アッシュロード vs トレバーン

 近侍の騎士が抜剣して、わたしとノーラちゃんの頭上に振り上げました。


 ――無礼討ち!


 当然です! 仮にもこの国の統治者である “上帝陛下” の馬前に飛び出した上に、その軍列を乱し、行軍の足を止めてしまったのですから。

 わたしは固まってしまっているノーラちゃんを抱き締め、背中を剣を振り上げた近衛騎士に向けました。

 猫は車の前に飛び出した瞬間、動けなくなってしまうのです。


 一秒……二秒……。


 死をもたらす、斬撃の衝撃は襲ってきません。

 代わりに誰かがわたしたちの前に立ち、日射しを遮る気配がしました。

 恐る恐る目を開けると、そこには見慣れたまだらに汚れた外套マントを羽織った猫背がありました。


「……アッシュロード……さん……」


 ぶらり……といった様子で、わたしたちと近侍の騎士の間に割って入ると、騎士を無視してトレバーン陛下を見上げます。

 そしてトレバーン陛下も、アッシュロードさんを。


 その瞬間、わたしは見ました。

 いえ、わたしだけでなく、この場にいるすべての人が、群集が、見たのです。

 アッシュロードさんとトレバーン陛下との間で交わされる、目に見えない凄まじい闘争を。

 無言で斬り結ばれる、魂魄の剣劇を。

 それは周囲の人々を、都大路を、世界を圧して、わたしたちに “耳鳴り” という物理的な変調すらもたらしました。

 近侍の騎士の人も、剣を振り上げたまま “棘縛ソーン・ホールド” の加護を受けたように固まってしまっています。


 トレバーン陛下の見る者を射竦める猛禽の如き鋭い眼光と、アッシュロードさんの虚無的な三白眼が、ブレず惑わず怯まず怖れず、真正面からぶつかり合います。

 それは見る者にとって、永劫とも思える戦いでした。

 やがて不可視の戦いのプレッシャーに、当事者のふたりではなく周りの人間が限界に達して押し潰されそうになったとき――。


 ふっと、トレバーン陛下が “気” を抜きました。

 それに合わせて、アッシュロードさんも見えない剣を鞘に収めます。

 その途端。多くの見物人が、ヘナヘナとその場に腰砕けになりました。

 わたしもそれまで身体の中に留め置かれていた汗が一気に噴き出して、総身を濡らしました。


 ――はぁ、はぁ、はぁ!


「――貴様の女か?」


 “気” は抜きましたが、鋭い眼光はそのままにトレバーン陛下がアッシュロードさんに下問します。


「そうっすね。俺の女です」


 こちらも虚無的な三白眼をそのままにアッシュロードさんが………………えっ?


「ふっ――ゆくぞ」


 アッシュロードさんの突然の言葉に驚き固まるわたしを尻目に、トレバーン陛下が再び馬首を外郭城門にめぐらせました。


「はっ――ですが、陛下の馬前を乱した罪を見逃すわけには」


「捨て置け。女子供相手に威を張るは武人の恥辱ぞ」


「は――はっ!」


 カッ、カッ、カッ、カッ!


 まさしく、これが “天下人” の振る舞い。

 蹄の音も力強く高らかに、上帝 “アカシニアス・トレバーン” 陛下が出陣します。


「――留守は任せたぞ、我がよ!」


 トレバーン陛下のまとう “真紅の衣プレートアーマー” が城外に消えてから、


「………………御意」


 ようやくアッシュロードさんが呟くように応えました。


「……怪我はないか?」


「……アッシュロードさん、あなたはいったい……」


 わたしは、しゃがみ込んで気遣いを見せてくれたアッシュロードさんに答えるよりも、訊ねてしまいました。

 トレバーン陛下の “筆頭近衛騎士”

 それは取りも直さず、数多いるこの城塞都市の――いえ、この “大アカシニア神聖統一帝国” の騎士たちの、頂点に立つ存在と言うことです。


「……怪我は?」


「え? あ、はい、大丈夫です……」


「ご、ごめんにゃにゃい……」


 ようやく我に返ったノーラちゃんが、ボロボロと大粒の涙を流してしゃくりあげました。


「謝るのは俺の方だ。本当に子守失格だ。ごめんな、恐い思いをさせちまって」


 ノーラちゃんの頭に手を置いて優しく撫でました。

 その眼差しは、わたしが初めて見る穏やかで柔らかなものでした。


「にゃーっ!」


 こらえきれずに、ノーラちゃんがアッシュロードさんに抱きついて泣き出しました。

 わんわん……ではなく、にゃーにゃーと。


「おまえも……ライスライト」


 アッシュロードさんがノーラちゃんを抱きとめながら、わたしを見ました。

 その視線はノーラちゃんに向けていたものよりも、少し硬く、少し真剣で、少し大人びていました。

 わたしは、ノーラちゃん同様アッシュロードさんに抱きついて泣き出したくなる自分を、必死に抑えました。

 ほんの少し前のわたしなら、人目も憚らずにノーラちゃんと同じ事をしていたでしょう。

 わたしも……恐かった。本当に恐かった。


 でも、今はわかるのです。

 そうしてしまえば、この人を困らせることになると。

 この人に “困った顔” をさせてしまうと。

 それは……嫌でした。


 だからわたしは自分の中の衝動に耐えて、ただ『……はい』と頷くのでした。



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