第185話 時渡の王子様➃


 ぴくっ


 指が動くと共に覚醒し、瞼を開けるとそこはさっきまでいたビルの屋上と幻想的な風景ではなく、ぼやけた視界に冷たいコンクリートに覆われた薄暗い地下空間が映るのみ。


 無機質な寒さに熱を奪われた指に痛みを感じ、状況を上手く呑みこめない頭でもポケットに入れて温めようという発想に至る。が、何故手袋をしていたはずの手がこんなにも冷え切っているのかという所までは至らなかった。


 ぐっ


 感覚の鈍った親指にそれでも分かる程の抵抗を感じた。僅かな痛みも。両手の親指同士を背中で縛られていたのだ。


「いたっ……」


 ただそれだけで身動きの殆どを制限されている事を実感した。たった一本の結束バンドのような何かを引きちぎる事も叶わない。


 見知らぬ薄暗い空間で普段のパフォーマンスを発揮できないというのは……


 何これ……何なの……どうして……痛い……寒い……怖い……怖い……怖い……怖い……


 芯から震える体が寒さからなのかも分からなくなる。ただ不思議と涙が出ていなかったのは好都合だ。


 まだ見なきゃいけないものが残ってる。見つけなきゃいけないものが残ってる。


「ミカラファ!!ミカラファどこ!!?」


 寒さに縮こまっている喉を押し開け叫ぶ。辺りを見渡しても人相も育ちも頭も悪そうな賊がいっぱいいるだけでそれらしき姿はない。


「ミカラファああ!!!みかっミカラファあああああああ!!!」


「ピーチクパーチクるっさいなぁ……俺ぁ親鳥やないで?」


 自分の叫び声に上書きされて足音が聞こえなかった。気づけば目の前でそう言っていた大男は、


 どさっ


 肩に担いでいた大きな袋を無造作に放る。その衝撃に中から「うっ」と小さなうめき声が聞こえて来て、


「お探しの品や、ありがたく受け取んな」


「ミカラファ!!!」


 バランスを崩しながら這いよると、もぞもぞ動く袋の口を背中の指で苦戦しながら開けた。中からは見慣れた姿が、けれども私と同じように縛られた状態のミカラファが出てきた。


「ぉ姉ちゃん…………ぅ……」


 弟は瞳を潤ませ抱き着けずとも私の胸に飛び込んできた。


 ガンッ!!ガシャーン!ガラッガラガラ……


 男に蹴られた空の一斗缶が物凄い勢いで転がっていく激しい音に、二人揃ってビクッと肩を震わせる。


 何!?


「礼も言えへんのけぇ!!!挨拶は基本やろがい!!!」


 至近距離で見下ろされる大男の剣幕に、今にも無情な暴力がこの身を猛威にかける想像に狩られ、弟がその場で泣きだすと同時に、


「ごめんなさい!!」


 私は訳も分からず謝っていた。抱きしめる事の叶わぬ弟を、それでも体全体を使って密着させる。


「頭ついてへんのか礼ゆぅたやろがい!!!」


 より一層凄みを増す。


 おかしい。何で私が礼を言わなければならないのか。それらの感情は恐怖の前には無力で。


「あっありがとう、ございます!!」


 全てが間違っていると自覚しているだけに、心が行違って生じた摩擦が精神の健全性を奪っていく。狂わせる。


「よくできました」


 今の激怒が嘘だったかのように大男はニッコリ笑いかけて来た。豹変ぶりが心臓を鷲掴みにするかのような恐怖に拍車をかけて。


「物色ターイム!」


 大男は私達の買い物袋を部下から受け取ると、中身を手に取っていく。お菓子を見ては「ゴミやんけ」と部下に投げ、おもちゃを見ては「薄利ぃ」と部下に投げ、


「姉ちゃ……ぉ姉ちゃ……」


 弟は涙を流しながらも声を押し殺して、苦しそうに私を呼ぶだけで……そうだ……弟はまだチビだし……それを抜きにしても私より怖がりで……


 服を見ては「分かっちゃおったけどちっちぇぇわなぁ」と部下に投げ、


 だから今も……私よりずっとずっと怖いはずで……怖いはずなんだ……だから……


 端末を見ると「おっ開封前やんサイコー」とこれは丁寧に部下に手渡す。あぁ……汚い手で……持って行かれた……


 私まで泣いてしまったら弟が何にも縋れなくなってしまう……心が潰れてしまう……一生治らないトラウマになってしまう……


 プラスチックの雑な造形の置物を見ると、「腹の足しにもなんね」と踏みつぶした。


 私と弟が大道芸人からお礼として貰った物なのに……弟がおどおどしながらも頑張ったから、それを褒めてもらって、それで……あんなに嬉しそうだったのに……


 泣くな……泣くな……泣いちゃダメだ……!耐えるんだ!泣くな……絶対泣いちゃダメだ……!素振そぶりすらも見せるな!


