第131話 俺が報われなきゃ駄目なの〜……!


 ──カラン。


 グラスに入った氷が、音を立てる。

 

 酒瓶を手に持ち、空いたグラスに注ごうと逆さまにするが、いくら待っても酒が出てこない。


 真っ赤な顔でエドガーは酒瓶を振るが、一滴たりとも溢れることはない。胡乱な目で酒瓶を覗き込み、ようやく空だと気づいたエドガーは、瓶を振りながら声を上げた。


「おーい、姉ちゃん。酒がねぇぞ〜。早くお代わり〜」

「お客さん。飲み過ぎですよっ。その辺にしといたらどうです?」


「うるせぇ〜、金ならあるから早く持ってこい〜、出ないと暴れちゃうぞ〜」

「はぁ、まったくもうっ。困ったお客ですこと」


 看板娘は耳を貸さない客に溜息を吐き、素直にエドガーに酒を渡した。


 エドガーはすぐに蓋を開けると、味わいもせずに喉に流し込む。味を楽しむのでなく、酔う為だけの飲み方。まるで、何かを忘れたがっているかのように。


 ──【死者の鏡】を見に行ったその夜。エドガーは一人、酒場で酒に溺れていた。




 ♦︎   ♦︎




「だ、大丈夫です。仮にも神宝ですから、あの程度で壊れるということはありません」


 神宝である【死者の鏡】を破壊するという暴挙に及んだ、あの後。


 重い賠償を覚悟していたが、大神官マリンは頭を抱えつつ、意外にも軽い口調で言った。


 マリンが片手を前に差し出すと、宙からフッと杖が出現する。


 それに驚くネコタ達の前で、マリンは杖を割れた鏡に向かって突き出した。すると、杖の先端から闇がズズズッと伸び、鏡を包み込む。


 倒された鏡の枠が一人でに起き上がり、割れた破片が宙を浮き、フワフワと元の位置に自分から戻っていく。


 それにまた驚いてあんぐりとした表情を見せている間に、あれだけ派手に割られていた鏡は、すっかり元の形に戻っていた。


 ふぅ、とマリンは疲れたように息を吐き、悪戯っぽい笑みを見せる。


「とまあ、こんな所です。驚きましたか?」

「あ、ああ。こりゃ本当にたまげた。まさかこんな綺麗に元どおりになるとは……」


 唖然としながらそう答えるラッシュだが、ハッと正気に返り、慌てて頭を下げる。


「本当に申し訳なかった! 鏡を割ってしまったばかりか、修復までして頂けるとは! 本当になんと謝罪すればいいのか!」


「いえ、これも大神官である私の職務ですから。

 実を言うと、暴れて鏡を割るのはウサギ殿が初めてではないのですよ。鏡が映した現実を認められず、逆上しその不満をぶつけてしまう人も居るのです。

 それを防ぐ為に神官達が付き添うのですが、万が一に備え、ハーディア様は【死者の鏡】と共にこの杖を授けたのです」


「ということは、その杖も神宝なのですか?」


「はい。【霊魂の杖】といいます。【死者の鏡】のことばかり伝わっていますが、この杖と鏡が、ハーディア様が授けた神宝なのです。効果は見ての通り、割れた鏡の修復。まあ、つまり鏡の修理道具でしかありませんが、この杖に適性があるかどうかが、大神官たる資格なのですよ」


 どことなく自慢げに、マリンは言う。

 ネコタはおそるおそる確認した。


「それじゃあ、本当に元どおりになったんですか? 今まで通り、問題なく使えると?」

「ええ。もちろんです」


「よ、良かった。取り返しのつかないことをしたのかと」

「まったくだ。ハーディア神の慧眼に感謝しないとな」


 ネコタとラッシュはどっと肩から力が抜けた。

 そんな二人に苦笑しつつ、マリンは鏡を見直して、困ったような表情を浮かべる。


「ですが、今日中に使用することは無理ですね。今は形を戻しただけ。鏡が元の力を取り戻せるよう、乱れた力を調整しなければなりませんから」


 マリンの目には、大神官だからこそ捉えることの出来る鏡の力が見えている。鏡を纏う死の力の気配が、明らかに乱れていた。これを落ち着かせるには一晩中かかるだろうと、憂鬱そうに息を吐く。


