第71話 ボーナス突入だぜぇえええええ!



「……へぇ、なるほどねぇ」


 ニヤァ、と。

 一転して、ジーナが獰猛な笑みを浮かべた。

 不利な点ばかり目が行っていたが、正直、その発想はなかった。


「言われてみればそうだな。あははっ、確かにその通りだ! あれなら何をぶち込もうが死にはしねぇだろ!」

「ああ、こいつは盲点だったな。つまり俺たちは、殺す気で行ってもなんら問題ない訳だ」


 命は取らないでほしい、と族長は言った。その言葉が心の隅にあったからこそ、無意識にしろ、致命傷になる威力の攻撃は避けていた。しかし、そんな問題はこれでなくなった。


 どれだけ殺す気で行ったとしても、あいつは死なない。これ以上にない安心感だった。


『……ウホッ?』


 その空気の変化を、エミュールは漠然と感じ取っていた。

 ほんの少しまで、なんら脅威とも感じていなかった。ただ遊び相手が来た。その程度の感覚だった。

 それなのに――


「いや〜、発想の転換って大事だな。相手の戦力にばかり意識がいっていた。そうだな、俺らのメリットもあるんだよな」

「とてつもなく強い上に、いくら叩いても壊れねぇ。おいおい、なんだよ。こんな贅沢なサンドバック他にねぇぞ!」


「私、使ってみたい魔法があったんだよね。威力があり過ぎて使う機会がなかったけど、ちょっと楽しみかも」

「殺す気で戦って、心を折る。ははははっ、加減もする必要ないなんて、楽でいいな」


「え、えと、あの、皆様? 先ほどから何を……」

「駄目です、フィーリアさん。何を言っても無駄です。完全にスイッチが入ってます。さぁ、こっちに避難しましょう。下手すればまき込まれますよ」


 ——なんだ、これは?


 エミュールは混乱していた。いつの間にか、奴らの雰囲気が変わっていた。ただの遊び相手だったはずなのに、どういうことだろうか?


 ——今、自分は確かに、恐怖を感じている。

 ——身の程知らずの小人たちが、得体の知れない化け物に見えた。


「ウキュウウウウウウウウウウウウウウウ!」


 エドガーが光に包まれる。その体毛が白から黒へ、エミュールとは正反対の変貌を見せた。それは、エミュールとって不吉な変化だった。


 ふぃ〜、と。エドガーは息を吐き、ゴキリと首を鳴らす。


「“絶望より暗き黒兎ブラックエドガー”。さて、大人しく従うなら今のうちだぜ? ここからは手加減できない……いや、手加減する気がない。滅多にない機会だからな。精々暴れさせてもらうさ。そうなったら謝っても止まらねぇぞ?」


『————ッ! ウホオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』


 エミュールは怒りの咆哮を上げた。恐怖などなかったと言わんばかりに、敵に向かって突進する。森の王者としての矜持が、撤退をすることを許さなかった。


「いいぜ! そうこなくっちゃな!」


 突進してくるエミュールに、真っ先にジーナが飛び出す。先ほどと同じ光景が繰り返されるかと思いきや、ジーナはある程度まで近づいたところで足を止め、体をひねり腰元に拳を構えた。


「ふぅぅうううう……」


 静かに息を吐き精神統一。ググッ、と腕を引き、力を貯める。動かず、じっくりと力を練り上げ、エミュールを迎え撃つ。


『ウホオオオオオオオオオオオオ!』


 大声を上げ、エミュールは剛腕を振るった。先ほどのように片手間ではない、本気の一撃。当たれば人の体を確実に粉砕するであろう一打。


 それを、ジーナは正面から迎え撃った。


「——オオオオオオオオッ!」


 気合いと共に放たれた正拳突きが、エミュールの拳と衝突する。ドゴォッ! という音を立て、ジーナの拳がエミュールの手を砕いた。それだけでは飽き足らず、エミュールの腕を後方に弾き飛ばし、その身体まで浮かせた。見かけと体重差に釣り合わない、なんとも異様な光景だった。


『ウガッ、ウゥウウウ?』

「へっ、本気でやれば迎え撃つくらい訳ねぇんだよ」


 感じたことのない痛みにむしろ困惑するエミュールに、ジーナはそう嘯く。そして、エミュールの体が浮いた一瞬の隙に、スッと距離を詰める。あまりにも自然な動作に、エミュールは疑問を浮かべることすら出来なかった。


