349 イゼーナ伯爵夫人

 ケルメス大聖堂の受付近くで起こった車椅子ババア、イゼーナ伯爵夫人の平民母子いびり。「喜捨の額で人の価値が決まる」とのたまうのを聞いた俺はその場に飛び込み、三〇〇〇万ラントを母子の前に出して、喜捨するように促した。ババア理論によれば、ババアより母子の方が多くの喜捨をすれば、ババアより母子の方がグレードが高くなるからだ。


 その騒ぎを知ったケルメス宗派の長老、ニベルーテル枢機卿ら三人の枢機卿が近づいてきた。俺がこの場に来た時から、ずっと地べたに這いつくばっていた親子に、アリガリーチ枢機卿が立ち上がるように促す。それを受けて頭を下げながら親子はゆっくりと立ち上がると、ニベルーテル枢機卿は皆に向かって声を掛けた。


「良いですかな。昔ジョゼッペ・ケルメスは申されました。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と」


 こんなところでまさか福沢諭吉だったか、そんな言葉を聞くとは思わなかったぞ。しかしジョゼッペ・ケルメスは、こんな事を言ってエレノ世界で教祖様に成り上がったのか。ニベルーテル枢機卿はそう言うと車椅子ババア、イゼーナ伯爵夫人に同意を求めた。ババアは首を縦に振る。宗派の権威の前にして、同意をせざる得なかったのであろう。


「すなわち、富める者も貧しき者も、天の前では皆等しきということをお示しになりました」


 ニベルーテル枢機卿が説法を続ける。実に尤もらしい話だ。群衆も皆静かに拝聴している。車椅子ババアが居心地が悪そうにしながらも黙って聞いているのは、まさにケルメス宗派の長老という権威の為せる業なのだろう。そして枢機卿はこう締めくくった。


「これはお金の額では、物事の価値が決まらぬことを世にお示しになったのでございます」


 お金で物事の価値が決まらない。つまりニベルーテル枢機卿は「人の価値は喜捨の額で決まる」という、車椅子ババアの論理を完全に否定したのである。ババアの方を見ると、顔面蒼白で震えているように見えた。これは怒りではなく、おそらくは宗教的権威から完全否定された事に恐怖しているのだろう。ニベルーテル枢機卿はババアに語りかける。


「イゼーナ伯爵夫人。せっかくお越しになったのですから、パルテス堂で礼拝を」


「パ、パルテス堂に!」


 車椅子ババアが驚いている。そんなに凄いところなのか、パルテス堂って。ニベルーテル枢機卿はアリガリーチ枢機卿にババアを案内するように告げると、ババア達の一行はアリガリーチ枢機卿後ろを助け舟とばかりに、ホイホイとついて行った。こうしてババアがこの場から退場すると、ニベルーテル枢機卿は群衆に言葉を発した。


「このケルメス大聖堂に集われた皆さん。この日、参拝に訪れられたことも何かの縁。さぁ、これから天に向かって拝礼しましょう」


 ケルメス宗派の長老からの言葉に、有り難い御言葉を頂戴したとばかりに、群衆は深々と頭を下げた。その中でラシーナ枢機卿がババアにいびられていた親子を別室へと案内し、周囲の者が地面に置いていたお金を持っていった。俺はニベルーテル枢機卿の誘導に従い、その後ろに付いて受付横の通路を通ったのである。


「失礼ですが、パルテス堂とは?」


 ニベルーテル枢機卿と共に別室に入った俺は、ババアがアリガリーチ枢機卿の案内を受けていたというお堂の事について聞いてみた。


「高貴な身分の者だけが礼拝を許された礼拝堂じゃよ」


 パルテス堂は高位家の者でなければ礼拝できないお堂であるらしい。なんでもその昔、パルテスというケルメス宗派の指導者が、高位貴族の支援を得てケルメス大聖堂の大改修を行ったのであるが、その見返りとして高位家の者しか参拝できないお堂を立てたというのである。


「では、伯爵夫人は・・・・・」


「そうじゃよ」


 フォフォフォっとニベルーテル枢機卿は笑った。イゼーナ伯爵家は高位家ではない。高位家ではない者がパルテス堂を参拝できるというのは、光栄な事のはす。


「伯爵夫人もさぞや満足された事じゃろう」


猊下げいか。申し訳ございません」


 俺は思わす頭を下げた。あの場を取りなすために、本来ババアが参拝できないパルテス堂を開いたということ。ニベルーテル枢機卿に迷惑をかけてしまったのだ。頭を下げずにはいられなかった。


「何も遠慮することはない。こちらも多額の喜捨を受け取ったからのう」


「しかし・・・・・」


「喜捨の多寡で人の価値は決まらぬが、喜捨の多寡でこちらが動くこともあるという事じゃよ」


 ケルメス宗派の長老はあっけらかんとそう言った。これはババアの喜捨よりも、俺が出した三〇〇〇万ラントの方が多いということ。ニベルーテル枢機卿は俺の喜捨に対して、ケルメス大聖堂が報いたと解釈するように言っているのだろう。俺はこの際だからと先日ムファスタで見た旧聖堂、インスティンクト聖堂について聞いてみた。


「ほぅ。旧聖堂を見たのか」

 

