お題:通訳
「…………」
決して広くはない我が家の応接間に、耳が痛いほどの沈黙が流れている。
テーブルには湯気を立てる安物の紅茶が二杯。冷や汗を流す俺の向かいには、淑女然とした動作でティーカップを持つブロンドヘアの少女。
彼女はフランスからの留学生であるらしい。らしい、というのは、俺も今日になって彼女の存在を知ったからである。
聞くに、母の友人からこの子のホームステイを頼まれ、承諾したらしい。たしかに我が家は一軒家だし、兄が巣立ったことで部屋もひとつ空いている。
「……こ、紅茶おいしい?」
「?」
だからって日本語わからん子を英語も仏語もできない家庭に引き入れるかね???
振替休日で家にいた俺がなし崩しに対応しているが、本当に会話ができない。マジで空気がつらい。あちらさんが気を遣って背筋伸ばして、目が合うたびに笑顔作ってくれるのが余計にいたたまれない。
ふと、俺はスマホの存在を思い出す。焦り散らかしていたせいで失念していたが、俺には文明の利器があるのだ。これを通訳に使えばいい。
「えっと……『こんにちは』」
音声認識で表示された文章を見せると、彼女は少し驚いて、微笑んだ。
「Bonjour, ça va?」
「サバ?」
魚が出てきて首をかしげるが、通訳によれば『元気ですか?』という意味らしい。
『元気です。時差ボケは大丈夫ですか?』
『ええ。日本に来たことが嬉しくて、すぐに治ったわ』
円滑、とは言い難い会話だった。音声認識で交互に画面を見せ合う都合上、どうしてもワンテンポの休符が付随する。だが、不思議と煩わしくはなかった。相手がどう思っているかはわからないが、外国人の美少女と会話できるというだけで俺は舞い上がっていたのだ。
いろいろな事を話した。学校の違い、街並みの違い、文化の違い。日本に来た理由、好きなもの、嫌いなもの、映画、読書、美術館……――
「――あ、充電切れた……」
ティーカップが乾いた頃、通訳が眠りについた。俺は急いで充電器を取りに行こうとして、テーブルの角に膝を思いっ切りぶつけた。
「あだぁッ!!」
「!?」
謎のツボに刺さったのか、シビれる痛みに悶絶する。少女が心配そうに駆け寄った。
「Ça va?」
「だ、大丈夫……」
疼痛の中、いまの受け答えに疑問を持つ。非常に短い会話だが、通訳がなくても成立していた。ただそれだけだが、小さな度胸がついたと自覚したのだ。
未だ心配そうな少女に、俺は恐る恐る口を開いた。
「さ、サ・バ! 大丈夫!」
「ダイ、ジョーブ?」
「! そう!」
きっかけはその程度だった。俺たちは両親が帰宅するまで、身振り手振りを駆使してお互いの言語をカタコトで交えながら対話できた。
「Merci! アリ、ガ、トー!」
スマホから始めたコミュニケーションは、想像よりも実りがあるものだった。だからこそ、文明の利器に頼らない会話の良さも理解できた。
翌日、俺は人生で初めて参考書を購入した。内容はもちろん、フランス語だ。
いつか当たり前のように会話ができるようになりたい。ヨコシマな理由だが、俺にとってはこの子と仲良くなれることが最大のモチベーションだ。
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