358 事実と成果と

 俺達はアイリの故郷ドラシド村に小麦を下ろし、急ぎ馬車でリッチェル城に引き返していた。わずか数時間という短い滞在時間の中、小麦をローラン家の倉庫に下ろし、村人たちに小麦を分け与える手立てを講じることができたのである。


「グレン、小麦のお金の話どうなったの?」


「ああ、あれか。結局、寄付することになったよ」


「寄付?」


「余分に降ろした小麦がそれほどなかったから、そのまま譲渡する話になったんだよ」


「えっ? いいの?」


「いいよ」


 俺の言葉にアイリが驚いている。アイリ自身が全く知らない出生の秘密を知る代わりに、小麦の代金がチャラになったなんて、とてもではないが本人に言えないからな。俺はローラン夫妻から聞いた話を口外しない代わりに、ローラン夫妻は俺がスチュアート公にまつわる話を知っていることを口外しない。それがローラン夫妻と俺との約束。


 俺にとってもローラン夫妻にとっても得るものはない話し合いだった。当初、俺はローラン夫妻がスチュアート公に対して、事の次第をつまびらかに話すことを求めていた。というのもアイリの出生の秘密こそが乙女ゲーム『エレノオーレ!』の肝であり、この部分がクリアされないとゲームが終わらないからである。


 この『エレノオーレ!』にはもう一人のヒロインがいる。レティだ。レティの方のクリア条件は「リッチェル子爵家の立て直し」。レティは攻略対象者とこの問題に取り組む事でクリアするのだが、これをレティは攻略対象者を頼らずに独力でやりきってしまった。しかしゲームはエンドとならず、俺はここに居るまま。


 ということはアイリのルートがクリアされなければゲームは終わらないという話になる。本来ならばアイリが恋仲となった攻略対象者とスチュアート公が対面することで事実が明らかとなってクリアされるのだが、モブ外である俺と恋仲になってしまったが為に、そのままでは事実を明らかにすることが不可能となりクリアできなくなってしまった。


 だから俺は封書でスチュアート公に伝えようとして動かそうとしたのだが、梨のつぶて。その代わりの手としてアイリの養父母ローラン夫妻を説得してスチュアート公に働きかけようとしたが、これも成らずとなってしまった。俺がこれ程までに躍起になっているのは、ゲームが終わらないと現実世界に帰れないからだ。


 この世界に居ても俺とアイリが結ばれることはない。もちろんクリスとも。俺が現実世界に帰るしかないのである。そうしなければ、皆が幸せにはならない。今日のローラン夫妻の話を聞いて、俺はそれを確信した。だが、帰るための手立てであるゲームエンドへの道が塞がってしまった訳で、今後はシナリオに沿って、クリアを見出していくしかない。


「次、みんなと会えるのは春休み。冬休みと春休みの間に顔を合わせられたから良かったかな」


 アイリは笑う。この笑顔を見たら手放せないよな、ローラン夫妻も。特に妻室であるラシェルにとっては主の忘れ形見。自分の意思で手放せる筈もないだろう。馬の繋ぎ変えを終え、馬車が走り出す頃には空は夕暮れに。そしてリッチェル子爵領に入ると夜も更けて、リッチェル城に俺達が到着したのは午後十時過ぎの事であった。


 ――俺とアイリ、そしてレティがリッチェル城を出発したのは午前九時のこと。当主であるリッチェル子爵ミカエルをはじめ、ダンチェアード男爵夫妻、家付き騎士のレストナック、執事長のボーワイドに侍女長のハーストらリッチェル家中の者に加え、ザイザルス・コワルタやババシュ・ハーンら有力者ラディーラも見送りに来ていた。


 そして高速馬車の出発に際しては、ターバンに幅の広い蕃刀を差した有力者ラディーラ達がテンプクという縦笛と、ガンターという大きな鈴をバチで叩いて中東の音楽のような曲を奏でている。旋律こそ現実世界に似たような曲があるだろうが、高い縦笛の音と、低い鈴の音との組み合わせが独特で印象的である。


 音楽が少ないノルデン王国にあって、テンプクという笛とガンターという鈴で音楽を演奏するというのはリッチェル子爵領の独自文化なのだろうが、長い歴史の中で培われた旋律だと思うと何か感慨深い。レティが言うには、こんな事は初めてらしい。演奏も初めて聞いたという。おそらくは小麦を持って来たお礼なのだろうと、レティは推測していた。


 リッチェル子爵領の地主兵ラディーラの家々に伝えられるテンプクとガンターの奏法。レティすら聞いたことがないというのだから、おそらくは秘伝なのだろう。素朴だが、一度耳に入ったら忘れられない曲と音色で、有力者ラディーラ達は送り出してくれた。城を出てリッチェルの街を通ると、領民が沿道に並んで頭を下げている。


 これは領内に小麦をもたらしたリッチェル子爵夫人レティシアに対する敬意から来る行動なのだろう。沿道に人が途切れる事はない。両側にズラッと人が並んでいる。こんな光景、現実世界でもエレノ世界でも見たことがない。今、走っている馬車は俺達が乗っているこの一台だけなので、領民はレティに頭を下げているのだ。


