第38話 サボテンの芽

 それからも毎日、朝は温室に向かった。


 でもあまり手伝えることはなくて、窓を開けたり、あるいは閉めたり、じょうろに水を汲んだり、その程度のことしかできなかった。


 川内はいつも、「元気?」「かわいいね」なんて声を掛けながら水やりをする。


 慣れているはずなのに、ときどき、自分が話し掛けられたのかと思ってパッとそちらに振り向いてしまうこともある。

 川内はそんな俺に気付かないまま、柔らかな声で、穏やかな表情で、植物たちと接している。


 もしかしたら本当は、俺が朝、温室に来るのは迷惑なんだろうか、と不安になってくる。

 そもそも、最初から川内は、『一人でやりたい』と言っていた。

 気弱そうに見えて頑固なところもあるから、そこはもう揺らがないのではないだろうか。


 俺は実は、邪魔者なのではないだろうか。

 俺だけが、川内と二人で過ごしたいと思っているのではないのだろうか。

 俺だけが、この温室の中で異物なのではないだろうか。

 そんな不安が、毎日、俺の中に降り積もっていく。


 けれど今日も温室は、穏やかで暖かで居心地のいい空間なのだった。


          ◇


『今日、そろそろ、芽が出るかも』


 とコミュニケーションアプリで連絡が来たのは、朝、自転車を漕いでいるときだった。

 グループでメッセージが来たので、当然、尾崎と木下にも届いているだろう。

 俺は自転車を漕ぐ足の動きを速くして、心臓破りの坂を上りきる。


 自転車を停め、走って温室に向かうと、川内はしゃがんで植木鉢を覗き込んでいたが、こちらに振り向いてにっこりと笑った。


「よかった、授業中とかじゃったら、絶対無理じゃもん」

「どれ?」

「サボテンよ」


 川内は植木鉢を指差す。

 俺も隣にしゃがみ込んで植木鉢を覗いてみるが、どこにも緑色はない。土の色しか目につかない。


「え、出てない?」

「うん、これから出るんじゃもん」


 川内は当然のようにそう言った。


「これ、種。土は被せてないけえ」


 川内が指差して教えてくれる。俺には周りの土との違いはいまいちわからなかった。


「千夏ちゃんが来るの、待っとるんよねー」


 そう言って、植木鉢に向かって笑う。


 まさか本当に。芽が出るタイミングがわかるというのだろうか。

 あの二人が学校に来るのは、あと一時間くらいか。いや、メッセージを受けて早めに来るのかもしれない。


「それまで、水やりしよこしていよう?」

「あっ、ああ、うん」


 じょうろに水を汲んで、そしてまた植木鉢を覗き込む。やっぱり土の茶色しかない。

 そうしてソワソワと他の植木鉢への水やりの合間に何度も見てみるが、どこにも緑色は見つからなかった。


「まだよー」


 くすくすと笑いながら川内が言う。

 そうこうしているうちに、尾崎と木下が同時に温室に走り込んできた。


「出たんっ?」

「どれっ?」


 ハアハアと息せき切って、川内のほうにやってくる。


「これ。サボテン」


 川内が植木鉢を指差すと、二人はしゃがみ込んで土の表面を覗き込んでいる。


「まだ出てないんか? もしかして今から?」

「まさか、そんな都合よくは……」

「あっ、これ!」


 尾崎が植木鉢の上を指差す。

 俺も慌てて後ろから、膝に手を当てて屈み込んで見てみる。


 まさか。そんな。

 よくよく見ると、小さな小さな白い点があったのだ。

 嘘だろう。さっきまで、絶対になかった。だってあんなに何度も見たのに。


「さっきまでは、なんにもなかった気がしたのに」


 愕然とする俺を他所に、尾崎と木下ははしゃいだ声を出している。

 二人はさっき来たから、なんとも思わないのだろうか。


「見落としとったんじゃろう」

「今出たとか!」

「ええー? さすがにそれはないじゃろ?」


 いや、今、芽が出たのだ。

 尾崎が来るのを待っていたかのように、発芽したのだ。


「うわあ、なんか感動するう」

「ホンマに芽が出るんじゃのう」


 尾崎と木下は、弾んだ声でそんなことを言っている。

 川内はニコニコとして、植木鉢を眺めていた。


 そのとき初めて俺は、本当に川内は植物の声を聞いているのかもしれない、と思ったのだった。

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