幕間3

 



 タンブラーに熱いコーヒーを注いで……、と考えながら台所の戸棚を開け、「あれ?」と呟いた。

 さっきはあったはずの瓶入りのインスタントコーヒーが無い。


「誰か飲み切ったのかな。でも確かここにストックがあったはず」


 別の戸棚を開ければ、そこには同じインスタントコーヒーのストックが……、無い。

 買い置きの商品が置かれる中、ちょうどコーヒーの入った瓶が一つ入りそうな程よい隙間が空いている。

 買い置きも飲み切った? いや、食料品の消える速度が尋常ではない敷島家とはいえ、さすがにコーヒーが数時間で瓶ごと消失する事はない。

 戸棚を前に首を傾げていると、パタパタとスリッパの音が聞こえてきた。


「あ、やっぱりコーヒー飲もうとしてる」

「早苗さん、コーヒーのストック知らない?」

「隠したわ!」

「隠したって、なんで……」

「試験前日ぐらいは早く寝なきゃ駄目よ。明日の準備をして暖かくしてグッスリ寝るの」


 子供に言い聞かせるような口調で早苗さんが話す。次いでテーブルの上に置かれていた小さな小袋へと視線をやった。

 生姜湯。とろみをつけて甘めに味付けされた、冬の夜に最適な飲み物だ。

 コーヒーの代わりにあれを飲んで寝ろという事か。


「いや、でも前日だし。コーヒー飲んで少し勉強してから寝ようと思ってたんだけど」

「ところで健吾君、その桜柄のタンブラー可愛いわね。どうしたのかしら」

「やっぱり前日は無理しちゃ駄目だな!」


 慌てて生姜湯を手に取り、タンブラーにお湯と共に注ぎ入れて台所を出て行く。

 珊瑚に貰ったことは隠しているのだが、タンブラーを盾にして悪戯気な笑みで言ってくるあたり、きっと勘付いているのだろう……。

 恥ずかしい。けれど勉強中はずっとこのタンブラーのお世話になっていた。今までコップなんてどれも一緒で飲めれば良いと考えていた俺が、毎日タンブラーを洗って使っているのだから、怪しむなと言う方が無理な話だ。


 もっとも、追撃がないあたり、早苗さんも俺をさっさと寝かせるために言っただけなのだろう。

 その気遣いは有難く、だからこそ今夜は簡単に済ませようと勉強机へと向かった。


 参考書に軽く目を通して、過去問題で引っかかった部分を見直そう。あと英単語と対策を……と、そこまで考えながらタンブラーに口をつけ、ピリとした生姜の味に僅かに目を丸くさせた。

 つい数分前にいれたばかりなのに、何故かコーヒーだと思い込み、生姜湯の独特な味に驚いてしまったのだ。


 桜柄のタンブラー。

 これではまるで珊瑚にまで夜更かしするなと言われているかのようだ。


「……そうだな、もう寝た方が良いな」


 そうタンブラーに話しかけ、参考書を閉じて卓上のライトを消した。



 ◆◆◆



 試験が終われば次は合格発表だ。

 俺の受けた大学は合否の結果が郵送で送られてくるため、朝から気が気ではない。


「そういや、宗佐の結果も今日か。確か十時発表って言ってたな」


 俺が受けた大学は郵送。対して宗佐が受けた大学は、合否発表こそ同日だがインターネットでの確認。「時間になればすぐに見れるのは良いな」「紙の方が実感わくだろ」と、そんな会話を交わしていたのを思い出す。


「やっぱり時間がはっきりしてる方が良いな」


 そんなことを、玄関・・で呟く。

 ……そう、玄関。それも外。


 外出して鍵を忘れたわけでもなく、もちろん怒られてしめ出されたわけでもない。

 ただ郵便配達が来るのを待っているのだ。

 仮にここに敷島家を知らぬ者がいれば、少しは落ち着けと笑うだろう。今の俺は傍目から見れば、結果が気になって居ても立っても居られないといった有様だ。


 だが俺の場合はそんな簡単なものじゃない。なにせ「何か届く!」と双子が扉の向こうで喚いているのだ。

 どうしてこういう日に限って朝早くから起きて、しかも事態を察してしまうのか……。さっきから、玄関に走ってきては家族に回収されてを繰り返しているのが玄関の扉越しに分かる。

 おまけに「受かったら焼肉、落ちたらすき焼きな」と窓から話しかけてくるのは二人の兄貴。二人とも今日は仕事が休みらしく、片方に至ってはわざわざ実家に帰ってきた。

 そのうえ父さんも仕事が休みで家にいて……と、なぜか敷島家勢揃いである。


 こんな環境で合否の確認など出来るわけがなく、ゆえに配達員から直で受け取って外で開封を済ませようと待ち構えているのだ。

 家の中から絶えず聞こえてくる声に溜息を漏らせば、ガチャと扉が開いた。見れば、僅かに開いた隙間から二本の腕が伸びている。一本は大きなおにぎりを手に、もう一本はタンブラーを手に……。


「健吾君、おにぎり! 特製のカツ入りにしたら双子が気付いちゃったの、狙ってるから早く!」

「兄貴、お茶! 気を付けろ、兄貴達がこのタンブラーに気付いた!」


 切羽詰まった声で差し出してくるのは早苗さんと弟の健弥。

 慌てて受け取り扉を閉めれば、扉越しに双子の喚き声に加えて兄達の楽しげな声が聞こえてきた。


 あぁ、出来ることなら家の中で「緊張する」と落ち着きなく過ごしたかった……。


 そんな悲観をしつつおにぎりを食べながら待てば、バイクの音が聞こえてきた。

 思わず立ち上がってしまう。先程まで家の中の騒動にうんざりしていたのに、今はそれも遠くに聞こえ、自分の心臓の音がやたらと大きく感じられる。

 そんな俺の緊張を他所に配達員はゆっくりとバイクを走らせて各家を周り、そうしてついに玄関先に姿を現し……、俺の姿を見ると一瞬目を丸くさせた。だがすぐさま自体を察したようで、苦笑をもらして朝の挨拶と共に郵便物を手渡してくる。