 それに……と、マリンはチラリとアメリアに目を向けた。


「呼び出した魂が映された状態で鏡が割られたとなると、再度呼び戻すには時間がかかるかもしれません。今日、明日で呼び出せるかどうかは……」


「そ、そんなっ! どうにかして呼び出せないんですか!? 私、トトとちゃんと話さないと!」


「死者が映し出された状態で鏡を割るということは、導かれた場所で迷子になるということなんですよ。自分の居場所が分からず闇の中を彷徨っているか、あるいは、一時的に明確な形をした魂が傷つき、それを回復する為に眠りについているか。どちらにせよ、時間がかかりますね」


「……それって、トトが怪我をした可能性があるということですか?」


 マリンは静かに頷く。


 それを見て、アメリアは真っ赤になった目でエドガーを強く睨みつけた。死んだ後になってまで傷つくことになっては、許せるはずもない。その眼力に負け、エドガーは気まずそうに目を逸らすしかなかった。


 決定的な溝が、エドガーとアメリアの間に作られてしまった。そうと分かっていても、誰も何も口にすることも出来ない。それだけのことをしたのだと、全員が認めていた。


 間に入り、重い空気を和らげようとするかのように、マリンは言った。


「また明日、尋ねていらしてください。今日中に調整を終えるよう、私も全力を尽くしましょう。ですが、あまり期待はしないでください。誠に言いづらいことですが、再会を叶えることは難しいでしょう」




 ♦︎   ♦︎




「何が【死者の鏡】だ、ちくしょう。どいつもコイツも騙されやがって……俺は悪くねえのによ……」


 グシュッ、と涙ぐみ、エドガーは空き瓶が並べられたテーブルの上に突っ伏した。


 思い出すのは、アメリアの怒りがこもった目と、涙。

 まさか、あんな感情をアメリアにぶつけられる日がこようとは思わなかった。


 全てはアメリアの為に。そう思って生きてきたのに。

 喋ることが出来れば。ちゃんと話せれば、こんな誤解を受けずに済むのに。


「クソッ、一体何なんだあれは。どういう仕組みで、何の為にあんな……いや、それは決まっているか」


 その目的は、ハーディア神および神殿関係者への信仰、信者獲得の手段なのだろう。信仰が力になる神にとって、そしてそのおこぼれに預かって財を集める神殿関係者にとっては、それくらいしかあるまい。


 偽物の故人を呼び出して信者を騙すなど、気にくわないとは思うが、それを悪と断じることも出来ないとエドガーは理解していた。


 神と神殿関係者が、人の秩序を保つのに必要だと分かっているし、それに、鏡の仕掛けやその目的はどうあれ、あの鏡によって救われる人が居るのもまた事実だ。


 本物ではないから、ある意味、死者の冒涜であるというのは間違いない。しかし、死んでいる奴よりも生きている奴を優先するべきだとエドガーは思う。


 例えば、葬式だって結局のところ、生きている奴の為にやるものだ。死者は何も言わない。何かを感じるのは生きている人間で、葬式なんて死者の為にこれだけ手厚く送り出したという自己満足をして、自分を慰める手段だろう。まぁ、死体処理という現実的な目的もあるだろうが。


 世の中、綺麗事だけでは回らない。そっちの方が報われる人が多いのなら、いくらでも嘘や欺瞞を重ねたほうがいいとすら思っている。


 思っている、が。


「俺はダメなんだよ〜……! 俺が報われなきゃ駄目なの〜……! 俺が損するならあんな詐欺は許しちゃいけないんだよ〜……!」


 色々言っても、結局の所、自分が一番可愛いということに落ち着く。


 エグッ、エグッ、と。鏡による怒りと、可哀想な自分への悲しみが混じって泣き出すエドガー。


 ほんともう、まじクソである。


 ギィ、と。扉が開く音がした。看板娘の歓迎の声が聞こえ、二つの気配が飲んだくれに近づいてくる。


「やっと見つけた。こんな所に居たのか」

「うおっ、かなり飲んでやがんな。なんだよ、一人だけ楽しみやがって。あたしも誘えよ」


 エドガーは胡乱な目で振り返る。

 そこに居たのは、呆れ顔のラッシュと、羨ましそうにしているジーナだった。


「なんだ、お前らか。何しにきた?」


「何しに来た、じゃねえだろ。いつまでも帰ってこないから探しに来てやったのに。だいぶ探したんだぞ。どこで飲んでるのかと思えば、わざわざこんな遠くの酒場で飲みやがって」


