トリニティ・レイン
トリニティは淀みなく、魔術師系最高位階の呪文 “
縦軸、横軸、高さ軸。
普段使っている三つのベクトルに、時間軸を加えての詠唱だ。
魔導方程式では、あらゆる単位を距離として現す。
時間も、そして物質量も、速力を用いて計算することで距離として現している。
その方がシンプルで美しいからだ。
純力=物質量×光速力×光速力
このシンプルな魔導方程式から、すべては始まっているのである。
(始点が不明だ。取りあえず一度飛んでみるしかない)
他の魔術師が聞いたら仰天するしかない思考の元、トリニティは
始点=現在位置がわからないのであれば、“転移” などできるわけがない。
目的の座標を計算できず、飛んだ先が “石の中”であれば問答無用で
そんな蛮勇を振るう魔術師などいない。
だが、今のトリニティは意に介さない。
今の彼女は肉体を持たない意識体であり、“石の中” だろうと “掘の中” だろうと関係ないのだ。
トライ&エラーを繰り返して、徐々に目的地に近づいていく方法が採れるのである。
方程式が組まれ、“転移” の魔法が発動する。
特有の発光現象が起こり、トリニティの姿は想像上の執務室から消えていた。
色鮮やかな
(――これが量子の世界か!)
トリニティの薄い胸が高鳴った。
ライスライトを始めとする転移者たちが見てきた光景を、今彼女も見ているのである。
(空間を飛ぶだけの通常の “転移” では認識できないのはなぜだろう? もしや時間には記憶が結び付いているのか? 詳しく研究に値する
そしてトリニティ・レインは、興奮に弾む胸の片隅で思った。
本来自分は、カビ臭い書斎で本に埋もれ、研究に生涯を捧げる人生を送りたかったのだ――と。
それが何の因果か冒険者となって死臭漂う迷宮を這いずり回り、挙げ句の果てに世界最大の帝国の宰相にまで登り詰めてしまった。
(面白いではないか、我が人生!)
恐るべき童顔の天才賢者が快哉を叫んだとき、彼女の意識は量子の隧道を抜けていた。
・
・
・
(……おい、これはいったい何の嫌がらせだ?)
光泡立つ
見知った風景。
見知った人物。
だが、現在ではない。
なぜなら、そこにいた人物のうちのひとりが自分であったからだ。
そこは――まだ冒険者の酒場と言われていた頃の “獅子の泉亭” の裏庭だった。
「ア、アッシュ!」
意識体のトリニティの前で、もうひとり自分がパーティの仲間である男に声を掛けた。
外見上はまるで呪いを受けたように現在と変わらないが、頬が上気し、声があからさまに上擦っていた。
稼いだ日銭の分だけ安酒を煽り、酒場の裏手にある馬小屋に潜り込もうとしていたグレイ・アッシュロードが振り返った。
こちらはボサボサのざんばら髪がまだ半ば黒く、幾分今とは異なった姿をしている。
「……? なんだ、レイン?」
いい加減酔いの回った濁った目が、実体のトリニティに向く。
この頃のアッシュロードは、まだ自分をレインと呼んでいた。
どういう美学か信条か。
この男はよほど親しくならない限り、女を名前では呼ばない。
「い、いや、その用というほどのことではないのだが……」
モニョモニョと言い淀む過去の自分を見て、意識体のトリニティは頭を抱えた。
(おい、やめてくれ! なぜここでわたしの黒歴史を再現する!)
無論、その悲痛な叫びは過去の自分には届かない。
理屈も原因も不明だが、どうやら自分は、自分が一番思い出したくない時空に飛び出してしまったようだ。
「い、良い夜だな! 月が奇麗だ!」
(……馬鹿、今夜は曇天だ)
意識体のトリニティは、掌で両目を覆った。
まったく見ていられない。
「……月?」
案の定、アッシュロードは不思議そうな顔を浮かべた。
だがこれがこの男の優しさなのか、それとも単に面倒なだけなのか、とにかくそれ以上その話題には触れなかった。
「……おめえ、身体の調子は本当にいいのか?」
「調子? ああ、いいとも! むしろ以前よりも良いくらいだ! 最高だ!」
過去の自分がドンと胸を叩いた。
強く叩きすぎて痛かった記憶が甦ってくる。
「……そうか。無理はするなよ」
「ああ、しないとも!」
ギコチナイ笑顔が痛々しい。
意を決して酒場を出たはずだった。
覚悟を決めて声をかけたはずだった。
“
秘していた気持ちを伝えようと。
この想いを抱えたまま
この夜、トリニティ・レインはグレイ・アッシュロードに恋の告白をしようとしていたのである。
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