第5話 レジストリ
「ヒロ君、今晩、付き合ってよ」
「どこへだよ」
「ベイビーズラス。ギフト・レジストリを登録するの」
都合が悪い、なんて言っても聞く相手じゃない。幡野さんからはまだ、咲枝さんとルディの電話番号を言ってこない。店は暇で、オーナーの機嫌は悪い。俺は、香織さんに付き合うことにした。
香織さんの車は地下駐車場の真ん中にでんとすわっていた。真っ白でピカピカのBMW.ナンバープレートはMYFARCN。マイファルコン、あたしのハヤブサの意味だろう。
「整備は済んだのかい?」
「何の?」
もう忘れてるらしい。俺は深く追及しないことにした。下手につつくと、後の仕返しが怖い。「わからない人ね」と軽蔑されるくらいならいいが、思いがけない深手を負わされる一言が待ってるかもしれない。一度、空港の出発ロビーいっぱいの人の前でやられて、顔から火が出た。以来、トラウマだ。
あまり飛ばさないでくれよ、と俺は頼んだ。フォローするのに骨が折れるからな。俺の年寄りシヴィックをいたわってやってくれ。
香織さんの辞書に「忖度」という言葉はない。
「まどろっこしいわねえ。あたしの車で行きましょ」
「でも、俺の車……」
「心配しなくても、ちゃんとここまで送ってあげるわよ。もう、ぐずぐずしてたらお店、閉まっちゃうじゃないの。わからない人ね。そっち乗って!」
新しくて整備したてのBMWは快調に走った。悔しいけど、走りの滑らかさ、音の静かさ、クッションの良さは、俺の十二年もののシヴィックよりはるかに優れている。これも言っておかなきゃならないが、香織さんの運転は、「荒いがうまい」。俺は安心してシートに寄りかかった。
「ところで、ギフト・レジストリって何だ?」
「結婚するカップルが、ほしい品物を選んでお店に登録しておくの。ゲストはそれを見て、自分の予算に合ったものを選んで買ってあげるのよ。普通は台所用品とか寝具とかバス用品ね」
「日本じゃ結婚式のお祝いは現金封筒だって聞いた」
俺は日本の結婚式に行ったことないから知らないが、友達の話によると、二十歳台だと二万円とか、三十歳台だと三万円とかの「相場」があるらしい。
「こっちでもキャッシュを贈る人はいる。でもね、この方が合理的じゃない? 誰もが二百ドル、三百ドルのギフト代出せるわけじゃないでしょ。そういう人は、レジストリから予算に合った品物を選べばいいんだから」
なるほどね、と俺は感心して、あれ、と思った。
待てよ。
「香織さん、俺たち、どこへ行くの?」
「ハシェンダハイツのベイビーズラスよ、真由ちゃんのとこから近いから」
「結婚祝いのレジストリが、なんでベビー用品の店なの?」
香織さんは無言のまま、ちらり、と俺を見た。
「ってことはつまり……」
できちゃった婚、か。
「真由ちゃんが結婚するヴィンスは、もう、家を持ってるの。家具も電化製品もバス用品も一通りそろってるから、いらないのよ」
「ヴィンスっていくつなんだ?」
「五十二歳って言ってた」
「真由ちゃんは?」
「二十七歳」
「倍近く年が違うじゃないか」
「そりゃそうよ。ヴィンスにとっては三度目の結婚になるんだもの。二度結婚して、二度離婚したの。それで、息子が二人、娘が三人いる。一番上の息子は三十歳ですって。あとの子どもたちも、もう独立して家を出てる。一番下だけがまだ未成年なんだけど、別れた奥さんの方と暮らしてて、ヴィンスとは時折、休暇を一緒に過ごすだけみたいね。真由ちゃん、会ったことはないらしいけど」
「呆れたね」
「何が? 離婚、再婚は日本でも珍しくないでしょ」
「真由ちゃんはいいのか? そんな年寄りで、二度も結婚に失敗してて、自分より年上の息子がいるような相手で」
「真由ちゃんがいいと言ってるんだから、いいんでしょう。それに、ヴィンスは年寄りじゃないわよ。自分で持ってたビジネスを売って、もうリタイアしてるの。アウトドア派で、キャンプやツーリングによく出かけてる。生活をエンジョイしてるのよ。ヒロ君より、きっとずっと体力あるわよ」
