第98話 エンカウント②


 落ちる落ちる落ちる落ちる!!


 スローモーションで流れていく時間の最中、僕は藁にも縋る思いでジェニに手を伸ば――――――


 そうとして引っ込めた。この手を伸ばせば、ジェニならきっと握ってくれるだろう。でもこの狭い足場で僕を支えられるわけがない。


 下手をしたらジェニまで巻き込んでしまうかもしれない。だから僕は……………………


 パシッ


「え?」


 腕を掴まれた!?誰に!?ジェニだ!どうして!?なんで!?支え切れるわけがない!今すぐ離して!


 バランスを崩したジェニは、案の定僕もろとも宙に放り出される。


 なんで!?なんで!?なんで!?なんで!?なんで!?なんで!?なんで!?なんで!?


 落ち行くジェニの腕を掴もうと、ブジンさんが咄嗟に手を伸ばすが、ほんの僅かに届かずにスカッと空を切った。


 バッシャーーーーン!!


 っっっ!?!?


 冷たい!?痛くない!?水!?水槽か!!


 僕たち二人は奇跡的に巨大な水槽の中に落ちたようだ。足は着く。ジェニにも怪我は無いように見える。


「何考えてんだよ!!あのタイミングで手を掴んだらどう考えても支えきれないって分かってただろ!!?」


 びしょびしょの体で、びしょびしょになったジェニに色んな感情がパニックになって僕はつい声を殺しつつも怒鳴ってしまった。


「ごめん!!!!」


「はぁ!!?」


!!」


 だが自分でも分からないという風に、困ったように言ったジェニを見て、怒りは急速に収まっていった。


 そうだ。ジェニは僕が底の見えない落とし穴に落ちた時も迷わずに飛び降りて助けに来てくれた。


 …………何も考えてなかったんだ……ジェニは自分のことなんて何も考えずにただ僕を助ける為に……前回も……今回も……


 ………………


「……なんだそれ」


 気付けば口からはそう言葉が漏れていた。


 なるほど……考えてもみれば簡単な事だった……そんなジェニに依存していたのは僕の方だった……僕から見ればジェニは……英雄ヒーローだったんだ……


 ジェニの存在に頼り切っていたのは僕だった。そしてジェニはそれを良しとしてしまう。そうすれば負担がどんどん溜まっていって、いずれジェニは潰れてしまう。


 だからこその『距離を置け』か……


 ケケケケケ――――――


 ぞわっっっ!!


 瞬間的に今まで味わったことがないほどの恐怖が全身を駆け抜けた。立った鳥肌を気にする暇もなく後ろを振り返ると、


 悪魔が嗤いながらゆっくりと起き上がっていた。


 突き刺すような怖気に膝が独りでに笑い出す。吹き出す冷や汗が濡れた体を伝って水槽の中へ混じりこんでいく。


「なんだよあれ……」


 無理だ!無理無理無理!!逃げるとか戦うとかそう言う以前に、まず体が動かない!!


 思い出すのは今までの短い人生。加速した思考の中で過去の光景が爆速で流れていく。






「ぐすっ、ねぇ父さん。僕やだよぉ……なんで僕だけ皆と違うの?皆酷いんだよ……キモイとか、イタン?とか、アクマの子とか言ってさぁ……殴ったり石を投げたりしてくるんだよ……」


 僕の頭を撫でる手はとても大きく、帽子のように包み込む。


「皆弱虫なのさ。自分と違うものを受け入れることが出来ないんだ。分からないという恐怖に勝てないんだよ。だから自分と同じものだけを好む」


 父さんは優しく微笑む。


「……僕も同じが良ぃ……痛いのやだぁ……ぐすっ」


「アニマ。皆と同じが目標じゃあ、人生楽しくないぞ。一人一人外見も中身も似ているようで全然違うんだ!リンゴが美味しいと言う奴もいれば、硬くて食べにくいと言う奴もいる!焼いた方が美味いと言う奴もいれば、コマ切れにしないと食えないって奴もいる!

 尻尾があるかないかだけでそう自分を卑下するな!世の中にはもっともっと変な奴だっていっぱいいるぞ!」


「かわいそう……」


 父さんは首を横に振る。


!」


 細められた目は、にこやかでありながらも力強く。


「ひぐっ……僕も父さんみたいになれるかな?」


「なれるさ!人の痛みが分かるお前になら!」


「ずるっ……うん!」






「逃げろ!!!」


 ブジンさんのがなり声がホールに響く。


 『大丈夫。俺は死なない。必ずこの家に帰ってくる』


「はっ!アニマ!!逃げやな!!」


 バシャバシャと音を立ててジェニが水槽から出ようとする。


「くそっ!!早く通路へ飛び移れ!!エルエルは扉を開いて転移紋の起動を!!ウガチは俺についてきてくれ!!助けに行くぞ!!」


「分かったわ!!」


「ああ!!」


 嘘つき……お父さんは嘘つきだ……


「アニマ!!?」


 水槽の淵に手をかけたジェニが振り向いて僕を呼ぶ。


 『歴史をひっくり返すような新たな発見を必ず見つけて帰ってくる。きっとお土産にとんでもないおもちゃも持ってきてやる。だから父さんが帰ってくるまで母さんのことは任せたぞ。男同士の約束だ』


 再びバシャバシャと音が聞こえる。


 嘘つき……嘘つき……!