「外は丈夫なようだが、中はどうかな?」

『————ッ!?』


 ゾッと、エミュールの背筋に寒気が走った。

 何かは分からない。だが、こいつは何かをしようとしている。その直感が、エミュールを行動させた。逃げるより早く両手を振り下ろし、ジーナを潰そうとする。それは本能が取った最適な行動ではあったが、少しばかり遅かった。


「——フッ!」


 短く息を吐き、ズンッ、とジーナは足を強く踏み込んだ。大地を蹴ることで返ってくる力を、そのまま両手に移す。そうして得られたエネルギーを、下から突き上げ、エミュールの胴体に撃ちこむ。


 ドスンッと、重く鈍い音が辺りに響いた。しかし、エミュールは意外そうな顔をするだけで、なんの変化も見せない。勘違いだったかと、杞憂に終わり勝気な表情を見せた。そしてそのままジーナを捻り潰そうと手を伸ばし――


 ――胃からせり上がってくる吐き気を堪えられず、その場に膝を着いた。


『ウボッ!? ウゥウホ、ボガッ、ウェエエェエエエ!』


「ははっ、やっぱり中身までは硬いって訳にはいかなかったか。だが、効いただろ? 勁に腕力、脚力、そして気。全てを練りこんで放った一撃だ。直接内臓をかき乱された感じはどうだ? 普通なら内臓どころか胴体も吹き飛ばせるが、まぁ、その程度で済んでいるのは流石だな」


『ウッ、ウガッ! ……ガホアッ!』

「おっと。はははっ、もう動けんのかよっ! お前本当にすげぇな!」


 苦しみながらも、エミュールは腕を振り払った。それをヒョイと躱し、ジーナは感心したように笑う。


 その態度に怒りを感じたがエミュールだが、腹の痛みと吐き気に追うことは敵わなかった。今に見てろと思いながら、回復を優先させる。直にこの苦しさもなくなる。そうすれば、すぐにでも叩き潰して――


「代打、エドガー。一発ぶちかまします」


 ハッ、とエミュールが気づいた時には遅かった。

 顔を上げたすぐ目の前に、黒いウサギが、一本足で人参を構えていた。


「——エドガーホームランッ!」


 バキィィイイイイイン! という擬音が聞こえるほどの一振りだった。


 アッパースイング気味の長人参がエミュールの顎を捉え、空に高々と打ち上げる。キラッと陽の光を受けつつ、エミュールは錐揉みしながら宙を飛んだ。そして綺麗な放物線を描き、ドシャリと頭から地面に落ちる。


「はっはー! こりゃ場外ホームランだぜっ! いける! 今年は三冠まで狙えますっ! 年棒倍増だぜ!」


「うあぁ……っ!」

「な、なんだかとっても痛いですっ!」


 はしゃぐエドガーとは裏腹に、ネコタとフィーリアはドン引きしていた。

 あれが自分だったらと、思わずエミュールに同情していた。ついネコタが違和感に気づかないほどの痛々しさだった。


『ウボォ、ウホォオオオオオウ……!』


 怒りよりも弱々しさを感じる声を出し、エミュールは顎を押さえながらヨロヨロと立ち上がる。知らず、涙を流していた。あまりの激痛に、反撃どころではなかった。


 しかし、エミュールは休む間も与えられなかった。


『ウホゥ?』


 痛みに悶えていたエミュールだったが、ある異変を感じ取り、疑問の声を上げた。それは痛みと同様に、エミュールが感じたがことのないもの――寒い、という感覚だった。


 慌てて見回せば、周りの地面に霜が生えていた。今の季節からは考えられない、明らかな異常事態。本能が異変の原因を探り当て、エミュールはバッと顔を向ける。


 アメリアが、杖に魔力を込めて言った。


「私は君の動きを捉えることができない。でも、動きを捉えられなくったって、逃げ道を与えなければいい話だよね」


 淡々とした声だった。しかし、それが何よりも恐怖を誘う。

 エミュールが声を出すよりも早く、アメリアの魔法が放たれた。


「【大地よみぃんな氷結せよこおっちゃえ】」

『ウホォオアアアアアアアア!?』


 パキパキと、急速に大地と空気が冷え氷が生み出される。その氷の創造に、エミュールは巻き込まれた。


 胸元から下が氷に埋まり、四肢を動かせない。森の聖獣であるエミュールにとって、氷は火と同じく忌むべきものの一つだった。あまりの寒さにガチガチと奥歯が揺れる。体を動かす気力さえ湧かなかった。


 しかし、そんな事情はエドガー達にとって知ったことではない。


 ——サクッ!