「当たり前だろ。……宿の近くで飲んでいられる訳ないだろうが」


「そうか。まあ、気持ちは分かるけどな」


「良いじゃねえか。ここだったらあたしも遠慮なく飲めるしよ。おーい、あたしにも同じの!」


 はーい、と看板娘の返事を聞いて、ウキウキとしながらジーナはエドガーの隣に座る。ラッシュもため息を吐きつつ、エドガーを挟む位置に座った。


「出かけるなら、何か伝えてから行けよ。心配するだろ」


「心配だあ? 思ってもないことを言ってんじゃねえよ。俺の心配なんか誰がするんだ? お前か? フィーリアか? それともアメリアか?」


「それは……」


「なーに拗ねてんだよっ。可愛くねえぞっ。仕方ねえだろ、あんなことやっちまったんだからよ」


 困ったような顔をするラッシュとは反対に、ジーナはケラケラ笑いながらエドガーの頬に指をぶっ刺した。早速酔い始めたらしい。あまりのウザさにエドガーはピキリ来るものがあった。


 指を払うが、しかし、それ以上怒る気にもなれない。気だるげにまたテーブルに突っ伏し、エドガーは悲しげに尋ねた。


「アメリア達はどうしてる?」


「……アメリアは泣き疲れて眠っちまったよ。フィーリアもアメリアを慰める為に付き添って、同じように寝た」


 そしてネコタは、未だに収まらない怒りを発散させる為、宿の庭を借りて剣を振っている。これはさすがに、伝える気はなかったが。


 フッ、と。エドガーは煤けたような笑みを見せた。


「そうか。それなら良かった。眠っている間だけでも忘れられるなら、そっちの方がよっぽどいい」


「まあ、そりゃそうだな。……ネコタのことは気にならんのか?」


「──? ネコタ? なんで?」


「い、いや、なんでもない」


 キョトンとした顔を見せるエドガーに、ラッシュはそれならいいんだと首を振る。

 心からどうでもいいのだろう。さすがにネコタが哀れである。


 バシッと、ジーナはエドガーの背中を叩き言った。


「まっ、そんなに落ち込むなよ。酒でも飲んで元気出せって」


「そんなんで元気が出たら苦労しねえよ。こっちはアメリアに死んじゃえなんて言われてんだぞ……!」


 おっ、おっ、と泣き出すエドガーに、ジーナは大したことなさそうに続けた。


「そう深刻に捉えるなよ。明日になれば、アメリアの奴も言いすぎたって思うだろうぜ」


「んな訳ねえだろうが! 俺が何したと思ってんだ! 俺だったら絶対許さんわ! きっと、明日も嫌いって言われるんだ。目も合わせてくれないんだ……!」


「なんだよ、自信満々で俺とアメリアの絆は簡単には壊れない、とか抜かしてたくせに。意外に弱々しい奴だな」


「やめろ……やめろ……! それ以上俺を傷つけるな……!」


 過去の自分の発言を悔いるエドガー。


 今思えば、どれだけ勘違いしたセリフだったのかと恥ずかしくなる。


 悲しむエドガーを見て、こりゃ重傷だとラッシュは話を変えることにした。


「しかしまあ、大神官には感謝しないとな。危うく世界中の信徒を敵に回すところだった」


「だよなぁ、まさか割れた鏡があんなに綺麗に戻るとは思わなかったわ。でもあれなら何度壊しても大丈夫だよな! わははははは!」


「お客さん、まさか【死者の鏡】を割ったんですか……?」


 おそるおそる、といった口調に、バッとラッシュとジーナは振り返る。


 そこには、看板娘が青い顔をして立っていた。

 

 ヒクリ、とラッシュが引きつった顔で聞く。


「もしかして、聞いていたかな?」


「ご、ごめんなさいっ。大神官様の話をしているな〜と思って。でも、そっちのお客さんの声も大きかったから、自然と」


「おい、ジーナ」


「すまん。酔ってつい声が」


 申し訳なさそうにするジーナだったが、聞かれているのだから今更遅い。

 内心ビクビクとするラッシュだが、看板娘は苦笑してみせた。


「ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。確かにこの町の人間として、鏡を割ったと聞けば気持ちのいい話ではありませんが、今までにもそういう話はありましたし」


「そ、そうか。それなら良かった」


「でもあたしはともかく、中には本気で怒る人も居ますから、外ではあまり言いふらさないほうがいいですよ。特に、今並んでいる信者の人達に聞かせたらまずいです。襲われたとしても責められないかな」