 一番上に置かれた封筒。

 そこに印刷された大学名に、落ち着きの無かった心臓がより跳ねる。


 そうして配達員を見送り、他の郵便物をポストに置いてその一通だけを手にした。

 厚さは微妙なところだ。合格ならばその後の手続きのための書類が入っているはずである、それを考えれば薄いような。だが不合格なら通知が一枚、それにしては厚みがある。

 もちろんだが透けてもおらず、厚さだの重さだの探ったところで合否が分かるわけがない。

 だからこそ俺は意を決し、開封すると中から用紙を取り出し……、



『合格』



 の二文字に思わずその場にしゃがみこんだ。


「良かったぁ……」


 気の抜けた声を出しつつ『合格』の文字を再度確認する。


 うん、間違いない合格だ。

 もちろん『敷島健吾』の名前も印刷されているので誤送でもない。


 それを確認すると実感と共に安堵が沸き上がり、胸を撫で下ろす気分で扉を開ければ、玄関には敷島家全員が揃って待ち構えていた。さすが勢揃い、玄関がミチミチだ。俺が入る隙間すら無い。

 そのうえ全員が俺に視線を向けて結果を促してくる。そんな催促に対して俺は手にしていた通知を掲げて見せた。


 もちろん『合格』の二文字を突き付けるように。

 口角が上がってしまうのは仕方あるまい。


 それを見た瞬間、敷島家の玄関が今までにないほど騒がしくなり、全員が一斉に声をかけてきた。ケーキを買おうだの焼肉に行こうだの部屋探しを始めようだの、双子に至っては「にーちゃんおめでとう!」と俺に飛び掛かってくる始末。


 煩くて落ち着きなんて無いけれど、それでもみんな祝ってくれる。

 大家族だけあり、贈られる祝いの言葉は通常の家庭の倍はあるだろう。それがなんだか恥ずかしく、俺は苦笑を浮かべつつも全員に礼を告げた。




 そんな騒がしさから数時間後、携帯電話が振動して受信を知らせた。

 画面には『芝浦宗佐』の文字。合格を知らせてもいっこうに返事がなく、きっと緊張でそれどころでは無いのだろうと放っておいたのだが、時計を見ればちょうど十時である。宗佐が受けた大学の合否発表の時間だ。

 となれば結果の連絡か。

 いったいどうだったのかと携帯電話を操作すれば、二匹の猫の写真が画面に表示された。

 貫録すら感じられるデップリとした体。野性味の欠片も無い仰向けの無防備な恰好。

 そんな猫の上には『合』と『格』と書かれた紙が……。


「また手の込んだことを……。でもそうか、宗佐も受かったのか」


 安堵しながら画面に映る写真を眺めていると、携帯電話が一度ブルリと震えて新たなメッセージの受信を告げた。

 今度は『芝浦珊瑚』の名前だ。それと……、二匹の猫が桜の造花に埋もれている写真。

 どうやら芝浦家はかなり浮かれているらしい。

 その光景を想像して俺が小さく笑みを零せば、さっそく必要書類に記入を始めていた母さんが「これで安心して卒業を待てる」と父さんと顔を見合わせた。


 その言葉に、改めて蒼坂高校を卒業するのだと実感が湧く。

 卒業して、そして四月からは皆別々の大学に進むのだ。

 当然だが今のように日常的に顔を合わせることも無くなる。あれだけ迷惑だと感じていた宗佐絡みの騒動も、卒業してしまえば終わる。少なくとも俺が巻き込まれ回数は減るはずだ。

 それを思えば少し寂しいような気も……、しないでもないかもしれない。微々たる程度。九割九分清々するに違いない。


「卒業かぁ……」


 ポツリと呟いて携帯電話の画面を見れば、芝浦兄妹それぞれから一匹ずつ猫の写真が送られてきた。今度は『おめでとう』と書かれた紙が猫に乗っている。これは俺宛だろうか。

 何をやってるんだか、と、感謝を抱きながらも小さく笑ってしまう。


 だけど、卒業してもこうやって他愛もないやりとりを続けられるのだろうか。


 『その時』がきたら、俺と珊瑚の関係はどうなるのだろうか。

 そして『その時』はきっともう目前に迫っているんだ。


 そんな事を考えれば合格の余韻もどこへやら、思わず溜息を吐いてしまう。

 だがその直後、


「ところで健吾、そのタンブラーについて詳しく聞こうか」

「どう考えてもお前が買わない柄だよな」


 二人の兄が左右から肩を組んできた。

 敷島家は相変わらずで、合格に喜ぶどころか卒業を前に感傷に耽る時間も与えてくれないらしい。

 ひとまず今は兄貴達をやり過ごし、後で焼き肉の写真を二人に送ろうと考え、誤魔化すように出かける準備に取り掛かった。



 合格の余韻と、少しの期待と不安を胸に抱きながら。




 幕間3:了



◆◆◆



次章、いよいよ最終章!

『兄の友達』と『友達の妹』から始まりゆっくりと進んでいった二人と、そして友人達の物語、最後まで見届けて頂けると嬉しいです。





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