385 クリスの号泣
俺の前で号泣したクリス。そのクリスが落ち着いたのを見計らい、従者シャロンに後事を頼んだ俺は、トーマスを連れて貴賓室の外に出た。取り乱した主の姿に戸惑う従者。トーマスは暴動発生後の状況について話すと、溜息を付いた。
「今日もお休みされた方が、と申し上げたのだが・・・・・」
「今日は行く、と言って譲らなかったのだな」
「ああ。グレンの言う通りだよ」
その辺り言わなくても分かる。トーマスの話では、クリスは暴動の報を聞くとそのまま寝込んでしまったらしい。以降、喉に食事が通らない状況が続き、憔悴しきっているのだという。それでも今日は学園に行くと、トーマスとシャロンの反対を押し切り、無理を押して登校してきたとのこと。どうしても俺に言いたかったんだな、クリス。
「本当に暴動が起きてしまった・・・・・」
「ああ、そうだな」
「グレンは事情を・・・・・ 知ってるよな」
トーマスにはこれまで、乙女ゲーム『エレノオーレ!』で発生する暴動と宰相失脚イベントについて、何度も話してきた。それはトーマスが何度も何度も聞いてきたからで、トーマスの脳裏には、常に「暴動」が念頭にあったのである。しかし一方で、『オリハルコンの大盾』の配備や、『常在戦場』の拡充については、話していないので全く知らない。
「犠牲者は出ていないという話だが・・・・・」
「万全ではなかったが、備えていた効果はあった」
「やはり、備えていたのか!」
確信があったのだろう。俺の話にトーマスは頷き、一人納得している。
「グレンだから、それぐらいの事はしていると思っていたよ」
俺がどんな備えをしていたのかを聞くこともなく、トーマスは言う。トーマスが信頼してくれているのは有り難いが、俺もどこまで有効なのか手探りの部分もあるので、素直に喜べるような心境にはない。そんな話をしていると、貴賓室の扉がそっと開いた。シャロンが小声で中にと声を掛けてくれたのだ。俺とトーマスは、ゆっくりと本室に入る。
中に入ると、クリスが
「先程は取り乱したところを見せてしまい、申し訳ありません」
クリスは座ったまま頭を下げた。
「お嬢様! お下げになさらなくても」
「私達にお気を使われずに」
トーマスとシャロンが恐縮している。俺は言った。
「普段、泣くこともままならないんだろ。いいじゃないか、俺達の前ぐらい」
「そうです。グレンの言う通りです」
「お嬢様。私はそうしていただきたいです」
俺の言葉に、トーマスとシャロンが続く。確かにクリスはお嬢様。対する俺達は平民だが、同時にクリスのことをよく理解している面々だ。逆もまた然りな訳で、改まって頭を下げられたって、俺達が困るだけの話。
「私は・・・・・ 私は・・・・・」
「どうしても言いたかったんだろ、俺に」
クリスは小さく頷いた。聞かなくても分かるじゃないか、そんなこと。
「話を聞いた時、遂に来たと眼の前が真っ暗になってしまいました。それなのにお父様や兄様は・・・・・」
そこでクリスは俯いてしまった。どうやら暴動の発生という話だけで、ショックを受けた訳ではないようである。宰相閣下や次兄で宰相補佐官のアルフォンス卿の暴動に対する受け止め方を知ったクリスは、自身との大きな感覚の相違に絶望してしまい、その結果倒れてしまったようである。
この話はクリスの精神衛生上にとって良くない。そう思った俺は話題を変え、昨日ドーベルウィン伯で聞いた暴動の詳細を話すことにした。
「じゃあ、八百人ぐらいの群衆を四百人で抑えたというのか」
「ああ。今、三者協議の警備で不在の第二、第三近衛騎士団と『常在戦場』の三番、四番警備隊がいない状況で、よく抑えたと思うよ」
話を聞いたトーマスが驚いている。トーマスも戦士属性であり、普段から鍛錬しているのだから、少数で多数を抑える難しさはよく分かっている筈。だから驚くのも無理はない。対してシャロンは、トーマスとは別の部分で感心している。
「それでよく怪我人が出ませんでしたね」
「ああ、ドーベルウィン伯の指揮宜しきを得たからだ」
「己の名を賭けて、一切を不問とするとは随分と大きな賭けをなされましたね」
クリスも俺の話を聞いて少し落ち着いてきたようだ。群衆に対して「解散すれば一切を不問とする」というドーベルウィン伯の呼びかけを「大きな賭け」だと言ったのである。クリスは目を瞑ったまま、静かに聞いてきた。
「ですが、次にこのような状況が起こった際、同じ策が通るのでしょうか?」
「・・・・・難しいと仰られていたな」
隣席のトーマスとシャロンから溜息が聞こえる。俺はスピアリット子爵とドーベルウィン伯のやり取りについて話をした。そして子爵が「
「それは剣聖閣下の仰る通りですわ」
先程まで泣きじゃくっていたクリスとは一変し、キリッとした表情で断言した。