「あ、ああ。気をつけるわ」


 誤魔化すように、ジーナは酒に口をつける。本当に気をつけていただきたい。


 看板娘は、うなだれているエドガーを見て、目をパチパチとさせた。


「もしかして、そこのウサギさんが?」


「あ、ああ、まあな。ちょっとこいつも色々あったもんで」


「どうりで。ずっと飲んでるから、何かあったんだろうなとは思いましたけど。きっと辛いことがあったんですね」


 看板娘の言葉を聞くたびに、エドガーはダラダラと嫌な汗が流れる。まさか部外者で、嫉妬して壊しましたとは言えまい。労わるような目が心に突き刺さる。


 エドガーの気まずさを察し、ラッシュが話題を変えた。


「しかし、あの大神官は大した人だな。あれだけの暴挙にもかかわらず、その犯行に及んだ心に理解を示して許すとは、器がでかい。さすが大神官に選ばれるだけのことはある」


「分かりますか!? そうでしょう、そうでしょう! でも当然ですよ! なんたってマリン様なんですから!」


 ラッシュの話に、看板娘は思った以上に食いついた。

 この反応から察するに、大神官マリンの熱心なファンなのかもしれない。


「綺麗なお顔に、思わず身を委ねたくなる暖かい人柄。大神官という地位いるのに、偉ぶらず親身になってくれる。あんな人に付き添われて慰められたら、そりゃ女なら誰だってうっとりしちゃいますよ。現に、鏡を求めてやってきた傷心中の未亡人が、マリン様に本気になっちゃうこともよくあるんですから」


「ほ、ほう、そりゃ凄い」


 どうやら、触れてはならないものに触れたらしい。


 引きつったように笑うラッシュに気づくことなく、看板娘は続ける。


「でもそれだけじゃなくて、マリン様の実力は歴代の大神官の中でも一、二を争うと言われているんですっ。神殿で暴れる高ランクの冒険者を抑えつけたり、町の近くに現れた巨大な魔物を仕留めたり、凄く強いんですよっ!」


「へぇ、魔物退治までするのか。この街は大神官をよっぽど頼りにしているんだな」


「ええ。でも、特にマリン様は特別ですよっ! 魔物退治までしてくれるのは大神官でもマリン様くらいでしたし、洞窟の封印をしてくれたおかげで、事故で死ぬ人も居なくなりましたし!」


「なるほど。そりゃ頼りにな……ん? 洞窟っていうのは?」


 ラッシュの疑問に看板娘はキョトンとした顔を見せ、ああ、と納得したように頷く。


「実はあの山には洞窟があってですね。神殿からちょっと外れた場所があるんですが、そこは入っただけで人が死んでしまう危険な洞窟なんですよ」


「なんだそりゃ。物騒な洞窟だな。原因は分からないのか?」


「人の害になる気に満ちている洞窟だとか言われてますけど、実際の所は分かっていませんね。

 見た目はただの洞窟なので、度胸試しとかで子供が入り込んで死んじゃうことがよくあったそうです。

 だけどマリン様が大神官になってから、マリン様が直々にその洞窟に封印かけてくださったおかげで、それ以来死人が出なくなったんですよ!

