第81話 兄のイーサン

 小さい頃から、廊下の突き当たりに聖人像が置かれていた。この家の人達は、使用人も含めて、何故か朝起きると小さな石像の所へ拝みに行っていた。聖人の背後には窓が取り付けられていて、天気の良い日はそこから朝日が昇る。後光が差しているみたいで、神々しく感じられたのだと思う。


 朝起きると体が勝手に像の所へ向かっていた。窓から差し込む朝日を眩しく思っていると、像の前で祈っているイーサンの後ろ姿が目に入った。ひざまずき、頭を垂れて祈りを捧げている。


 僕と違って背が高く、がたいの良いイーサンの隣でお祈りするのは何だか気が引けた。邪魔になってもいけないと思い、暫く待っていることにした。


 厳格な教えを広めたために反発されて殉教に至ったことで有名な人なのに、彼は優しい光を背中に受けて、何とも言えない笑みを浮かべている。聖人様も生きているうちはこんな風に微笑んだことがあったのだろうかと、拝みに行く度に考える。今日は良い天気になりそうだ。


 それにしても、長い。兄は微動だにしない。一体、何を祈っているのだろう。ずっと柱の後ろに隠れていても埒があかないので、その場で手を組んだ。今日も清く、正しく、慈悲の心を持って過ごせるように、皆が幸せに生きられるように。


 時間になると、ライリーとアシュリーを部屋まで迎えに行き、連れだって食堂に向かう。中に入ると、既に両親とイーサンが席に着いていた。まずは、昨日顔を合わせることのできなかった母の元へ二人を連れていく。


「母上、ただいま戻りました。会えて嬉しいです」


「マルク。随分と大きくなって。涙が出てきそうだわ」


「そんな。ですが、おかげさまで思っていたより早く会うことができました」


「そうね、家族が揃うのは久しぶりね。賑やかだこと。礼拝所のお二方も、ようこそ。いつもマルクがお世話になっていますわ」


 母はハンカチの隅を目もとに当てていた。


「突然お邪魔してしまいすみません。食事まで用意して下さり、ありがとうございます」


 淀みなく話すアシュリーだが、いつもの砂を吐くような台詞が出てこないということは、結構緊張しているのだろうか。


「あ、ありがとうございます」


 ライリーは相変わらずガチガチになっていた。母親に名前を軽く紹介し、二人を席まで案内する。僕も席に着くと、妹のニーナが時間になっているにも関わらず顔を出していないことに気がついた。まだ眠っているのだろうか。


「ニーナはまだ来ないんですか?」


「あの子、なかなか顔を出さないの。困ったわね」


「やっぱりふさぎ込んでいるのですかね」


「かしらね。社交界にも出たがらなくて。無理に連れ出したって恥ずかしいだけですからね。あの様では縁談も進まないですわ」


 母は膨らんだ袖を揺らしながら、頬に手を当てる。そうだ、兄にも挨拶しないと。昨日会っていないのだった。


「おはようございます。そしてお帰りなさい兄上。お元気でしたか?」


「おはよう」


 と低い声で呟く。ライリーやアシュリーの方をにらみつけているような感じがした。


「とにかく、今日はお客人もいるのだ。では一同、本日も変わらず朝日が昇り、集い、食すことができたことに感謝し、祈りを捧げよう」


 父が杯を掲げたのに続いて皆は手を組み、祈りの言葉を捧げる。


 今日のメニューは、パン、肉団子とキャベツと人参が入ったシチューに、分厚いハム。朝にしては多い。はじめは遠慮がちだった二人も、いざ一口食べると勢いがつく。時々ナイフやスプーンが皿に当たってカチャカチャ音を立てる。普段は全然気にならないけど、今日はやけにひやひやする。父は遠くを見ながら召し上がっている。母は何も言わないが顔を引きつらせているし、イーサンの顔は特に険しい。