「アニマ!!!」


「はっ!?」


 ジェニの手が僕の肩を激しく揺さぶった。


「はよ!!!」


 切羽詰まった表情のジェニを見て、ようやく僕は走馬灯から戻って来た。後ろを振り返ると、悪魔は既にこっちに向かって来ていた。


 僕もジェニを追うように水槽の中をバシャバシャと進んでいく。淵を掴んでよじ登ったジェニは足をかけて跳躍する。


 僕もそれにならい足を掛けるも、強張る足はいう事を聞かずに、逆に引っかけてしまってドテッと無様に床に落ちる。


 致命的なタイムロスだ!痛みよりも先に悪魔を見ると、ニタリと嗤って恐ろしい速度で僕の方へと走ってきていた。


「ひっ!!」


「アニマ!!!」


 すかさずジェニが僕の手を引いて階段を目指して走る。階段を登った先には大扉があり、今エルエルがそれを開こうと横に備え付けられた遺物を操作している。


「あれ!?なんで!?」


「まだかエルエル!!?」


 焦るエルエルに怪物が声をかける。


「開かないわ!!電源が通って無いとしか……」


 その会話を聞いてか、僕に迫る悪魔がケタケタと悍ましい笑い声をあげた。


「そんな……そこまでするの!?電源が落とされてる!!これじゃ扉は開かないわ!!」


 エルエルの悲鳴にも似た叫びが僕の鼓膜を打った。


 その絶望的な報告に、脱兎の如く階段を駆け上っていた僕の膝から僅かに力が抜ける。


「……ここまでね……今からブレーカーを探してる余裕なんてないわ……」


「任せろ!!」


 項垂れるエルエルにすかさず怪物がそう言うと、重い扉に手をかけた。足を大きく開いてどんどん力を入れていく。


「無理よ!!電動なのよ!?人の力じゃどうしようもないわ!!」


 ぶるっと身の毛がよだち振り返ると、悪魔はもう目と鼻の先まで迫ってきていた。肉薄して始めて分かる。悪意だけで構成された笑顔が死の匂いを纏って僕たちの命を刈り取ろうとしている事の圧倒的なリアル。


 生態系の頂点に君臨していると驕っていた僕たち人間に、暴力的なまでに身の程を分からせる圧倒的存在感。


 それは正に天敵と表現するに相応しい。


 あ、これ死んだ……


 階段を半分以上登ったところで、大きく腕を振りかぶった悪魔に僕は本気で死を意識した。


 その瞬間するりと力が抜けて体がガクッと崩れ落ちた。


 その頭の上を死の音を立てながら悪魔の鋭い爪が掠めていく。


「はっ……はっ……はっ……はっ……」


 死んでた……!死んでた……!今のは確実に死んでた!心臓はもうはち切れんばかりに脈打っていて、肺は空気を思ったように取り込まない。


 悪魔の標的は、僕の隣で同じく動けなくなっているジェニへと移った。振りかざした腕は今度こそ外さないとばかりに正確にジェニをターゲットしている。


 だ、ダメだ……ダメだ!ダメだ!!


「はっ……はっ……はっ……はっ……」


 ダメだダメだダメだダメだ!!


「ダ……ァ……メ……ダっ……」


 過呼吸が!!くそっ!!声が出せない!!逃げて!!ジェニ!!ジェニ!!ジェニ!!


 加速しきった体感時間の中、悪魔の爪がジェニの心臓に向けて放たれる。


 体が……動かない!!ジェニ!!逃げるんだ!!ジェニ!!


 だが無情にも爪はもうジェニの命を奪う直前にまで差し迫っていた。


「ジェニ……」


 最後に僕にできたのは、恐怖を紛らわすように目をつむり、ただ張り上げることも出来やしない声でその名前を呼ぶだけだった。






 ガキンッ!


 まるで剣で弾いたような甲高い音が走る。


「俺の娘に手を出すな!!!」


 目を開けると飛び込んできたその大きな背中は、間違いなくだった。






【余談】

アニマたちがいる管理棟はクリーチャーズマンションの出口とだけあって一際大きく作られている。階段もかなり長く、一二階の間にはかなりの高さがある。

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