面会から2週間で戻ってきた。講和派の協議が終わったようで、矢沢に結果を伝えに来たのだろう。


 普段通り士官室でライザを出迎えた矢沢は、ライザがやや大きめの白い封筒を持っているのを見た。フランドル騎士団の資料で確認していたところによれば、侯爵が用いる封蝋で口が閉じられている。


「2週間ぶりだな」

「ええ。講和派の意見がまとまりましたので、そのご報告にと」

「よかった。まずは資料を見せてくれ」


 矢沢が手を出すと、ライザは素直に資料を手渡した。それを開封するなり、羽ペンか何かで書かれたらしいインク書きの書面に目を通す。


 概要は、思った通り皇帝とヤニングス、そして近衛軍兵士といった捕虜たちの身柄返還に関する協議の要請だ。代表者名として、アセシオン上級貴族のエイドリアン・ローカー侯爵のサインが文末に入っており、その右には空欄がある。


「よし、確認した。我々は君たち講和派をアセシオン唯一の正当な政府と認め、交渉を行うことを宣言する」


 矢沢は書類の空欄にサインを書き込むと、ライザに返却した。これで講和派との本格的な交渉に入れるだろう。

 ライザはそれを両手で受け取り、再び封筒に入れた後で大事そうにウエストポーチにしまい込んだ。


「承知しました。では、この書面は一足先に帝都へ運びます」

「任せた。会談は5日後に行いたいと伝えておいてくれ」

「しかと伝えておきます」


 ライザはそれだけ言うと、一礼して踵を返し、グリフォンを繋いでいるヘリ甲板に足を向ける。


 確かにライザは帝国に忠実な密偵ではあるが、彼女はどういう信念で動いているのだろうか。アメリア曰く、家族と恋人を奪ったエルフへの復讐が目的だと言っているが、そうは思えなかった。それよりも何か、虚無的なものを感じる上、その中にも負の感情といったものは見当たらない。むしろ、何かに迷っているような気がする。


 結局、よくわからない女性だった。矢沢はライザの小さな背中を目で追いながら、彼女が去っていくのを見送った。

 だが、すぐにライザは振り返ると、矢沢の目をじっと見返した。


「……少し、お嬢様と面会してもよろしいでしょうか」

「ああ、構わない。今は医務室にいるはずだ」


 矢沢はライザの言葉に面食らった。ここでアメリアに会いたいと言うとは思わなかったからだ。


 ライザがアメリアと面会するのは、確か最初にベルリオーズ伯との交渉を持ちかけてきた時以来だ。アメリアがヤニングスを倒したという情報が政府にまで伝わっているとは聞いていたが、アメリアを祝福しに来たのだろうか。


 いや、それとも上司であるヤニングスを捕まえたことをなじりに来たのか。どちらにせよ、この段階でアメリアに会おうと思う意味が矢沢にはわからなかった。


 とはいえ、ライザは今のアメリアには敵わない。戦闘力だけでなく、アメリアの心は見違えるほどに強くなった。アメリアのことは心配しなくてもよいだろう。

 矢沢は途中までライザを案内したが、偶然医務室へ行くところだった大松を捕まえると、彼女に案内を任せてCICへと移動した。


  *


「お嬢様、お久しぶりです」

「……ライザちゃん」


 アメリアはライザの姿を見るなり、思わず目を背けてしまった。彼女の顔を見ると、連れ去られた時のことを思い出してしまうのだ。

 それを察してか、ライザも言葉は続けなかった。ただその場に立ちすくみ、アメリアの言葉をひたすら待っている。


 だが、アメリアはライザが何をしに来たのかわからなかった。帰れと言おうとしたが、もしかすると自分のことを祝福しに来たのだろうかと思うと、口には出せなかった。


 いや、それは単なる驕りかもしれない。ライザにとってみれば、自分の上司を倒した敵でしかない。たとえ昔の縁があったとしても、そう簡単に心変わりするわけがないのだから。


 しばらくの間、診察室は大松と村沢が雑談する静かな声が聞こえるだけだった。アメリアとライザの間では、時間がただ無為に過ぎていく。


 それを打ち破ったのは、ライザの呟くような小声だった。


「おめでとうございます」

「ふぇ……?」


 アメリアがライザに顔を向けると、彼女の優しげな微笑みが目に入った。


 いつぶりだろうか。ライザが微笑んでいるところを見るのは。

 少なくとも、街を出てからは全く見たことがなかった。母が逮捕される直前、下水道に続く秘密の地下室に逃げ込む際に見たのが最後だった。


 再会した時は敵対していた。彼女はアセシオンの力の象徴たるヤニングスの部下として、アメリアを捕まえ、皇帝による辱めを受ける原因を作った。


 そのライザが、あの時と同じ笑顔を見せてくれたのだ。紆余曲折あったが、それでもアメリアのために笑ってくれた。

 意識など全くしていないのに、目頭が熱くなってきた。アメリアは涙がこぼれるのも構わず、ライザに笑みを返した。


「はい、ありがとうございます」

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