 動けないエミュールの額に、矢が刺さった。


『ウホォオオアアアアアア!?』

「わははははは! なんだこりゃ、狙い放題じゃねぇか! すっげぇ楽しい!」


「あっ!? ずりぃぞオヤジ! 一人だけ楽しみやがって!」

「ビッグチャアアアアアンス! アメリア! 俺たちも参加するからちょっと足場を作ってくれ!」

「うん。それじゃあ……えいっ。こんな感じ?」


「十分だ! ウサギィ! あたしは右から行く!」

「分かった! うはははは! 出玉大放出! ボーナス突入だぜぇえええええ!」


「あ、あわわっ。森の聖獣が、あんな……」

「惨い……」


 凍り付いたエミュールの頭部を狙い、ラッシュの矢が次々と刺さる。そして氷の足場に乗って横からジーナとエドガーが、オラオラオラオラと殴り続ける。抵抗することすら許されず、エミュールはただ悲鳴を上げることしかできなかった。それでも喜々として攻撃をし続ける三人に、人の心はないのかとネコタは思った。


 もはやただのイジメだった。回復し続けるため、気絶することも出来ない。いっそ死ねたらどんなに楽だろうか。あまりに悲痛さにフィーリアとネコタは目を逸らした。とても見ていられなかった。


『ウボォオオ! ウホォオオアアアアア!』

「おっと、あぶねぇあぶねぇ」

「ちぇ~、ボーナス終了か」


 それでも必死に抵抗したせいか、氷にヒビが入る。足場が壊れる寸前、ジーナはあっさりと、エドガーは残念そうにしながらピョンと飛び降り、すたこらと逃げ出した。あくまで一方的に殴りたいのであって、殴られる可能性があるなら逃げることに躊躇はない。


『ウウウウウッ! ウホオオオオオオウ!』


 ようやく氷から抜け出し回復したエミュールは、さっさと逃げ出した敵に激高した。あれだけ好き放題やっておいて、あっさりと逃げられるとでも思っているのか。否、絶対に逃がさない。この俺をあんな目に合わせたことを後悔させてやる!


 一人たりとも逃す気はない。だが、まずは一番気に入らない貴様からだ!


『ウホオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』

「げっ、俺かよ」


 エミュールはラッシュに向かって突進した。ラッシュは面倒そうに舌打ちをして、瞬時に弓矢を放つ。しかし、エミュールは躱す素振りすら見せなかった。


「ッ! こりゃいかん!」


 矢が刺さっても構わず迫ってくるエミュールに、ラッシュは背を向けて逃げ出した。なりふり構わず逃げ出す獲物を見て、ニッとエミュールは笑みを深める。


 そう、これこそがあるべき姿。あるべき光景だ。ようやく調子を取り戻し、エミュールの速度がさらに上がった。みるみるうちに距離が詰まる。躊躇うことはない。逃げる獲物の背を狙い、拳を振り上げ――。


 ——そして、逆さまになって宙を飛んだ。


『ウホォオオオオオオオオオオオウウウウウ!?』

「わはははは! 綺麗に引っかかりやがった!」


 エミュールの足には、いつの間にか蔦を捻り合わせた紐が縛られていた。その紐は側にあったの木の天辺に向かって上まで伸びている。


 いつの間にやら仕掛けた、ラッシュの即席の罠だった。慌てて逃げた振りをして、罠の位置まで誘導したのだ。それに気づいた時、エミュールは勝ち誇った顔から一転、あたふたと慌て始めた。


 まんまと罠を踏んだこと。逆さまになって綺麗に宙づりになっていること。エミュールの間抜けな顔。全てがツボに入り、ラッシュは腹を抱えて笑った。


「ふはははははっ! 見ろよおい! ゴリラが縛られて宙吊になってやがる!」

「ぎゃはははは! やるじゃねぇかオヤジ!」

「森の聖獣が森の罠に嵌るとか自害もんだなおい! 恥ずかしくないんですか〜?」


 ウサギの挑発に、カーッとエミュールの顔が真っ赤に染まった。怒りと羞恥で大きく暴れ出す。徐々に紐が緩み、エミュールが希望を見始めた。その時、サクリと矢が刺さった。


『ウホォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!?!?!?!?』

「ふはははは! 良い的だぜ! 解けるまでに何本刺さるかなぁー!?」


「あたしも混ざるね。火は駄目だし、雷もちょっと……うん、やっぱり氷の方が痛いよね」

「おおっ! やれやれ! 今ならやり放題だぜ! どうせ死にはしないんだ! 好きなだけやれ!」

「うん、分かった」


「こんなの……もう戦いじゃなくてイジメじゃ……」

「フィーリアさん、シッ! 聞かれたら僕達も酷い目に合いますよ!」


 宙づりになった逃げ場のない状態で、大量の矢と氷が突き刺さる。エミュールの悲痛な声が森に響いた。それなのに、狩人と賢者の二人は攻撃を止める様子がない。それどころか、嬉々として続けている。もはやイジメですらない。ただの拷問である。


