第18話 他所の家庭の事情

 その日の放課後、川内が温室内の世話をしている間、俺たちは畑の雑草を抜いていた。

 しかしふいに木下が立ち上がって、ジャージのポケットを探りだす。


「ワシ、途中で抜けるかもしれんわ」


 取り出したスマホを見ながら木下が言った。


「尾崎の母ちゃん、大事にはなってないみたいなんじゃが」


 尾崎から木下の母親に、連絡があったのだろう。ほっと胸を撫で下ろす。


「そのまま検査入院するいうて言いよるけえ、じいちゃんの世話を尾崎一人でやらんといけん。うちの母ちゃんが手伝うみたいなけど、ワシも呼ばれたら行くわ」

「ほいなら今日は、帰ってもええで? 俺がやっとくし」


 そういうことなら、呼ばれたら、と言わずに家で待機していたほうがいいのではないか。


 しかし木下は首を横に振り、持っていたスマホをジャージのポケットにしまう。

 そして俺の前にしゃがみ込み軍手をはめて、また雑草を抜き始めながら、言った。


「いや、こういうときは、言われたら、でええんじゃ。あんまり先回りするんは良うない。いらんことするな、いうて怒られるわ。母ちゃんはようわかっとるけえ、母ちゃんの言う通りにするんがええ」

「ほうか」


 木下の母親と尾崎の母親は、本当に仲がいいんだろう。そして似たようなことは今までもあったんだろう。それなら要領のわかっている人に従うのが一番いいのかもしれない。

 きっと、木下の家と尾崎の家では、ご近所同士の助け合い、が成立しているのだ。


 しかしその場合、ご近所に頼る前に出てくるはずの人が一人、出てきていない。


「尾崎んち、お父さんおらんのんか」


 俺がそう言うと、言いたいことはわかったのか、木下はうなずいた。


「尾崎んち、ちいとちょっと複雑なんよの」

「そうなん?」

「尾崎んち、じいちゃんと、おばさんと、尾崎の三人で住んどるんじゃが、じいちゃんは尾崎の父ちゃんの父ちゃんなんじゃ」


 となると、じいちゃんという人は尾崎の実の祖父ではあるが、尾崎の母親にとっては義理の父親か。

 と、雑草を抜きながら、頭の中で整理する。


「……尾崎のお父さん、亡くなっとるんか」

「いや、生きとる。浮気して出て行った」

「はあ?」


 いきなりとんでもない話が出てきて、俺は雑草を抜く手を止めて顔を上げる。

 木下は下を向いて手を止めないまま、口を開く。


「たまに、顔見せに帰ってきよるで。どのツラ下げて、って思うけどのう」


 浮気して出て行った、というだけでも信じられない話なのに、ときどき帰ってくる?

 何ごともなく平和な家庭で育ったからだろうか、どうにも上手く想像できない。まるで、ドラマの中の話のようだ。

 けれど、顔も見たことがない、その尾崎の父親には腹が立つ。

 そもそも、その世話が必要だというじいちゃんは、尾崎の父親にとっては実の父親ではないのか。ならば本当に世話をするべきなのは、父親のほうなのではないのか。

 なのに自分だけ浮気なんかして出て行って、じいちゃんの世話を尾崎の母親に押し付けているのか。


「信じれん」


 その怒りを目の前の雑草に当てることにして、ブチブチと引き抜く。

 それを見た木下は、ふっ、と小さく笑った。


「腹立つよのう」

「うん」

「尾崎も怒っとるけど……肝心のおばさんが、それでええみたいで」

「わけがわからん」

「そうは思うけど、口出しすることでもないけえ」

「うん……」


 他所の家庭のことなのだ。赤の他人の俺が怒る筋合いのことでもない。それはそうなんだろう。


 小さいころから尾崎を見ていた木下は、もちろん今までも怒っていたのだと思う。

 けれど、余計な口出しは無用、と言われてきたのではないだろうか。それもあって、先回りするのはよくない、と悟ったのかもしれない。


 行き場のない怒りを、俺たちはさらに雑草に向ける。今日は捗りそうだ。

 木下は、その間に、ぽつぽつと話す。


「じいちゃんは元気じゃったんじゃけど、ちょっと前にコケてしもうて、足の骨折ったんじゃ。それから一気に寝たきりになってしもうての」

「そうじゃったんか……」

「その世話で、おばさんは疲れとるみたいなかっただった


 だから、今回、病院に運ばれるようなことになってしまったのだろう。

 やっぱり尾崎の母親に押し付けるのではなく、実子である父親が、自分の親の面倒をみないといけないのではないか。


「おばさんは働きよるけえ、昼間はデイで見てもらいよるんじゃが」

「デイ?」


 耳慣れない言葉が出てきて、そう聞き返す。


「……ああ、デイサービスのことじゃ。昼間は介護施設で預かってもらうんじゃ。リハビリもしてくれるところなんだって

「へえー」


 知らなかった。俺は父方も母方も、どちらの祖父母も健在だが、元気だし、離れて暮らしているし、そういう知識がまるでない。

 介護は大変だ、ということはよく聞くし、そうなんだろうとは思っていても、実感としては伴っていない。


「お」


 木下がなにかに気付いたように顔を上げる。マナーモードにしていたスマホが震えたらしい。

 その画面を見て、木下は立ち上がる。


「なんかあったん?」

「母ちゃんが買い物して帰れって言うけえ、帰るわ」

「ああ、うん」


 なるほど。確かに、家に帰って待機しているより、学校からの帰り道に寄ってくれ、ということがあるか。

 余計なことはせずに指示待ちしているほうがいいときもあるのは、確かなようだ。


「ほいじゃあの」

「うん、気を付けてな」


 俺がそう言うと、木下は口の端を上げた。


「二人きりじゃ。よかったの」


 俺はその言葉に、眉をひそめる。

 いや、こんな状況で、よくはないだろう。


「さすがに、よかったとは思わんわ」


 そう言うと、木下は少し下を向いて、小さく笑った。


「ええヤツでよかったわ」

「普通じゃ」

「ほうか。ほいならええヤツついでに言うんじゃけど、ワシが今日、いろいろしゃべったこと、内緒にしといてくれえや」


 おどけたように尻を突き出して、人差し指を唇に当てて言う。小さく笑いが漏れた。


「うん、わかった」

「ほいじゃあの」


 そうして、今度こそ、木下は踵を返して帰っていった。

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