第54話 物置小屋にて

 食事を終えた後、近頃人気になっている大道芸人の話をしたり、店の奥を見せてもらったりしながら過ごしていたが、今日中に片付けなければならない課題を思い出したベラは、急いで店を出ることにした。


「楽しかったです。きっとまた会いましょう」


 ダリルが目を輝かせている。


「え、ええ」


 ベラは、複雑な思いを抱えながら、店を後にした。が、隣の建物でうごめいている人影が目についた。



 気になって近づいてみる。なんと、先ほどの老婆が何かを持って部屋を出たり入ったりしていた。


 ベラは、気づかれないよう、そっと歩く。段々輪郭がはっきりしてくる。老婆が持っていたのは服だった。そして、不思議なことに、彼女の足下には、スープ皿とパンが置かれているのである。ベラは反射的に顔をゆがめた。地面に食べ物を置くなんて! 店の人が頭を悩ませているのも頷ける。


 だが、彼女はアシュリーのことを知っているかもしれない唯一の人。ベラは思い切って駆け足で老婆の隣に立ち、声を掛けてみた。


「何をしていらっしゃるの」


 老婆がいたのは、四角い建物から飛び出すように作られている、物置であった。

真っ先に飛び込んで来るのは、足が一本取れた椅子。根元からもぎ取られた足がそばに転がっていて、布が椅子の上に被せられている。角にはいくつかの棚が置かれており、床にもお構いなしに物が散らばっていた。


 奥の壁には、色の違う四角い板がついていた。窓が取りつけてあるのだ。部屋は暗く閉ざされ、手入れがなされていないのか、風が吹き込むと、白く巻き上がる埃。ベラは思わず咳き込んだ。


「ええ、ええ、貴方には信じてもらえないでしょうけどね、私は見たんですよ。坊ちゃんが窓を見ている時にね。なんか、ブツブツ言っていると思ったらね、お姉様がいたんですよ。ああ、貴方が嫁いでくる前のことですかね、なら、ご存じないのも無理ありませんね。ご主人様の姉君ですよ。美しい方でしたねえ。あの人も気の毒でした。まだお若かったのに。お姉様はねえ、お父様からいただいたお人形と毎晩、毎晩眠るんですよ。私がお洋服を洗濯しようとすると、そら泣き出して騒ぐから大変で大変で。だからね、お昼寝している間に、ちょっと拝借するんです。起きるとうるさいですからね。大変ですよ。ええ、ええ。本当に私は見たんですからね、ええ、確かにお姉様がいたんですよ、確かにこの目で見たんです。あのお姿は間違いありませんて」


 唾を唇の端に溜めながらまくし立てる老婆。ベラはすっかりうろたえてしまって、首が痛くなるほど頷くことしかできない。


(きっと、私を誰かと勘違いしているんだわ)


 言うだけ言って老婆は服を椅子の上に置く。彼女は壁に手をつきながら、よっこいせ、どっこらせと声を出しながら、一歩一歩操られたマリオネットのように膝を動かして歩く。その足取りは、まるで自らが何をしに来たのかすっかり忘れてしまっているかのようだった。


 足下には食べ物が、目の前の椅子には服が置かれている。老婆と砂で汚れたパンを見比べながら、立ち尽くすベラ。


 老婆の姿が見えなくなると、ベラはまじないが溶けたように振り返る。辺りに誰もいないのを確かめると、そっと物置の中に入り、服を拾って広げる。男ものの上着。ふと、自分の肘に蜘蛛の巣が絡まっているのを見つける。腕を振って糸を振り落とそうとした時、手が棚の扉にぶつかった。その勢いで扉が開き、中の物が飛び出してきた。


 白く、四角い物だった。服を腕に掛けて、白い四角を拾い上げる。小さなキャンバスだった。絵の具のつん、としたにおいが僅かに残っている。人の絵が描かれている様子だった。


 彼女は扉から差し込む光を当てて描かれているものを確かめようとした。色が浮かび上がる。色あせ、絵の具が禿げ、人の立ち姿であることが、かろうじて分かる程度だった。中心に男が立っており、隣にいる女が赤ちゃんを抱えている。


 女の足下には、丈の長い服を着せられた小さい子供が立っている。椅子に老人が座っており、後ろに派手な首飾りをした老婆と、使用人らしき身なりの女が立っていた。


 先ほど廊下で見た、家族の肖像画とよく似た構図の絵。ベラはキャンバスの右下に描かれた小さな文字に目を走らせる。消えかかっていて、ほとんど読み取れなかったが、――一××四――と愛しのアッシュ――の文字を見つけた。


 「これって……まさか」


 ベラは目に涙を浮かべていた。予測は正しかった。母親にしがみついているのは、幼きアシュリーだったのだ。間違いなくこの家に生まれ、育ったはずなのだ。どこで家族とすれ違ってしまったのか、今彼の肖像は、廊下に飾られることなく、物置でひっそりと息を潜めている。まるで、いない人であるかのように。


 ベラは、キャンバスをそっと抱き寄せた。


(よく分からないけど、アシュリーはこの家で疎まれていたんだわ。でなければ、ダリルやあの使用人のお姉さんがアシュリーを知らないはずないもの。あのお婆さんだけが、気にかけていてくれたのね)


 ベラは一瞬、絵を持って帰りたいと思った、きっと物置なんかよりはずっと明るくて、賑やかな場所に飾ってあげられるだろう、他の女は知らない、幼き彼を自分だけが見ていられると。


 それが、いけないことであることは分かっていた。だったら、ダリルに頼んで譲ってもらい、礼拝所へ届けようか。アシュリーに見せたら、何と言うだろう。

家族に愛された時期もあったのだと、使用人だったお婆さんが、未だに貴方を気に掛けている、と伝えたら、どんな顔をするだろう。喜ぶだろうか。それとも、もう見たくない、聞きたくないと顔を歪めるだろうか。


 彼女は、手でキャンバスの表面をなぞり、埃を払う。おそらく、廊下の端に、他の絵と一緒に並べられることはないと、ベラの頭の中でもう一人の彼女がささやく。自分にできることはもうないのだと。


 彼女は椅子の上に掛けてあった布をひったくり、棚の上に被せた。その上にキャンバスを立て掛け、荷物をまたぎながら物置の奥に進み、窓を開けた。


 立ち上る塵に光が当たって、粉雪のように輝いた。くすんだ絵画に鮮やかさが蘇り、雪の日に、家族がそわそわしながら画家の前で並んでいる姿が立ち現れるようだった。窓ガラスを人差し指でそっと撫でる。


(姉様って多分もう亡くなっているのよね。アシュリーとお婆さんが見たっていうのは、どういうことかしら)


 しばらく外を眺めていたが、ベラは服とお盆を拾い上げ、裏口へ戻って行った。使用人にお婆さんの居場所を尋ねると。既に帰っているだろうということだった。ダリルは仕事に戻ったのだろう。威勢の良い彼の声が、遠くから響いてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る