 私の服の胸元を涙でぐじゅぐじゅにしていく弟を見る。


 だって……!


 大男から少しでも隠すように身をよじる。


 私は……お姉ちゃんだ……!


「金はどこやぁ~?まさか全部使い切ったりしてへんわなぁ~?」


 大男は私の前でしゃがみ込むと、その太い腕を伸ばし、


「おっとっと~、あれ見てみ?」


 キッと睨んでいた私が視線を向けると……歴史の表舞台に登場して以来、等身大の争いを大量殺戮へと変貌させた、愚かな人間の死への恐怖を紛らわせ、神へ至らんとする強欲を招き寄せ、その対価に血を要求する黒鉄の殺傷兵器が、


「銃や、見たこと無くても何かは分かるやろ?向けられる意味も」


 私の反応にニッコリとした笑みを返して、大男は私の上着の中に手を突っ込んでまさぐりだした。


「貧相な体やなぁ碌なもん食ってへんねやろおっ!あったあった」


 財布なんて持ってなかったから内ポケットに入れていたお金も奪われ、


 どっ


「きゃ!」


 興奮した大男に手荒く突き放されコンクリの床に体を打ちつける。そんな私に視線も送らず金額を数えていく。「結構使っとんな……まぁリカバリ効くでええか……」


 どっ


 衝撃を受けた大男が僅かによろけ、チャリンチャリーンと小銭が転がる。


「馬鹿にするな……お姉ちゃんを虐めるな!!」


 なんとっ弟がその小さな体で体当たりしていたのだ。大男は一瞬だけ驚いたようだったけどすぐさま弟の胸倉を掴み上げ、


「ええか子豚ちゃんよぅ聞けぇ、多分お前はのこぎりマダムに買われることになる。現金ニコニコ一括払いの優しい優しいお得意さんやぁ、衣食住に困らん寧ろ贅沢な程の暮らしが出来る訳なんやけど、ほんのり変わったへきでなぁ」


 ジタバタ足掻くも体格差のせいで届いていない。


「達磨が好きなんや。ほんで欠損抱えながら成長して自分に依存せざるを得やんなるのが最高らしくてなぁ、要するに……」


 ブルルゥゥゥン!!ブルゥゥン!!部下の一人がエンジンを唸らせる音が響く。


「一本くらい無くても問題ないって事や」


 放り投げられた弟が地面に体を打ち付けて「うっ」と痛みに硬直した所に、ブゥゥゥゥンブゥゥン!!激しい音を唸らせながらチェーンソーを持った男が近づいてきて、


 私が守らなきゃ……私が助けなきゃ……


 そう思ったのは覚えている。気づけば弟に覆い被さっていた。


「ぉ姉ちゃん……」


「止まれ!そっちは傷つけんな!」


 大男の声がチェーンソー男を制止する。


「でもかしらぁ、確かに顔は上物ですがまだまだ貧相な体したガキですぜ?もう少し育ってたら上客もついたでしょうが、これではねぇ。

 かと言って置いとくにも金が要るんで、売っ払っちまうにしても多少痛い目見といた方が買い手にも従順になりやすいし、余興としてはいいでしょう?」


 チェーンソー男とは別のニタニタ気味悪い男が言い終えるかどうかという時、


「ーーーーーー!!!」


 大男が獣が発狂したかのような名状しがたき声を上げ、その男を殴り飛ばした。怒髪天を衝く形相で鼻の骨が折れた男の上に跨った。そして殴る。殴る。殴る。


「思春期前の!!女の子は!!天使なんや!!!」


 鼻はひしゃげ、前歯は折れ、眼球は陥没し、頬骨が頬を破り、自分の血液が気管に入って咽る男に、荒い息を吐きながら手を止めた大男は尚も語り掛ける。


 チェーンソー男も銃男も止めようともしない。この場は今……この大男が支配しているんだ。


「第二次性徴の性差に戸惑いつつも体はどんどん成長していく事に対する焦燥を宿した瞳」


 恍惚とした笑顔を浮かべつつ殴る。


「まだくすぐったさの割合が快感よりも高い敏感な乳首」


 殴る。


「そもそも全身が性感帯なんや」


 殴る。


「やのに男を求める心を知らぬ穢れ無き無垢」


 殴る。


「あぁ~~ぁああ~ああ……!破瓜の痛みと絶頂を教え込む……それが……最高なんや分かったかボケェ!!!」






【余談】

新しい命を育む者も減少し、子供の価値は右肩上がりで上昇していた。

未来を託すために子を求める者もいれば、倒錯した想いを果たす為に求める者もいた。

故に人攫いが横行し、都市部には自警団があれど、権力者と癒着した者等の摘発は困難を極めた。

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