480 今日もアイリは来なかった
今日もアイリは来なかった。学園図書館にである。アイリは真面目で意志が固い子だから、一度こうだと決めたら、動かないんだろうな。そんな事を考えても仕方がないのだが、そう思わざる得ない。今回の事で自身の鈍さを改めて痛感したのだが、佳奈は俺と付き合うに当たって、相当我慢してくれていたのだと気付いた。
温厚で真面目なアイリでさえも怒るぐらいなのに、佳奈は付き合ってからのこの四半世紀、一度として怒ったことがなかった。これは佳奈が我慢してくれていないと成立しない話。何故なら俺が何も変わっていない自覚があるからだ。俺が変わっていないのに、佳奈が怒らないということは、佳奈が我慢していると結論付ける以外にないだろう。
まぁ、佳奈とは帰ってから一度話してみよう。それよりもアイリが来ない以上、図書館に居ても仕方がない。俺が現実世界に帰るために関係の有りそうな本は、軒並み読み尽くした。だから一人でここに居ても、やることがないのである。ザルツから話があると黒屋根の屋敷に呼び出されているので、そちらの方を先に済ませる事にした。
「つまりアウストラリス公が、貴族会議とやらを開催する為に動いているというのだな」
黒屋根の屋敷の最上階に位置する、執務室と思しき部屋で俺とザルツは話をしていた。どうやらここはザルツが執務室として使っている部屋のようである。自分の屋敷なのに自分の屋敷ではないような感覚だ。施主の俺が知らぬ間に、最上階は「なんということでしょう~♪」というぐらい、大改造されていしまっていた。
「それで情勢はどうなのだ?」
ザルツが聞いてきたので、国王派、宰相派、貴族派、中間派の配分について説明。また国王派の三派、貴族派の五派についても、俺が知りうる限りの情報を話した。するとザルツの顔がみるみる険しくなっていく。
「宰相派が二割しかいないのなら、主導権がまるで取れないではないか」
「そこは国王派と組んで押さえている」
「それでも過半数には達しておらぬ。なんという脆弱な」
宰相閣下の地盤はもっと固いと思っていたぞと、ザルツがこちらの方を見てくる。いやいや、実は危ういところを一世紀以上も維持し続けてきたんだよ、宰相家は。ノルト=クラウディス家は、歴代の才覚で権力を維持してきたのだ。だが、そんな事をザルツに言っても商人だから無駄な話だろう。暫く考え込んでいたザルツは、改めて俺に言ってきた。
「宰相閣下が主導権を維持するには、貴族会議の招集を阻止するしかない。その為には貴族派を四割程度切り崩しておかねばならぬな」
四割も? 俺がその事について聞くと、中間派が不確定だろう、これに備えて切り崩しをしないといけない。俺は僅かな説明で、ここまで分かるのかと、ザルツの指摘に関心したのである。
「公爵令嬢の策を何としても成功させねばならぬ。ロバートからある程度は聞いている。これは我が商会の重要課題だ。いいな、グレン」
「ああ、元よりそのつもり」
「アウストラリス公の狙いはただ一つ。宰相閣下の失脚だ。それを念頭に置けば良い」
ザルツは本丸をズバリと言ってのけた。まさにその通り。アウストラリス公にとって、小麦問題なぞ単なる名分に過ぎず、貴族会議の開催はその為のステップでしかない。
「今や宰相閣下と三商会陣営は一体。アウストラリス公がフェレット=トゥーリッドと一体なのと同じこと。ここで閣下に事あらば、一体である我々にも累が及ぶ。力ずくでも貴族会議の開催を阻止するのだ!」
ザルツの言葉に珍しく力が入っている。「力ずくでも貴族会議の開催を阻止せよ」なんて、貴族が聞いたら卒倒しそうな言葉がザルツの口から出てくるなんて思いもしなかった。ザルツは俺にリサがこの件を知っているのかと聞いてくる。言うまでもないじゃないか。「もちろん」と答えた後、俺はリサの動きについて話す。
「リサはアウストラリス派に属する貴族に頼んで、令嬢が企画する慰労会への招待状を派内に配る為に動いているところだ」
おお、そうか。そう返事をすると、ザルツはニヤリと笑った。リサが動いているなら結構な話だ。私もジェドラ、ファーナス、シアーズらとこの件に関して協議を行おうと、上機嫌で話す。ザルツとの協議の結果、ザルツは三商会勢力を連携すること、俺はクリスやレティらを側面支援することで役割を分担する事になった。
――アイリは昨日も図書館に来なかった。これで三日連続だ。どうして現れてくれないのか、気が気ではない。一瞬アイリのクラスへ行こうかと思ったのだが、行ってもいない公算が高いのである。ゲーム設定なのか、アイリのクラスで顔を合わせられた事が一度もないのだ。俺が悶々としている中、魔装具が光った。
