522 手仕舞い

 相場が開くとジリ下げから始まった。昨日終値である三一二九八ラントから始まった取引は、ジリジリと下がる展開。買いのプレイヤーが薄い中、売りのプレイヤーが小出しで小麦を売りに出す形となる中、小麦価は一〇〇〇ラント近く下がり、三〇〇〇〇ラントのラインに近づいてきた。このままでは三〇〇〇〇ラントを割りそうな情勢。


「グレン、まだなの?」


 俺が小麦相場の変動の確認をしていると、リサから連絡が入った。どうやらリサも相場を確認していたようだ。魔装具越しに聞こえるリサの声から、明らかに苛立っているのが分かる。直接、面対している時にはニコニコ顔に惑わされるが、声だけだと声質だけで判断できるので、その辺りは非常にクリアとなる。


「まだだ」


「いつ、売れるのよ!」


「相場の流れで決まる」


 そうなのだ。これまで『貴族ファンド』からカネを調達して投入してきた貴族と、『投資ギルト』と自分のカネをぶち込んできた俺という、強力な買い手がいない小麦相場。今は売り手優勢の展開であった。それがそのまま続くのかを見極めている訳で、それをギャアギャア言われても困る。頭のキレるリサであっても、相場となると不案内のようだ。


「売るタイミングは俺が決める。それまで待っていてくれ」


 俺はそう伝えて、魔装具をガチャ切りした。そうでもしないと、話が終わりそうになかったからである。結局午前の終値は少し持ち直し、三〇五六七ラントで引けた。おそらくジリ下げを見たプレーヤーの一部が我慢できず、先走ってしまったのだろう。そのような事情から、午後の相場は上目線で動いてくる筈。機は熟してきた。


「おい、リサ。売るのは今だ!」


「えっ、今なの? もう少し待っても・・・・・」


「無駄だ。今売るんだ!」


 戸惑うリサに俺が指示を出したのは午後の相場が始まって一時間経ってからの事。午前の終値よりも三〇〇ラント程上がった三〇八八四ラント付近の時だった。リサは少し値が上がってきたので、キリのいい三一〇〇〇ラント辺りで売りたかったのだろう。しかし弱含みの今日の相場で、そんな上がり方をする兆候は全く見受けられない。


 俺は間髪入れず、ウィルゴットと若旦那ファーナスに小麦を売却するよう、指示を飛ばす。相場値はたちまち崩れ、二六〇〇〇ラント台まで下落。小麦相場はそのインチキ相場振りを改めて露呈させた。ここで俺が保有する小麦を売りにかかると、相場値は二五〇〇〇ラント台どころか、二〇〇〇〇ラントも切って、一五〇〇〇ラントさえも割り込んだ。


 俺が全ての小麦を売り終えた時、小麦価は一〇〇〇〇ラントすら割り込み、九二八七ラントまで下がったのである。これによって三〇〇〇〇ラントどころか、一〇〇〇〇ラントで小麦を買った者も、一瞬で高値掴みをした形となったのだ。結局この日、俺が売り終えた後も値が下がり、九〇二四ラントと始値の三分の一以下まで小麦価は下落したのである。


 ――久々に小麦相場から開放された俺は朝の鍛錬を終えると、ピアノ部屋に籠もってフルコンを弾いた。久々に無心で弾くことができたので、何か晴れ晴れとした気分となる。それもその筈。昨日、リサから驚くべき情報を聞いたからだ。アンドリュース侯がアウストラリス派の会合で、貴族会議開催の建議について判断を留保したというのである。


「それは本当か!」


「ええ。さっき届いたアンドリュース侯からの早馬で分かったのよ」


 そういってリサが封書を差し出してきたので、中から便箋を取り出した。そこに書かれていたのは「本日のアウストラリス公爵邸で開かれた、アウストラリス派の派閥幹部会合において、小麦特別融資の由々しき問題について尋ねるも要領を得た回答はなく、貴族会議開催の建議についてその判断を留保することを伝えた」と。


 また「ジョルダン伯とシュロベニーズ伯、ドボルザーナ伯の三伯爵もアンドリュース侯の意見に賛同した為、派閥幹部会合はそのものが流会をした」と書かれており、これを見たザルツは「アンドリュース侯は貴族会議開催で委任状を提出しない腹づもりだ」と断言した。ならばアンドリュース侯に連なる貴族達も内大臣府へ提出しない事になる。


 しかしアンドリュース公が挙げた三人の伯爵って一体何者なんだろうか。リサに聞くと、アウストラリス派の幹事なのだという。アウストラリス派は五人の高位家で最高幹部会が構成されており、これに八人の派閥幹事を加えて幹部会を構成しているとの事である。しかしリサは貴族界の情勢について、エライ詳しくなったものだな。


「アンドリュース侯はどのくらいの委任状を集めたのだ?」


「派閥の三割弱を集めたと、ディール子爵夫人が仰っていました」


 リサがザルツからの問いかけにそう答えた。リサの話ではアウストラリス派は、高位家だけが集まる最高幹部会合の席で、各家が手分けして派内の委任状を集める話になっていたとの事。そう言えば、どこかの記事にそんな事が書かれていたな。しかしそれにしてもアンドリュース侯、派内の三割弱の委任状を抑えているなんて中々やるな。


「つまりはだ。アンドリュース侯が貴族会議開催に参加をしなければ、アウストラリス派貴族の三割弱の委任状が提出されないということだ」


「いくらバーデット派が加わっても、それ以上の貴族が抜けるという事ね」


 ザルツの言葉にリサが続く。まるで連想ゲームのようだ。アウストラリス派とランドレス派の連合にバーデット派が加わり、全貴族の三分の一に達するか、どうかというこの情勢。アウストラリス派は三派に属する貴族の内、七割を超える貴族を擁する大派閥である。その派閥から三割弱の貴族が抜けてしまえばどうなるのか?