「ふぅ。困ったものよねぇ」


 レティがため息をついた。聞くと俺達がいない間、レティは大歓待を受けたらしい。小麦を受け取った領民達が礼が言いたいとリッチェル城に押し寄せ、列をなしたというのだ。そんな領民を無視することもできず、尖塔の窓から手を振らなくてはならなかったそうである。


 加えて領内の有力者ラディーラが次々と挨拶に訪れてきたので、直接会って礼を受けなくてはならなくなり、その対応で昨日一日が終わってしまった。レティが会った有力者ラディーラ達は、小麦を持ってきた俺にも挨拶を行わなくてはいけないと口を揃え、挙って歓迎の催しを開くべきだと主張したという。実にとんでもない話だ。


「だから領地を離れることができてホッとしたわ」


 街を抜けて沿道に人がいなくなったのを確認すると、レティは安心した表情となった。俺達が領内に入った時には夜だという事もあって、誰の出迎えもなかったのだが、帰るときには城や沿道に見送りの人が溢れていたのだから、あまりの違いにゲンナリするのも無理はない。今日の出発を早めたいと言ったレティの気持ちは分かる。


 当初、リッチェル城からの出発は今日の夕方か、明日の朝の予定だった。というのも、俺とアイリがドラシド村に向かってハイタッチで戻ってくるので、アイリが休むヒマがないだろうと、出発をずらして時間を空けるつもりだったのだ。ところが俺達が帰ってくるなり、レティが出発時間をなんとかならないか、と言い出した為、翌朝の出発となった。


「アイリス、ごめんね」


「ううん、大丈夫よ。気にしないで」


 気遣うレティにアイリは言った。今の所アイリの体調は良さそうなので問題はないだろうが、連日の移動で疲れているだろう。若い体に戻って鍛えている俺でも、これだけ馬車移動が続くと体が痛くなってくる。


 こちらでは馬車での話だが、現実世界で運送の仕事をしている人なんかは、体に相当な負担があるのではと思った。こんな事一つとっても、体験してみないと分からない。人間は経験の生き物なのだとつくづく思う。


「アイリ。今回は長旅だ。何かあったら言うんだ」


 俺の言葉にアイリは頷いた。これからの予定は「セラミスの切り通し」を抜けてリッチェル領外に出た後、幹線に至る。後はそのレジドルナートラニアスを結ぶ幹線を南東に走り、一路トラニアスへと高速馬車が昼夜兼行で走り続ける予定である。到着予定は明日の十八時。先週の平日三日目の夜に出発してから、丁度一週間。


 その一週間でフレディの実家チャーイル教会とデビッドソン主教が管理するナニキッシュ教会、そしてコルレッツ家を回り、リッチェル子爵領。そしてアイリの故郷ドラシド村に至り、王都トラニアスに戻るという慌ただしいスケジュール。アイリもレティも疲れていないと言ってはいたのだが、「セラミスの切り通し」を越えると二人共眠っている。


 かくいう俺もいつの間にか眠りについていて、起きたのは夜に止まった駅舎。それも御者に起こされてのものだった。ここで軽い食事を摂って休憩し、再び高速馬車へと乗り込んでトラニアスに向かう。俺達三人がみんな揃って起きて話したのは翌日の夕方になってからの事。もうトラニアスが目の前というところだった。


「アイリス。今週の学園、休もっか」


「えっ」


「だって、二週間かかる旅を一週間でやったのよ。疲れているに決まっているじゃない」


 レティは熱弁を振るう。確かに無茶な日程になったのは間違いない。本来ならばチャーイル協会で一日、リッチェル城で二日、ドラシド村で一日休まなくてはいけないくらいだった。それを馬車に乗り続けるという、強行スケジュールで乗り切って帰ってきたのだから疲れるのは当たり前。馬車に乗る疲れは、自動車に乗った疲れの比ではない。


 ただ、一刻も早く小麦を届けなければならない状況だったことや、届けた後の歓待を受けるのが大変だった為に無理を押して帰ってきたのだ。乗るも乗らぬも大変だという状況で、急いで帰る選択をしたのである。そのような中、疲れの色を見せるアイリの事を思って、レティは言ったのだろう。レティの提案を受け入れたアイリは、俺に聞いてきた。


「グレンはどうするの?」


「出るのでしょ。どうせ」


「はぁ?」


 何故分かる! 言われてギョッとする俺にレティが続けた。


「だって早く生活サイクルを戻さなきゃ、とか思っているに決まってるじゃない。グレンなんだから」


「確かにそうよね」


 理由を聞いて、アイリが笑い出した。しかし図星だから何も言えない。明日の授業、アイリとレティは休むが、俺は出席する予定。理由は残念ながらレティの言う通り、これからは読まれないようにしなければ。馬車が王都トラニアスに入った頃にはもう日が沈んでいた。夜、高速馬車が学園内の馬車溜まりに入り、俺達の旅は終わったのである。

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