第45話 エルフの森と泉の悪魔 その10
いよいよ空が赤みを帯び始め、木の影が長くなってきた。そろそろ約束の時間が迫っているのを感じた僕達は、泉に向かって歩き始めた。
視界が開けるに連れて、魔物の全容が明らかになってきた。
水の湧き出る岩の上に、人の背丈ほどある全長の、巨大な蛙が佇んでいる。褐色に黒や緑色の斑点が混ざっており、白い腹部は膨張と収縮を繰り返している。しかし、蛙にしては奇妙な光の当たり方をしており、よく見れば背中には鱗が付いているようだった。長い尾を垂らしていることから、蜥蜴のようにも思われた。
半開きの赤い目が、こちらを伺っている。約束が果たされるのを待っているかのように。夕日が降り注ぎ、黒い影と静寂が泉を覆っている。それが余計に威圧感と気味悪さを増長させていた。
足が震えている。寒気がしてきた。できれば帰ってしまいたいほどだが、キャロルを送り届けるまでは傍を離れられない。
彼女は真っ青な顔で、冷や汗を垂らしながらも、精悍な顔つきをしていた。しっかりとした足取りで魔物の前に立った。
「なんか、騒がしいな。怒っている感じ」
ライリーが僕の耳元で囁く。僕の聞こえない、見えないところで何かが起きている。胸騒ぎを覚えるが、見守ることしかできない。
「来てくれたね」
腹の底で響かせているような、くぐもった低い音が、魔物の方から聞こえてきた。魔物リムナスは、人の声を真似して池や沼に誘い込む。人間の言葉を話すなど、動作もないことなのだろう。
「約束通り、歌いに来ました。聞いて下さいな」
彼女は胸元に揺れる木の花を握りしめ、旋律を奏で始めた。
間もなく異変が起きた。泉の水面が激しく波打ち、無数の手が形作られる。手が、僕達の方に向かって伸びてゆく。慌てて逃げだそうとするも、足首を捕まれてしまった。花が水に浸かっている。水なのに、本当の手に捕まれているかのよう。泉の方へ引きずり込まれてゆく。
「兄弟、大丈夫か!」
ライリーが駆け寄り、持っていた銀の瓶を取り出した瞬間、アシュリーが声を張りあげた。
「兄弟。これはね、泉に沈められてきた、乙女達なんだよ」
アシュリーは、キャロルをお姫様みたいに抱えながら、立っていた。彼の足首を容赦なく3本くらいの手がつかんでいるが、恐ろしいことに、全く動じていない。それどころか、キャロルの背中に回している方の手で、水でできた手を取っていた。ダンスの時、男女が手を取り合うように。
ぬかるんだ地面に這いつくばりながら、足首を握っている手を見る。冷たく、澄んだその手は、僕達に助けを求めていたのかもしれない。
アシュリーは手を見て、その正体を知って気づいたのだ。手から逃げてはいけないことを、キャロルだけじゃない、将来の人だけじゃない、これまで生け贄にされてきた乙女達も、救わなくてはならないことに。
ライリーは、水の手を払いのけながら、困惑した表情を浮かべている。
「先輩、彼女達の為に祈って下さい。僕は大丈夫ですから。この方達が、これ以上辛い思いをしないように」
ライリーは、戸惑いながらも、そこから動くことなく、ぎこちない動きで手を組んだ。お祈りの言葉を唱える。もう1本、手が僕の方に伸びてきた。捕まれる前に、僕はその手を取り、額に当てた。少しでも、祈りが彼女に、生け贄となってしまった方に伝わるように……。
「キャロルちゃん、もし、この子達が君のことをずるいって、一緒に沈んで欲しいって、思っていたとしても、この子達の為に歌ってあげられる?」
背後で、アシュリーがキャロルに話しかける声がする。
「それが本当なら、辛いです。でも、でも、私がずるいのは事実かもしれません。彼女達は拒否できなかったのでしょうから」
僕の足首から、力が抜ける。手の形が崩れ、水に戻ってゆく。僕は立ち上がり、キャソックを軽く絞る。泥だらけになっていた。アシュリーの背中の向こうから、キャロルの声がした。
「精一杯歌います、私には、それしかできませんから」
「分かった。じゃあ、少しだけ静かにしていてもらおうか」
アシュリーが彼女を下ろす。手が、真っ先にキャロルの方へ纏わり付いてくる。彼が、懐から銀色に光る小さな杖を取り出し、キャロルの足下に円を描く。すると、はじかれるように、彼女の周りから水が、同心円状に引いていった。
再び歌い始める。澄んだ声が、不安と、覚悟と、優しさの詰まった歌声が、響き渡る。魔物に語り掛けるように、温かく包み込むように。
健やかな時も、病める時も、
晴れ渡る日も、雨降る夜も、
手を取り合うと、誓いましょう
夜明けの笛が鳴り響くまで
結婚式で良く歌われる詩から始まり、葬式で歌われるあの世での幸福を祈る歌がしっとりと奏でられる。その後は、テンポのはやい、楽しげな歌が、次々披露された。段々と、水面の上に伸びる手が減ってゆく。
僕達が、膝下辺りまで水に浸かっている中、少し離れたところで、老エルフと、女エルフの声が聞こえた。木の上から様子を伺っているハルディアの傍で、二人が何か言い合いをしているようだった。
老エルフが起きてきて、ひと悶着起きたみたいだ。だが、僕がいるところからは、詳しい状況が見えてこない。
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