『常在戦場』団長のグレックナーから連絡が入ったのだ。組織改編の承認の為、屯所に来てくれないかというのである。前回訪問から二週間も経っていない。にも拘わらず再編の承認とは。俺は了解したが、アイリを連れて行けないとは伝えられなかった。知らせるのが怖かったからである。だが、そんな状態でも、貴族会議の話はどんどん進んでいく。
「アウストラリス公、内大臣府に貴族会議の招集を建議!」。『週刊トラニアス』の紙面に貴族会議のタイトルが躍った。平日初日の朝、アウストラリス公が内大臣府を訪れ、内大臣トーレンス候と会談。その席で貴族会議の招集を建議、トーレンス侯はこれを預かり王宮に参内し、国王陛下がアウストラリス公の建議を受領したと書かれている。
これによって今後の焦点は貴族会議開催に必要な、全貴族の三分の一の賛成が得られるかどうかに移った。これまで貴族界の底流で静かに渦巻いていた宰相と貴族派第一派閥の領袖であるアウストラリス公との戦いが、公然とした形で浮上したのだ。この事態を受け、各誌『週刊トラニアス』に対抗するかのように、
「貴族会議招集の可否。勝負の三十日!」(『無限トランク』)
「各派閥の動き活発化! 貴族会議の建議を巡り」(『
「貴族会議開催の有無。鍵を握る各派閥の動向」(『
「小麦問題の根本的な解決に光明!」(『翻訳
各誌、号外のトーンが異なっているので興味深い。『翻訳蒟蒻』はオーナーである、アウストラリス派の貴族イゼーナ伯爵家の意向が働いたのか、アウストラリス公の建議によって小麦問題が大きく前進するといったトーンで書かれているので、これは無視してもいいだろう。情緒で書いた記事は報道ではなく、扇動である。
対して『無限トランク』の記事は、招集の可否についての詳細が書かかれている。国王陛下がアウストラリス公が出した貴族会議招集の建議を受領した事によって、陛下が受領した日から起算して三十日後までに、全貴族三千五百二十家の三分の一に当たる千百七十三家の賛成が得られなければ、貴族会議が招集されないという。
貴族家の総数を初めて知ってビックリした。このノルデン王国にそれだけの貴族がいるのかと、素直に驚いたのである。よくもまあ、三千五百二十家もあるもんだと。なのに高位家と言われる公爵家が五家、侯爵家が七家、
そういえばエレノ世界の貴族制度。高位家と伯爵家、伯爵家と子爵家との間には、隔絶された大きな差があると聞いたことがある。確かにクリスのように令嬢と呼ばれるのは伯爵家以上の出の者。間違っても子爵家や男爵位の出の娘を令嬢とは言わない。だからレティも以前は息女だった。よく考えれば令嬢と呼ばれる女性はごく僅か。
その事を改めて思い知らされる貴族の数だった。このエレノ世界はカーストがキツイ世界なのは分かっていたつもりだが、貴族界のそれは平民階級よりも更にキツイ。三千家以上ある貴族家で、高位家は僅か二十家しかないのだから。割合にして一%を切る、〇.五%余りにしか過ぎない。貴族界の頂点は余りにも尖っている。
『無限トランク』の記事には、貴族会議の招集に賛成する貴族が千百七十三家以上に達した場合、どうなるのかについても書かれていた。貴族会議の開催に賛同する貴族が、全貴族の三分の一を越えた場合、賛成した貴族に対し意思確認が行われる。ここで賛成の意思を示した貴族が全貴族の三分の一を越えれば、貴族会議の招集という運びになるのだ。
確認期間は十五日。貴族会議招集の賛成意見提出期限の終了後を起点としての十五日というから、確認作業も大変なのではないか。少なくとも千百七十三家以上に確認しなければいけないのだから。しかも十五日過ぎても確認できない場合、招集賛成は無効になるというのだから驚きである。
その理由は勝手に委任状を書いて提出した例が過去にあったからだという。今から二百十年前の話である。貴族会議を招集しようと建議を行ったバルデミューズ伯という
それが貴族会議開催時に明らかとなり、時の国王ダルータ二世が激怒。委任状捏造の罪を問われてバルデミューズ伯爵家は改易。伯爵家の者は神罰を受けたと書かれていた。事態を重く見たダルータ二世は、同じような事があってはならないと、貴族会議招集の条件を改めた。
貴族会議招集に賛成した貴族に対し、再度意思確認を行うようにしたのである。結果としてそれが貴族会議開催への大きなハードルとなり、バルデミューズ伯の件以降、たった一度しか開かれていないという。このような話を知れば、貴族会議が長年行われなかった理由も理解できるというもの。
貴族会議の招集と開催には、予想以上の非常に高いハードルがあったのだ。このハードルをアウストラリス公が乗り越えられるのだろうか? それはひとえに、貴族勢力各派の動向にかかっていると言っていいだろう。
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