 人の残虐性を目の当たりにし、フィーリアとネコタは顔を青褪めさせる。エミュールを助けることが出来ない自分達が不甲斐なかった。


『ウホッ! ウウウホ! ウ――ホウッ!』


 全身から血を流しながらも必死に暴れまわり、エミュールはようやく罠を解くことに成功した。ブチリと蔦の紐が切れ、逆さまになって落下する。浮遊感を感じながらも、エミュールはホッとしていた。一方的にやられていた怒りよりも、解放された安堵感の方が遥かに大きかった。


 クルリと体を入れ替え、地面に着地する。――そしてエミュールはまた宙づりになった。


『ウホォオオオオアアアアアアアア!?』

「わははははは! もう一度地獄へいらっしゃあああい!」


 先ほどまでと同じく光景が繰り返される。逃げられたと思ったエミュールは痛みの中で絶望した。なぜこうなっているのか、全く分からなかった。


「ここまで綺麗に嵌ると面白いなおい! この森なら材料があちこちにあるからな! 罠ならいくらでも作れるぞ! あははははは!」


 ラッシュは狂ったように笑っていた。森に入ってからよっぽど心労が溜まっていのだろう。ストレス発散とばかりに矢を射続ける。もはや狂気すら感じた。


『ウホッ、ウギャッ!? ウホォオオオウウ……!』


「ブフッ、フヒャハハハ! 見ろよおい、アイツ泣いてやがんぞ!」

「グヒッ! 止めろウサギ……! これ以上は本当に……!」


「————ッ! エミュール!」

「な、何やってんですかフィーリアさん! 駄目ですって!」


「離してくださいっ! 早く助けてあげないと、エミュールが!」

「バカなこと言わないでください! 僕達が何をしに来たか忘れたんですか!? 戦いに来たんですよ!」


「忘れてません! だけどこれはもうただのイジメじゃないですかっ! 弱い者イジメは駄目なんですよっ! イジメだけは……絶対駄目なんですっ!」


 里で微妙にハブかれている少女の、なんとも悲痛な訴えだった。ただし、エミュールのプライドをボロボロにする発言だった。


「だからって、行かせる訳にはいかないでしょ! 大丈夫ですよ! いくらやったって死にませんから!」

「死ななければいいってものじゃありません! 離してぇ! エミュール、エミュール!」


 ネコタもネコタで凄い発言だった。

 どちらが敵なのか分からなくなる有様だ。こちらもなかなかに混沌としている。


 回復する以上の矢と氷の攻撃を受け、エミュールは体力を失っていた。二人の攻撃とエミュールの重さに耐え切れず、ブチリと蔦の紐が切れる。着地を考える思考すら出来ず、ドシャリとエミュールは地に落ちた。全身に鈍痛が生じる。しかし、エミュールは解放されたことに安堵していた。


 だが、エミュールは分かっていなかった。

 まだ、戦いは終わっていないのだ。


「あっ、ちくしょう。罠の位置からずれやがったな。チッ、逃げ出す方向をちゃんと考えたってのに、まさかそのまま落ちるとは。案外体力のない奴だな」

「回復力があり過ぎて、ダメージに耐えるっていう経験がなかったんじゃねぇか?」


「はぁ、つまり根性無しってことか。あんな図体してるくせに情けない奴だな」

「大丈夫だよ。どうせすぐ回復するから。そうしたらまた活きが良くなるよ」


「ははははっ! それもそうだな! おーいゴリラ! 早く遊ぼうぜ!」

「ほら、雌ゴリラが呼んでるぞ〜! 早く起きろ〜!」


「あいつの前にテメェから殺してやるよ」

「なっ、何をするっ! やめろぉ……離せぇ……!」


 エミュールは混乱していた。


 傷ついた自分を放って、和気藹々とふざけあっている。そうしていれば回復してしまうというのに、それを全く気にしていない……いや、むしろそれを待っている有様だ。


 たまに来る遊び相手は、自分に挑みに来ながら、少しかまってやれば逃げ出すような奴らだった。あえて傷を作って希望を見せ、回復していく様子を見せつければ、一転して絶望していく。そんな顔を見るのが愉快だった。逃げていく背中を、後ろから払ってやるのが痛快だった。それが、エミュールにとっての遊びだった。