「『本能寺ホンノウジ』と書かれていましたが・・・・・」


「そうじゃよ。『ホンノウジ』じゃ。良く読めたな」


 単刀直入に言った俺に驚きつつも、ニベルーテル枢機卿は肯定した。


「旧聖堂はその昔、旧教と呼ばれるモルト教の総本山でな。『ホンノウジ』と呼ばれておったのじゃ」


 その話、『常在戦場』ムファスタ支部のジワードから受けた説明と同じもの。


「本能寺は三〇〇年程前、モルト教が禁教と定められた事によって、ケルメス宗派の聖堂、インスティンクト聖堂となったのじゃ」


「禁教?」


「ああ。話せば長くなるがアルービオ朝の成立に伴ってな、王朝とモルト教を信仰する人々との間に確執が起こったのじゃ」


「その因は?」


人身御供ひとみごくうじゃ。天に生贄を捧げる事によって魔力を得るモルト教の儀式をアルービオ朝が禁じた。ここから確執が起こった」


 モルト教はマジモンの生贄を出して儀式をしていたというのか。いくら何でもヤバすぎるだろ。まぁ、現王朝が長く続いているのも、こうした儀式を禁じた事が大きいのだろう。しかしこの生贄禁止に対して、モルト教の聖職者は信者を煽って激しく抵抗した。やがて王都トラニアスと古都ムファスタとの対立に発展していく。


「その時に言われていたのが「敵は本能寺にあり!」という言葉じゃ。この掛け声の下、王朝とケルメス宗派は一体となってモルト教を追い詰めた」


 ここで「敵は本能寺にあり!」が出てくるのか。このエレノ世界にある本能寺はモルト教の生贄の儀式を巡って、現王朝とケルメス宗派と対立した。前王朝ムバラージク朝は何も言わなかったのに、どうしてアルービオ朝は口を出してくるのか? モルト教側はそんな感覚であったという。


 そもそもモルト教は前王朝ムバラージク朝以前から存在していた宗教で、古都ムファスタに根付いており、切っても切れない関係にあった。ムバラージク朝の成立によってノルデンの中心がトラニアスに移ろうとも、モルト教の総本山本能寺があるムファスタは、なおも存在感を誇っていたのである。


 そのモルト教の儀式に対して、新たに成立したアルービオ朝とケルメス宗派は手を結び、生贄禁止の通達を出してきた。モルト教側はこれを拒否。両者は激しく激突する。その過程でモルト教はケルメス宗派からの切り崩しを受け、それまでモルト教を信仰していた貴族や騎士、農民といった信者の多くは信仰から離れ、ケルメス宗派へと改宗していった。


 これによってモルト教の信者は激減。多くの寺はケルメス宗派の教会に衣替えをしたのである。王朝とケルメス宗派。二つの大きな力を前に、劣勢に立たされたモルト教。郊外部を軒並み制圧した王朝とケルメス宗派は、モルト教の牙城であるムファスタ内の切り崩しを開始する。


 これによって街の中にある多くの寺が聖堂となり、モルト教の寺は総本山である本能寺を残すのみとなった。そんなモルト教に最後まで残ったのは、モルト教の聖職者とムファスタの商人階級 彼らは最後の拠り所である本能寺に立て籠もり、激しく抵抗した。しかし多勢に無勢。最早これまでと遂に最後の拠点、本能寺を明け渡す事となってしまった。


 明け渡された本能寺は改修され、モルト教の総本山であったことから、ケルメス宗派において「旧聖堂」という扱いを受ける。しかし名称が本能寺からインスティンクト聖堂に改められるなど、モルト教色は一掃された。そして最後まで抵抗したモルト教の聖職者とその信者には厳しい処置が待っていたのである。


 モルト教は禁教と定められ、モルト教の聖職者には、禁教者であることを示す「八星十字」のワッペンを付ける事が義務付けられた。「八星十字」とは、八つ星と十字を重ね合わせた紋章で、この措置によってエレノ世界における「犯罪者」であることを示す印とされるもの。これによってモルト教徒は、永遠に犯罪者の烙印を押された形となったのだ。


 しかしモルト教への処分はそれに留まらなかった。モルト教の聖職者と共に最後まで抵抗したムファスタの商人階級にもその累は及ぶ。まず本能寺に立て籠もった商人階級の者には商売を営むことそのものが禁じられたのである。加えて多くの反抗者を出した商人階級そのものにも処分が下され、ノルデンの商人階級は低き身分に置かれた。


「それで商人が低い身分に・・・・・」


「そうじゃ。旧教の信仰に最後までこだわったのがムファスタの商人階級であった事から、ノルデンの商人階級は連帯責任を負わさせられたのじゃ」


 まさか本能寺が原因で商人身分が低い地位に捨て置かれることになろうとは。


「これは誰にも言えませぬなぁ」


 俺が言うと、ニベルーテル枢機卿が大きく頷いた。枢機卿の推測によれば商人階級を低い身分に置いたのは、モルト教を信仰するムファスタの商人階級が、財力を使って激しく抵抗したからではないかというもの。その抵抗に手を焼いた王朝やケルメス宗派の指導層は、財力を操ることができる商人を恐れ、商人を低い身分に置いたのではないかと言う。


「どうしてそれがお分かりに?」


「アルフォード殿の先程の振る舞いを見てそう思ったのじゃよ。フォフォフォ」


 なるほど。商人はここぞという時に容赦なくカネを注ぎ込んでくる。今回の車椅子ババアとの戦いだって「喜捨の額で人間の価値が決まる」なんてバカげた事を言うものだから、相手がその場で出せないカネを積んで黙らせた。その力を恐れてという仮説は納得できるもの。ひとしきり話をしたニベルーテル枢機卿は、部屋を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る