 といっても、これは私が生まれる前からの話なんで、私は聞いただけなんですけど」


 照れ臭そうにする看板娘に気にすることもなく、ラッシュは感心した声をあげる。


「はぁ〜。大神官としての業務だけでなく、街の安全も気にかけてるのか。そりゃ尊敬される訳だ」

「はい! だからマリン様は本当に皆から信頼されていて──」


 まだまだ喋り足りなさそうにしていた看板娘が、ハッと顔色を変える。店主が、働けとでも言うような目で彼女を睨んでいた。


 看板娘は小さく手を振り、慌てて仕事に戻る。そんな彼女に手を振り返すラッシュの横で、ケッとエドガーは不満そうな声を上げた。


「完璧人間とか、嫌味かよ。そんな奴が居る訳ねえだろ。外面が良い奴ほど内心どんな悪人だか分かったもんじゃねえぞ」


「お前な、許してくれた相手を悪く言うもんじゃねえぞ。本当なら大陸中に指名手配されてもおかしくないんだからな」


「そうだそうだー! 男の嫉妬は見苦しいぞぉー!」


「やかましいわ。テメェは大人しく飲んだっくれてろ」


 うっとうしく絡んでくるジーナの器に、エドガーは酒を注ぐ。随分と優しく見えるが、さっさと酔い潰して静かにさせた方がいいと割り切っての行動である。


それに気づきもせずグビグビ飲み続けるジーナに苦笑しつつ、ラッシュは続けた。


「しかし、随分とまぁ物騒な洞窟もあったもんだな。入っただけで死ぬなんて、一体どうなってんだか」


「知るか。目に見えない毒ガスが発生してるとか、どうせそんな所だろ。はっきり言ってどうでもいいわ。

 まあ、死ぬと聞いても自分は大丈夫と勘違いするバカってのは何処にでもいるからな。言っても聞かねえバカ共を守るには賢明な判断じゃねえか?」


「辛辣だねえ、お前は。あの子が生まれる前からってことは、それだけ長く街を守っているってことだろ。素直に認めてやっても──」


 やれやれといった調子で笑うラッシュだったが、酒に口をつける直前でピタリと止まり、愕然とした表情を作った。


「あの子が生まれる前ってことは、少なくとも十五、六年は前の話だよな?」


「……あのマリンとかいう神官、二十前半くらいにしか見えなかったんだが」


 二人はお互い顔を見合わせると、また何事もなかったかのように飲み出した。


「まっ、別にいいか」


「だな。深くは考えないでおこう。死の神の神官だけに、若作りの健康法でも秘伝として伝わっているのかもしれんし」


「死の神の神殿に伝わっているのが健康法とか、皮肉にもほどがあるな。世の女性達が醜い争いを繰り広げそうな話だ」


 むしろ、今までそのことで騒動が起きなかった方が不思議だ。女性ならば、誰もがマリンの若作りに騒いでもおかしくないと思うが。


 やはり、故人との再会という場では、そのように俗的な発想すら浮かばなかったのだろう。これからも是非そうであってほしい。


 世間話でそれなりに盛り上がった所で、カランッ、と自分のグラスの氷を鳴らし、ラッシュはおもむろに切り出した。


「なぁ、エドガーよ。実際のところ、どうしてあんなことをしたんだ?」


「ああん? 何がだよ?」


「鏡を割った理由だよ。何かちゃんとした理由があるんだろ」


 ピタリッ、とエドガーは動きを止めた。


 コップに口を付けたまま固まったエドガーに気づいていないかのように、ラッシュは何気ない調子で続ける。


「まだ付き合いは短いが、それでも一緒に旅してきた仲だ。お前がどういう奴か、皆理解しているよ。

 お前は一見、実力があるくせにどうしようもないクズでゲスで卑怯者だが、少なくとも、外道じゃねえ。人として、本当にやっちゃいけねえことの境界は弁えている奴だ。

 そして、本気で誰かが傷ついたりした時は、言葉はキツくても励まそうとする。そんな優しい奴だ。だからこそ、皆が疑問に思っている。なんであんな、アメリアを傷つけるようなことをしたのかってな」