 だというのに、この者達は違った。むしろ、今まで自分がやっていたようなことを、そのままやり返されている。ここに来て、エミュールは自らの置かれた状況にようやく気づいた。逃走の二文字が脳裏によぎる。


『——ウホォオオオオオオウウウウウウウ!!!!』


 しかし、エミュールはそれを振り払うように咆哮を上げ、立ち上がった。獣の本能が警鐘を鳴らしていたとしても、エミュールはただの獣ではない。神から祝福を受けた聖獣である。


 聖獣としての使命を、漠然とながら理解していた。聖獣としての誇りを、胸に宿していた。戦いもせず逃げることを、彼の矜持が許さなかった。


「おっ? なんだ、意外とやる気じゃねぇか!」

「へぇ、思ったより根性あるな! いいぜ、とことんやってやらぁ!」


 だが、その選択は間違いだったのだと、彼はすぐに気づくことになる。







『ウボォウ……ウボェエエエエエエエエェェェエェエ!』

「うーん、やっぱり蹴りでの勁は難しいな。踏み込みよりも、力の流れを意識してみるか」


 内臓まで届く一撃を放つ女に、次々と技の実験台にされる。


『ウホォオオオオオオオオオオ! ————ボゲェ!』

「わはははははは! 綺麗にコケてやがる!」


 逃げる男を追えば、落とし穴に引っかかる。


「喰らえぃ! ラビット彗星脚!」

『ウゴゥ!?』


 襲いかかろうとするその出足を、小さなウサギが全身を使って止めにくる。


「【雷よもっともっと強くあれしびれちゃえ】」

『ウボボボボバババババババアアア!?』

「なんだ。全力でやればちゃんと効くんだ。それじゃあ次は……」


 無表情ながらどこかウキウキとしながら、女が次々と自然現象を操る。


「エミュール! お願いだから、もう逃げてぇえええええ!」

「駄目ですってばフィーリアさん! 邪魔をしちゃ――」


 少女の優しさが、心に沁みた。


 あらゆる痛みが、嘲笑が、同情が、エミュールの心を摩耗させた。

 ここは森。我が支配地。傷はいくらでも治る。体力は無尽蔵にある。

 だが、心だけは、癒すことが出来なかった。


『ウッ、ウホッ、ホホゥ……』

「おっ、なんだ? 様子が変だぞ?」

「まさか、何か奥の手があるのか?」


 森の聖獣の誇りなど、ここに至ってはどうでも良かった。ただ、この地獄のような苦しみから解放されたかった。

 エミュールの心は、ポッキリと折れた。


『ウホッ、ウホッ……ウホオォオオオオオオン!』


 自分の縄張り、そして守るべきものを放って。涙を流しながらも、エミュールは逃げ出した。


 情けなかった。恥ずかしかった。それでも、助かった安堵からエミュールは泣いていた。自分の好物の果実は盗られるが、あれは数日も経てばまた生えてくる。気にすることはない。今はただ、無事に逃げることが出来てほっとしていた。


「待ってよ〜! エミュールくぅん! どこへ行くんだ〜い! もう少し遊ぼうよ〜!」

『ウホェア!?』


 後ろから、ウサギが追って来ていた。しかも、ウサギの方が明らかに速い。これでは確実に逃げることは不可能であろう。エミュールは顔を青ざめさせた。


「ウサギ! 絶対に逃すなよ! ここで逃げられてたまるか!」

「数秒でいい! そうすりゃあたしが足を止めてやる!」

「はっ! いらねぇよ! 俺だけで十分だ!」

「エドガー、お願いねっ! 次はちゃんと逃げられないようにするから!」


 ウサギだけではない。他の小人達も、なぜかやる気になっていた。エミュールは訳が分からなかった。なぜだ、お前ら、あの果実が目的じゃなかったのか?


 心を折ったところで、さらにすり潰してくる。控えめに言って鬼畜の所業である。エミュールの不幸は、初めて戦う実力者が、よりにもよってそんな性根の集団であったことだろう。彼の不幸は、奴らに出会った時点で決まっていた。


 この日、エミュールは己がやってきた行為の罪深さ知り、地獄のような苦しみと傷を負った。

 世の中には、プライドを捨ててでも従わなければならない相手がいる。それを知るには、重すぎる代償だった。


 ――次に誰か来たときは、もう少し優しく迎えてあげよう。そして、友達になるんだ!


 聖なる森の獣は、痛みを知ってようやく、聖獣に相応しい品格を得た。



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