第86話 シルのために

 室内の空気の質量が大きくなり、身動ぎどころか、呼吸をすることさえ躊躇われる。そんな錯覚すら抱くほど、ねっとりとまとわりつくような重々しい空気が流れている。

 難しい表情で、クラウディアの執務室に置かれたソファに座るのはアルとセアラ。その向かい側にはケット・シーの夫婦が俯いたまま座っている。リタ、クラウディア、ドロシーは少し離れたところで、静かにその成り行きを見守っている。


 遡ること三時間ほど前、歓迎パーティーという名の食事会を終えたアルにクラウディアが耳打ちする。


「今、ソルエールでは妖精族の保護を進めているの。その中にはケット・シーの一族も含まれているわ。理由は言わなくても分かるわよね?それでシルちゃんの両親もいる。シルちゃんが寝たらセアラさんと一緒に執務室に来てちょうだい」


「……はい」


 有無を言わせない口調で突然告げられたシルの両親の生存。普段はあまり表情が顔に出ないアルだが、その困惑と動揺はセアラとシルでなくとも、はっきりと見てとれる。

 ソルエールがケット・シーを始めとする妖精族の保護を進める理由は、もちろんダークエルフの暗躍。しかしそちらに気を回す余裕など今のアルには無かった。


「アルさん?どうされましたか?」


 セアラとシルが不思議そうにアルの顔を覗き込む。


「いや、何でもない。今日は疲れたろう?セアラもあまり食欲が無かったようだし、早く寝る準備をしよう」


「……ええ、そうですね」


 クラウディアがアルに何かを耳打ちしたことはセアラも見ており、アルは当然それを分かった上で回答を避けた。それは今この場では言えないということの何よりの証左。セアラはそれ以上追求することなく引き下がる。


 三人が案内されたのは、この行政機関で働く者のために作られた宿泊室を少し改装したもの。相変わらず装飾などは一切無いものの、一通りの家具やキッチンなどの設備が備え付けられており、三人で暮らすには十分だった。

 ちなみにリタは、クラウディアの執務室に備え付けられたベッドで寝泊まりをすることになっている。


「パパ、ママ、もう眠いよ……」


「はいはい、寝るのは歯を磨いてからね」


「はーい……」


 三人掛けのソファに腰を下ろしたシルが目を擦りながら眠気を訴えると、セアラが優しい口調で諭し、背中を押して洗面所へと連れて行く。

 そんな二人の後ろ姿を見送りながら、アルはふぅと一つ息を吐いて自身の感情を整理する。

 まずシルの両親が生きているということは、紛れもなく喜ばしいこと。アルとセアラは叶うのであれば、シルを本当の両親に会わせてやりたいと思っていたし、旅行の時には本人にもそう伝えていた。それにも関わらず、いざその時が来ると、自身の中にそれを望まない感情があることに戸惑っていた。

 覚悟はしていたはずなのに、自分達のもとからシルがいなくなるかもしれないという事実を、アルは処理することが出来ていなかった。


「アルさん、寝ましょうか」


「あ、ああ、そうだな」


 思考に耽るアルに、セアラがいつもと変わらぬ穏やかな口調で声を掛ける。三人は小さめの寝室に不釣り合いな、クイーンサイズのベッドに川の字で横になると、シルがもぞもぞとアルの胸の中に入ってくる。セアラが若干寂しそうではあるが、シルがアルの胸の中が一番安心すると言うので、二人ともそれを尊重している。


「ねぇパパ、ママ」


「どうした?」


「ここっていいところだね。それに私はパパとママがいればどこでも楽しいよ。二人とも大好き」


「……ああ、ありがとう。俺もシルが好きだよ。おやすみ」


「私も好きよ。おやすみなさい、シル」


「うん、おやすみなさい」


 シルから送られた言葉にアルは胸が熱くなると同時に、締め付けられるような感覚を覚える。それでもアルは平静を装いながら頬を緩め、慈しむようにその頭を撫でて、額にキスをする。

 気持ち良さそうにそれを堪能するシルが、やがて夢の世界へと旅立ったのを確認すると、セアラが小声でアルに話しかける。


「アルさん、先程はどうされたんですか?あれから心ここにあらずという感じでしたが……」


 アルはシルの少し乱れた髪を撫で付けると、寝室の出口を指差し、セアラと共にダイニングテーブルに着席する。


「……クラウディアさんに言われたんだ。シルの両親がソルエールにいるらしい。それでシルを寝かせたら、執務室に来て欲しいって」


「シルの両親が?でもそれは……」


「ああ、とりあえず俺たちだけで会ってくれということだろう」


「そう、ですか……何か理由があるんでしょうか?シルを同席させないなんて……」


 確かに本来であれば、会いたくてたまらないはずのシルを同席させない理由などないはずだった。強いて言うならば、自分達が引き取りたいから、予めアルたちを味方につけておこうということくらい。

 しばらく考え込んだアルは、シルにとってはあまりにも残酷な可能性に行き当たる。


「…………もしかしたら……本当はシルは捨てられたのかもしれない……」


「っ!?そんなっ!……そんなことは……」


 思わず大声を出してしまい、セアラが慌てて口を押さえ、小声でアルに反論しようとするが言葉に詰まる。そんなはずはないと思うと同時に、彼女自身もどこかでその意見に納得してしまっていた。

 正直なところ、今の妖精族を取り巻く状況、シルが一人でいたという事実に鑑みれば、両親に再会できる可能性は限りなく低いのではないかと二人は思っていた。そこに来てシルの両親が無事に保護されており、シル抜きで二人に会いたいと要望しているという現状。アルとセアラに、シルにとって辛い現実を連想させる材料は揃っていた。


「…………シルはあんなにも素直で、優しくて…………それに私たちのことだって、本当の親じゃないって分かっているのに……それでもいつも明るくて…………本当に……本当にいい娘なんですよ!?……なのに……どうしてそんなことが出来るんですか……?」


 脳裏からその考えを振り払うかのように、セアラはどうにかして反論の言葉を紡ぐ。彼女とて、ここでアルに対して何を言ったとしても、どうにかなることではないことは十分に承知の上。それでも大切に思うシルのことを考えれば、口に出さずにはいられなかった。


「……そうだな……シルは本当にいい娘だよ。だから俺もそうでないことを願ってる。だけど……そうであった場合のことも考えておかないといけない。シルに会わせるべきか、会わせないべきかも含めて……」


 アルは努めて冷静に言う。今回の問題は非常にデリケートなもの。シルのことを第一に考えるのであれば、感情的になることは避けるべきだとアルは考えていた。


「私は……そうであったのなら会わせるべきではないと思います」


 肩を震わせながら話すセアラの声は、小さいながらも怒気を感じさせる。


「ああ、基本的には俺もそれでいいと思っている。だけど俺たちの懸念が杞憂だという可能性もあるし、そうだとしても深い事情があるのかもしれない。とりあえず話を聞いてみないことには、先に進めない」


「……はい、そうですね……」

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