「それはつまり・・・・・」


「このまま行けば、アウストラリス公の建議が成立しない公算が高い」


 そうだよな。ザルツの言葉を肯定するしかなかった。しかしアンドリュース侯、終盤に来てどデカい爆弾を炸裂させてきたな。リサがそれについて話し始める。


「でもアウストラリス公が小麦特別融資に関して、しっかりした説明をなされれば、状況は変わるかも」


「すると思うか?」


「・・・・・まずないわね」


 ザルツに聞かれたリサが、ニコニコ顔でそう答えた。あり得ないよな、それは。説明なんてできるんだったら、とっくにやっているって。というか説明できるような人間ならば、『貴族ファンド』を使って小麦相場への介入なんか最初からしないだろう。アウストラリス公は事実上、詰んでしまったと断言してもいいだろう。


 俺は昨日の事を思い出しながら、ピアノ部屋で「たらこ・たらこ・たらこ」を弾いた。ニュース・ラインが打ち合わせの際に行進曲にしたいと持ってきた「ヤマダ電機の歌」が頭から離れず、何故かキューピーのコマーシャルソングである「たらこ・たらこ・たらこ」に行き着いてしまったのである。基本的にそうなのだが、CMソングは中毒性が高い。


 しかしこの曲、ニュース・ラインには絶対に教えられないなと思いつつ演奏していると、魔装具が光った。グレックナーからだなと、魔装具を取ったら出たのはなんとグレックナーの妻室ハンナ。不意を突かれた俺は、一瞬何が起こったのか分からず、「間違えました」と答えてしまったのである。


「間違えていませんわ!」


 ハンナが違うと指摘してきた。つい電話の要領で喋ってしまったのだが、指摘されてしまって凄く恥ずかしい。それはいいとして、ハンナの話によれば、ランドレス派に所属するハンナの父ブラント子爵が派閥に属する貴族達と行動を共にして、領袖であるランドレス伯に委任状を出せなかったという。そんな事ってアリなのか? 思わずハンナに聞いた。


「大丈夫なのか?」


「それは分かりませんわ」


 ハンナはそう話す。ハンナが分からないのであれば、俺には分かりようもない。しかし、委任状を出さないって明らかに造反じゃないか。ハンナが言うには、ブラント子爵達や一部の派閥貴族達は独自に会合を持ったので、昨日の午後に開かれた派閥総会に出席出来なかった。その為、領袖であるランドレス伯に委任状を出せなかったのだとの事。


「それは出せなかった・・・・・・のじゃなくて、出さなかった・・・・・・のではないか?」


「いえ、出せなかったのですわ」


 俺がそう問うたのだが、ハンナは「出せなかった」という見解を曲げなかった。いやいやいや、どう考えても「出さなかった」だろう、これは。ランドレス派では昨日を委任状提出の最終期限と設定していたので、派閥に属する多くの貴族は委任状をランドレス伯に出していなかったというのである。どうして事前に集めなかったのだろうか?


「ランドレス伯は派閥幹部会合で最終確認をしてから、派閥総会で一気に集めたかったのでしょうね」


「それはランドレス伯にとって必要な儀式なのか?」


「ええ。寛容性溢れる領袖、時代を先導する領袖という姿を皆様にお見せになりたかったのでしょう」


 ハンナの言葉が皮肉に聞こえて仕方がない。他の多くの派閥は委任状集めに奔走していた。レティにしても、アンドリュース侯にしても、アルヒデーゼ伯にしてもそうだ。三人共、自派の貴族から委任状を集めている。しかしランドレス伯はそういった事を行わず、派閥に属する貴族を一堂に集め、その場で一気に委任状を集める腹積もりだった。


 そのプランを実行する為、ランドレス伯は所属する自派の貴族達に対し、委任状の提出期限を予め昨日と設定。午前に派閥幹部会合を開いた後、午後に派閥総会を開くという流れを作った。派閥総会へ出席した貴族達全員に委任状を提出させ、その場で自身の力と派閥の結束を内外に見せつけるのがランドレス伯の目的だったと、ハンナは言う。


 ところがそれは、ブラント子爵をはじめとする一部所属貴族が派閥総会に出席せず、派閥の結束が乱れた事から頓挫。己の力を高めようというランドレス伯の目論見は、完全に外れてしまったのだ。だがこの話、そこで終わらないのがエレノ世界。ランドレス伯が執念でブラント子爵らの会合場所を見つけ出し、なんとその場に急行したというのである。

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