寝技

「……行っちまった」


 瑞穂の背中が仲間たちと雑踏に消えたあと、月照の口からようやく消耗した声が漏れた。


「……なんか俺、圧倒されちまったよ」


「……呑まれてたわよね、完全に」


 月照の述懐に、佐那子も同様の思いだった。

 幼いころから学んできた抜刀術と剣道の影響で、佐那子は相対する人間の “気組み” を半ば意識的、半ば無意識に汲み取る。

 気組みとは、気力、気迫、気魂、などと意味を同じくする言葉だ。

 多少技が劣っていても気組みの強い相手には、試合で思わぬ不覚を取ることもある。

 逆にどんなに技が優れていても気組みが弱ければ、恐ろしい相手ではない。

 クラスメートだった時分の瑞穂は、そんな気組みの弱い人間の典型であった。

 人柄の良い、ちょっと危なっかしい不思議ちゃん。

 何事につけて控えめで、おっかなびっくりな少女。

 自分にとって何ほどの脅威にもならない存在。

 それが枝葉瑞穂だった。


 しかし再会した彼女は、まるで別人だった。

 佐那子は瑞穂の気組みに圧倒され、打ちのめされた。

 彼女が立ち去った今、再会の驚きや喜びよりも敗北感の方が強かった。

 瑞穂ともう一度会いたいと願ったのは、その思いを払拭したかったからだろうか。

 未熟な自分には、今はまだ理解できずにいた。


「……いったいどれだけの経験を積んだら、あんな風になれるのかしら」


「……うん」


 恋も同様の気持ちだった。

 しかし恋の瑞穂に対する認識は佐那子とは真逆で、恋は瑞穂に密やかな親近感シンパシーを抱いていた。

 自分と同じ、鈍臭い女の子。

 真面目で勉強もそこそこできるが、決して人から頼りにされる存在ではない。

 むしろ友人たちに守られ、その庇護の中で学校生活を送っていた。

 それが強く、柔らかく、温かな包容力に満ちた、眩いくらいに美しい女性に成長していた。


 恋とて、もうあのころの自分ではないと思っている。

 レベル7といえば、冒険者を志した人間でもほんの一握りしか到達できない境地だ。

 魔術師メイジ として何度も死の瀬戸際を経験し、その都度死力を尽くし生き延びてきた。

 心身ともに鍛えられたという自負がある。

 だからこそ、瑞穂が遙か先に行ってしまったことがわかるのだ。


「……どっちしろ枝葉は、もう俺たちとつるむ気はねえよ。熟練者マスタークラス一歩手前のあいつからしたら、俺たちなんてネームド以下の未熟者だからな」


 忍の言葉はいつもパーティの神経を逆撫でするが、それは常に真実を突いているからだ。


「大丈夫……?」


 佐那子が気遣わしげな眼差しを隼人に向けた。

 他の四人は、彼らのリーダーが冒険者となり “女神ニルダニスの試練” に挑んでいる理由が、林田 鈴と枝葉 瑞穂というふたりの幼馴染み――わけても枝葉 瑞穂の安否を知るためだと理解している。

 その目的が突然達成されてしまったのだ。

 隼人の動揺が心配だった。

 だがその口から漏れたのは底堅い、仲間たちの心をよりザワつかせる響きだった。


「……探索者冒険者のパーティが、なぜ外交使節団に加わってるんだ?」


「それは……なんでだ?」


「と、とにかくエルミナーゼがお城から戻ったら、もう一度枝葉さんに会えるようにアポをとってもらいましょ」


◆◇◆


(……この娘、最初からる気だったのか!)


 アッシュロードは、自ら死地に足を踏み入れてしまった自分の迂闊さに、呆れた。

 女王マグダラと瓜二つの少女騎士エルミナーゼから殺意の籠もった斬撃を受け、ぼやけていた思考の焦点がようやく合……わなかった。

 頭骨の中身は依然として酒精アルコールの中に浸かっていて、命の危険に曝されていることは理解できたものの、原因や対応策にまで考えが及ばない。


「よせっ! 危ねえだろうがっ!」


 命を取りに来ている相手になんとも間の抜けた怒声を浴びせながら、それでも古強者の反応し続けた。

 一切の呵責のないエルミナーゼの連撃を、受け、流し、弾く。

 撃ち合うごとに、+2相当の魔剣が蒼白い魔法の火花を散らす。

 だが酒精に塗れているうえに不意を突かれ、動揺は隠しようがない。

 動揺は呼吸の乱れを呼び、通常の何倍もの速さで疲労を蓄積させる。

 エルミナーゼの切っ先は鋭く強く、このままではすぐにでもなますに刻まれてしまいそうだ。

 とにかく――とにかく呼吸を整えなければ。

 一息入れて呼吸を整えなければ、次がない。


「俺はおめえに命を狙われる覚えはねえぞ!」


「そちらになくても、こちらにはある!」


「人違いだ! 俺はこの国に来るのは初めてだ!」


「嘘を――つくな!」


 ガキッ!