 労わるような口調で、ラッシュは言う。


 しかしそれでも、エドガーは何も口にしなかった。プルプルと何かを堪えているように震え、顔を伏せているだけだった。


 そんなエドガーを横目で見て、ラッシュはグイッと酒を飲み込む。そして、改めてエドガーに振り返った。


「普段は仲良くやれてるとは言い切れねぇが、それでも、俺たちは仲間だ。だからこそ、お前のことを信じている。本当はお前が憎めない良い奴だってことをな。

 なあ、ここだけでいいから話してみろよ。話してくれれば、俺もお前の力に──おぼぉ!?」


 反応する間もなかった。

 エドガーの俊足の跳び蹴りが、ラッシュの頬に突き刺さっていた。


「なぁあああああにが話してみろ、だボケがぁああああああああ! 話せるならとっくに全部話してるんだよクソガアアアアアア!!!!」


 そのまま倒れるラッシュに、エドガーは容赦なく追撃を仕掛ける。


 ビタン、ビタンと全体重を使って連続のスタンプ。ラッシュは悲鳴をあげる暇もなく、踏まれる度にビクンッ、と体を痙攣させていた。


 そんな二人を、酔っ払いが呑気にケラケラと笑っている。


 ラッシュが完全に動きを止めたのを見て、フーッ、フーッと荒れた息を整え、エドガーはまた席に戻った。


「チッ、つくづく人の神経を逆撫でする奴だ。良き理解者のつもりか? 俺のことも何も知らないで、分かったような口聞きやがって!」


「まぁまぁ、そんな怒りは飲んで忘れようぜ。陽気にいこうや、陽気に。なっ?」


「ふざけんなっ。はしゃぐ気になれる訳ねぇだろうが」


「そうか? そうかぁ……よーし、それなら静かに飲もう。落ち着いて飲めるよう、あたしが面白い話をしてやる」


 エドガーの存外な態度にも、珍しくジーナは気にした様子を見せない。顔を赤らめて気持ち良さそうな顔をしているだけだ。


 よっぽど酔いが回っているのか、エドガーの傷心を察しての彼女の優しさか。おそらく両方なのだろう。


「ケッ。話をするだぁ? テメェにそんな気の引くような話が出来んのかよ」


「ああ〜、言ったなお前〜? バカにすんなよ〜、あたしだってその気になれば面白い話の一つや二つ知ってるっての〜」


「ほう、言うじゃねぇか。俺を楽しませるってんなら、よっぽど珍しい話じゃねえと無理だぜ? なんせ俺はあちこち旅をしたからな。有名どころは全部抑えている。だいたい、酔っ払いにまともな話が出来んのかよ?」


「心配するなって〜。確かにあたしはもっぱら聞き役だったけどよ〜。昔はこうやって酒を飲みながら、酔っ払った師匠ジジイの自慢話や昔話を──」


 赤ら顔で自分の器に酒を注いでいたジーナだったが、そこまで言った所で、スッと顔色を変えた。急に酔いが醒めたように、鋭く目を細める。


「──思い出した」

「あん? 何がよ?」


「だが、どういうことだ? 師匠から聞いた話とはだいぶ……」

「なんだよ、無視しやがって。やっぱり酔っぱらいには無理か?」


 意地悪そうに言うエドガーだが、ジーナは神妙な顔でブツブツと呟き、自分の世界に入りこんでいた。


 そんな彼女を見てつまらなそうにため息を吐き、エドガーは静かに一人で飲み始める。


 朝になって潰れるまで、エドガーはひたすら飲みつづけた。




 ♦︎   ♦︎




 エドガーが自棄飲みをしていたその夜、同じ頃。


 ハーディア神の本殿、【死者の鏡】の間において、大神官マリンは一人、鏡の前に立っていた。


 元の形に戻った鏡は、昼間と同じように妖しげな光を纏っている。

 それを冷静な目で見ながら、マリンは小さく呟いた。


「──あの獣めが。余計なことをしてくれたな」


 チッ、と舌打ちをし、忌々しそうな表情をする。

 それは、この街の誰もが知るマリンからはかけ離れた、憎しみの顔つきだった。


「あと少しだったというのに、あのウサギのせいでかなりの力が散ってしまった。まさかあのような暴挙に出ようとは……」


 ミシリ、と。握りしめた杖から音が鳴る。


 暴れ出す輩はたまに現れるが、あそこまで躊躇なく、即座に行動に移すような奴は今までにいなかった。まさか自分が反応することすら出来ないとは。一体どういう神経をしていればあんな真似が出来るのかと、あのウサギの頭を疑う。


 ウサギに対する怒りが燃えたぎっていたマリンだが、いや、と頭を振って思い直した。


「あと少しだからと、焦った私の失策か。あの【賢者】の少女の信仰が全て注がれていれば、間違いなく鏡の力は満たされていた。この手に届く所まで来ていたものを……!」


 そう思えば、やはりあのウサギへの怒りが再燃する。


 忘れようとしても、あの間抜けな顔が頭に浮かんでくる。ああ、考えるだけで忌々しい。殺して皮を引っ剥がして襟巻にでもしてやろうか?


「いや、落ち着け。そのようなことをしても無意味だ。目的を思い出せ。私にはそれよりも大事な使命がある」


 そう言い聞かせ、マリンは再び鏡を眺める。

【死者の鏡】が放つ暗い光を見て、安らいだような表情を浮かべた。


「そうとも、これは焦った私への戒めと心得よう。なに、今までに耐えた時間に比べれば、百年の時など瞬きのようなものだ。それくらいなら十分に待てる。焦らずまた今までと同じように、この鏡を見守り続ければいい」


 熱に浮かされた瞳で、マリンは【死者の鏡】を見つめた。


 それは、その鏡を通して、何か別な物を見ているようだった。


「──王よ、今しばらくお待ちください。もう間もなく、貴方をお迎えすることが出来ます。その時はまた、私が側に侍ることをお許しください」


 マリンは跪き、鏡に向かって頭を下げる。その姿勢のまま、永い夜の時を祈りに捧げた。


 あと少しで訪れる未来を思えば、そんな物は苦ではなかった。この祈りの時間こそが、マリンにとって安らぎにも等しかった。


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