 親たちの様子を伺う。とても優雅に、静かに三本の手を使ってパンを掴んでいる。親指、人差し指、中指だけ使って食べるのがマナーだとされているのだ。


 そろそろお腹が満たされてきた頃だった。突如、机を叩く音を響かせながら、イーサンが立ち上がった。ガタリと椅子が音を立てる。危うく倒れるところだった。


「ごちそう様でした。私はこれで失礼する」


「イーサン。具合でも悪いの?」


 母が尋ねる。もう食べ終わっているみたいだったが、席を立つにはまだ早い。


「いえ、ただ不愉快なだけです」


「貴方の振る舞いこそ不愉快ですわ。粗野なことをして。お客様の前ですよ。跡継ぎとしての自覚があるの?」


「勿論。だからこそですよ」


 イーサンは顔をしかめたまま食堂を出て行く。アシュリーが目を伏せる。ああ、やっぱりと言わんばかりに。


「ごちそうさまでした。僕も失礼します。二人は先に部屋へ戻っていて下さい」


 なぜ彼が怒ったのか、心当たりのある僕も続いて部屋を出る。兄の大きな背中を小走りで追いかける。


「待って下さい。昨日伝えられなかったことは謝ります。あの人達は僕と同じ礼拝所にいる人で、朝食だけでも一緒にってことになって、その、普段もっと質素な食事だからあまり慣れていなかったかもしれませんが……」


「何が言いたい」


「えっと、そのだからってあのような振る舞いは」


「庶子に過ぎん貴様が誰といようが勝手だが、片方の平民はともかく、何故なにゆえ我々が赤髪の賤民と食卓を囲まねばならんのだ」


「貴方はどうしてそんなことを言ってしまえるんですか!」


 声が大きすぎたかも。口元を慌てて押さえる。


 初めて出会った頃から彼の民族的背景は分かっていた。ウィア族が多くの街でどんな扱いを受けているのかも。けれど、神にお仕えする身である以上、全ての人が平等であるはずだ。民族など関係なく接するべきだ。だからずっと気にしないようにしてきたのに。


 父や母だって使用人の皆だって、彼を僕の知り合いとして、お客人としてもてなしてきたのに。そんなことも分からないのか。


 生まれなんて努力したって変えられない。そんなことで不機嫌になったって彼が困るだけじゃないか。


 いつも馬鹿みたいに明るくて、それでいていざというときは頼りになる先輩が、僕がここに連れてきたせいで傷つくなんて、僕の家族が苦しめるなんて。


「今なら、何故ファルベル王国が無くなったのか分かる気がします。きっと貴方のような人が王だったのでしょうね」


「皮肉のつもりか? だが、貴賤の区別はつけられるべきだ。朱に交われば赤くなるように、染みが広がっていくように、賤民が混ざれば我々も汚れてゆく。貴き者が施しを行おうものなら我々の良心につけ込み、蝿のようにたかって食いつぶす。守るべき民が返って苦しむことになる。それでは本末転倒というものだ」


「確かに一理あります。ただ、戦争が絶えず多くの人が貧しかった当時は、そうやって国を追い出された人々がリー家についていったのでしょうね。遊牧民の王として、差別に抵抗する王として。それがいつしか大きな勢力になっていたんです」


「甘いな。所詮、現王家に利用されただけの者達。過大評価しすぎだ。ともかく、貴様はつきあうべき人間を選ぶべきだ。貴様に落ちぶれる暇などないのだからな」


 と言い残し彼は踵を返して歩いて行く。どこまでも兄とは考え方が合わない。腹立たしいが兄と同じように自室へ戻って出かける支度をしておこうと思った矢先、兄が急に立ち止まり、顔をこちらへ向けること無く尋ねてきた。


「お前は、何故初代ファルベル国王の像が崩れているのか知っているか?」


「確か、リー家との戦争で壊されてしまったのですよね」


「違う。敗戦後、奴らの傘下にあった者知らぬ役人どもによって壊されたのだ。私はこの雪辱を忘れない。誇りを忘れ、頭を垂れるような王にはならない。決して」


 力強い声で言い放つと、今度こそ兄は自室へと戻っていった。修行を終えた兄は、ここに戻ってきて久しぶりにあの像を見たのだろう。その時、何を思ったのだろうか。

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