 噛み合わない話の代わりに魔剣が噛み合い、鍔迫り合いになる。

 アッシュロードの眼前に、怒りに燃えるエルミナーゼの瞳があった。


(まるで親の仇を見るみてえだ!)


 これだけ大騒ぎをしているというのに、訓練場には誰も現れない。

 エルミナーゼが人の来ない日を選んだのか。

 それとも元々使われていない場所だったのか。

 とにかく助っ人も仲裁人も現れる気配はない。


(いい加減にしねえと、このまま押し斬るぞ!)


 一息入れるどころではなかった。

 鍔迫り合いは乾いた砂が水を吸うように体力を消耗する。

 アッシュロードは酒飲みで二日酔いで年寄り。

 すでに息も上がっていて持久力では明らかに不利だ。

 “癒しの指輪リング オブ ヒーリング” は寝酒を飲み始める前に外したままであり、そもそもこれが剣の稽古であったなら魔法の指輪を嵌めるのは無粋で、それ以上に卑しい行為である。

 しかし、これは稽古ではない。

 筋力ストレングスでは体格とレベルに勝るアッシュロードが上回っているが、さりとて力に任せて押切すれば、やはり宣戦布告かそれに近い大外交問題に発展するだろう。

 “棘縛ソーン・ホールド” の加護で絡め取ってしまえれば越したことはないのだが、とても祝詞を唱えている余裕はない。


 膂力に勝るアッシュロードは鍔元を合わせたまま、ジリジリと切っ先を下げていった。

 そして下段近くまで剣先が下がったとき、腱が痛むのも構わずに強引に両手首を返した。

 巻き取られた魔剣がエルミナーゼの手から飛ぶ。


「勝負ありだ!」


 だがアッシュロードが手中に残った剣を突き付けるよりも早く、エルミナーゼが組み討ちを挑んできた。

 いくら剣を奪われたときの常法とはいえ――。


(とんでもねえじゃじゃ馬だ!)


 自分の娘ほどの少女騎士に武者振り付かれながら、アッシュロードは猛烈に腹が立った。

 確かに自分はろくでもない人間だが、ここまで理不尽な扱いを受けるほどではないはずだ。


(このガキァァァァ!)


 大熱戦の寝技の応酬。

 はたから見れば、まるでアッシュロードが若い娘を手籠めにしようとして激しく抵抗されているようだ。

 しかしアッシュロードにしてみれば、迷宮での強襲&強奪ハック&スラッシュ となんら変わらぬ死闘である。

 アッシュロードがサミング目潰しを防ぐためにエルミナーゼの両手首をつかめば、エルミナーゼは残ったで首筋に噛みついてくる。


 ガツンッ!


 一瞬早く、アッシュロードが頭を打ち付ける。

 額と額がぶつかり、エルミナーゼの頭が仰け反った。

 鼻先を潰さなかったのは、アッシュロードのせめてもの慈悲だった。

 だが、それ以上は容赦しない。

 二度、三度、エルミナーゼの意識が飛ぶまで頭突きを喰らわす。

 だが、さすがリーンガミルの近衛騎士というべきか。

 常人ならとっくに失神している打撃を受けても、エルミナーゼは意識を失わなかった。

 女王を守る騎士として、まずは胸を張れる気魂の強さだろう。

 それでも、頭骨の中で脳が揺れることまでは防げない。

 エルミナーゼの意思や根性とは関係なしに、その四肢から力が抜けた。

 アッシュロードは少女騎士の背後に回り込み、長い脚を絡ませ羽交い締めにした。


「ぜぇぜぇ! いい加減にしろ! 本当にこのまま絞め殺すぞ!」


 それでも暴れ続けるエルミナーゼに、アッシュロードが再度の罵声を浴びせかけたとき、


「――これはいったい何の騒ぎですか!」


 凛としたアルトが訓練所に響き渡った。

 何の因果か、不運の押し売りか。

 声の主は、アッシュロードが今もっとも会いたくない相手だった。

 訓練場の入り口に現れた女王マグダラが、厳しい視線でこちらを見据えている。

 トドメとばかりにエルミナーゼの口から零れる、決定的な言葉。


「お、お母様」


(――は!?)


 アッシュロードはここにしてようやく思いいたった。

 エルミナーゼという一風古風な名が、リーンガミル聖王国統治者の唯一の娘の名であることに。

 アッシュロードは興味のない事柄には徹底して無関心・無頓着な男だ。

 女王本人の名ならともかく、その家族構成などない。

 外交使節団なら当然知っておくべき知識の欠如が、不幸を決定づけた。

 要するにグレイ・アッシュロードは、訪問国の元首の目前でその娘を手籠めにしている。


 ……ようにしか見えなかったのである。



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