どうせ俺は、生活に疲れた勤労青年だよ、とふと、ひがんでみたくなった。
「真由ちゃんの両親はなんて? 父親なんて、へたすると義理の息子より年下になっちまうんじゃないか?」
「多少はもめたみたいだけどね。でも、結局は真由ちゃんしだいでしょ。これ、そんなに悪いはなしでもないのよ。相手はお金持ってるし、今のとこ健康だし、連れ子は一人を除いてみんな成人して家を出ていて、末の娘も一緒に暮らしてはいない。初婚じゃなくても、夫婦水入らずには変わりないでしょ。それにね……」
香織さんは意味ありげに黙った。
「それに、何だよ」
「ヴィンスと結婚すれば、真由ちゃん、永住権が取れるのよ」
それか……。
アメリカで生まれる幸運に恵まれず、それでもアメリカで暮らしたい人間が喉から手が出るほど欲しい永住権。
アメリカの移民政策はどんどん厳しくなっている。仕事や投資、特殊技能を理由にしての永住権申請では一年に許可される件数が決まっているから、順番待ちになる。何年かかるかわからない。技能なんか何も持っていなくても、高い給料と豊かな暮らしを求めてアメリカ移住を望む人間は、世界中に大勢いる。
特に中南米諸国。国境のこちらとあちらで、あまりにも違う生活水準を見れば、こっちで暮らしたくなるのは当たり前だ。ベトナム戦争の頃、アメリカ軍に志願すると、満期除隊の後、永住権をもらえたそうだ。戦場に行くんだから、それこそ命懸けだ。そうやって永住権を得た人に会ったことがある。人の好い普通のおじいさんだった。銃の扱いにやたら詳しかったけど。
今はそんな制度はないから、手っ取り早く永住権を手に入れる方法は二つ。一つは、アメリカ政府が行っている永住権取得籤引き制度。但し、これは特定の国民のみにあてはまる制度だし、くじに当たらなければそれまで。宝くじを当てようとするのに似ている。
もう一つが、アメリカ市民との結婚だ。
「ヒロ君には、真由ちゃんの気持ち、わかるでしょ」
香織さんの言葉に、俺は、ああ、と言って、ため息をついた。
ベイビーズラスで、香織さんはベビー服だの、紙おむつだの、哺乳瓶だの、ベビー用ブランケットだの、玩具だのをせっせと見て回って、コンピューターに登録した。それはいいんだけど、時折、俺に意見を求めるのが困りものだ。
「ヒロ君、こっちの黄色いアヒルちゃんと、ピンクのうさちゃん模様と、どっちが可愛いと思う?」
「どっちも可愛いよ」
「だから聞いてるんじゃないの、もう、わからない人ね」
文句言われても、俺はベビー服には興味がないんだから仕方ない。
店の人はにこにこして香織さんに、予定日はいつですか? と聞いた。
「十二月の末なんです」と、香織さんが答えると、楽しみですねえ、と俺に向かって言った。この人、何か勘違いしてないか?
「おい、さっさと済ませて早く出よう」
「ちょっと待ちなさいよ。あと、子供用の靴を見たいの」
「なんで靴? 赤ん坊が歩くのなんてずっと先の話だろ」
「だから楽しみなんじゃないの。早くこの靴が履けるくらい、大きくなりますようにって、親ってそう願うものでしょ」
話にならない。
「何、焦ってんのよ。ヒロ君も、こういうこと、少しは知っておいたら? いつ、必要な知識になるかわからないでしょ」
当分、その予定はないよって言い返そうかと思ったが、止めた。下手なこと言うと、香織さんが何を言い出すかわからない。ベイビーズラスで修羅場なんてごめんだ。
だいたい、なんで俺と来るんだ。真由ちゃんと来れば良かったじゃないか。俺がそう言うと、香織さんが珍しく暗い顔になった。
「そのつもりだったのよ。でも、真由ちゃん、急に体調崩しちゃって、来れなくなっちゃったの」
「病気?」
「本人ははっきり言わないんだけど、学校も休んでるんですって。大したことないといいんだけど」
俺も心配だ。シャワーは来週の日曜日だぞ。
エコーの駐車場に戻ると、幡野さんからメールが来ていた。咲枝さんとルディの電話番号を知らせるメールだった。
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