「父上も兄様も小麦価が落ち着けば事態が収拾できるとお考えですが、私は違うと思います」
そうだったのか。クリスの話で合点がいった。クリスが倒れた原因である家族間の相違とは、暴動の原因に対する見解の相違であったようだ。今回の暴動。小麦価に釣られた他の作物価格の値段についての諍いから始まっている。根源にあるのは小麦価の高騰と考えるのが自然だろう。だがクリスは、それとは違うと考えているようだ。
「小麦価格の高騰は呼び水にしか過ぎません。暴動の根源は民衆の不満です」
「お嬢様!」
クリスの言葉をトーマスが静止しようとした。クリスの言おうとしているそれは体制批判、すなわち父ノルト=クラウディス公、宰相閣下の施策に対する非難そのものだからである。
「民衆が小麦の価格が高いことが問題だと思うならば、宰相府に赴き、それを訴えればよいのです。しかし、それを誰もしようとはしません」
だが、クリスはトーマスの静止を払い除けた。これが倒れた原因だったのか。クリスは父兄と暴動の原因に対する見解の落差に絶望してしまったのである。
「何故ですか、トーマス。答えてみなさい」
「・・・・・」
トーマスはクリスからの問いかけに窮している。横からチラ見する限り、質問の意味が分からずに答える事が出来ないのではなく、答えを口に出せないのは明白。乙女ゲーム『エレノオーレ!』では、暴動が起こった失政の責を問われて失脚し、没落する宰相家ノルト=クラウディス公爵家。その話を何度も聞いてきたクリスから見て、父兄の危機感は無きに等しい。
「無駄だからです。聞いてもらえない事が分かっていれば、わざわざ訴えに行く者なんて誰もいません。聞く耳が全くないのは、危機感が無いに等しいこと」
クリスは宰相府も宰相閣下もバッサリと切って捨てた。このエレノ世界、お上に対してモノを言うこと自体が半ばご法度。窮状を訴えること自体、許されない空気がある。だからいくら苦しかろうと、宰相府に誰も訴え出る者は皆無。訴えが通る訳もなければ、罰されるしかないのに、わざわざ申し出るなどといった自殺行為に及ぶ者はいない。
「だから民衆は実力行使に及んだ。今回は抑えられたでしょう。しかし次に暴動が起こった場合、同じやり方は通用しません。民衆側も学習するのですから。そこが分かっていないのです」
家族であろうと容赦がない。クリスの手厳しい指摘、全くその通りである。次、もしも暴動が起こった場合、これ以上の規模になるとスピアリット子爵は言った。それをクリスは民衆の「学習」だと捉えているのである。これに対し従者トーマスもシャロンも困惑の色を隠せない。主が仕えている家を公然と批判しているのだから当然だろう。
「今回の暴動、群衆の半数程度の人員で抑えることができたといいます。ですが、今の備えでは対処できないのは私のような門外漢から見ても明白。それを今回は対処できたからだと何も手を施そうとしないのは、見て見ぬ振りをしているのと同じことです」
「どうしてそうなるのだろうか?」
「簡単ですわ。予算がないからです」
俺の質問にズバリと答えた。要は予算がないから手が打てない。だから仕方がないので、見て見ぬ振りをしているのである。
「やらないことも政治ですから」
「それは・・・・・」
クリスの言っている意味が突飛過ぎて分からかなかった。「やらないことも政治」とはどういうことなのか?
「決定し、実行する事も政治ですが、その逆も政治なのです」
実行するには費用が要る。だから予算が少なければ、やらない選択をして費用がかからない決断をする。そうすることによって、費用がかからない、つまり予算内で事を収めることができる事になるから。つまり「決定し、実行する事」も政治ならば、「決定せず、実行しない事」も政治だと。
「ですから、剣聖閣下の申されたのは正しいのです。次の備えを行わない状況を変えるには、政治をするしかないのですから」
なるほど、そういうことか。今の施策を変えるには、政治を動かして変えればよいと。しかしどうやって政治を動かすというのだろうか? 疑問に思いながらクリスを見ると、いつものようにキリッとした顔になっている。その顔で俺に尋ねてくる。
「グレン。襲われたお店はどうなったのですか?」
突飛な質問に、一瞬固まってしまった。俺が状況を調べたトマールから聞いた話では、ラトアン広場周辺の店が群衆に襲われて破壊されたという話だけ。その後の事については聞いていない。だから「分からない」と答えるしかなかった。それを聞いたクリスが言った。
「では、今から見に行きましょう」
「はぁ?」
見に行くだと! クリスのあまりにも突然過ぎる思いつきに、思わず声が出てしまった。
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