第26話 真夏のプールのハプニング

 


 それ以上は何を言って良いのか分からず、そして珊瑚も何も言わず、流れてくる音楽を聴きながらプールの出口へと向かう。

 プールから上がったら話題を変えよう。何色の浮き輪にするのかとか、いっそ宗佐を油断させて浮き輪ごとあいつを引っ繰り返そうとか。そんな在り来たりな話題しか思い浮かばないが、少しは気分が晴れるだろう。

 珊瑚の浮かない顔は見ていられない、早く笑って欲しい。


 そう考えながら水を掻き分けるように進んでいると……、


「えっ……。うそ! やだ!!」


 と、珊瑚が悲鳴じみた声をあげて足を止めた。

 驚いて振り返れば、どういうわけか自分の体を抱きしめるように身を縮こまらせている。

 既に水の深さは彼女の胸下よりも低い。だというのにあえて屈むようにして水に浸かっているのは何故か。


「どうした?」

「こ、こっち見ないでください! なんで、ちゃんと結んでたのに……」

「結んでたって何がだ? おい、ボールが流されてくぞ」


 先程まで抱えていたボールは手放され、波に揺られて少し離れた場所に漂っているのが見えた。

 取りに行かないと、と追いかけようとするも、珊瑚が「待って!」とそれを制してきた。

 見ないでと言ったり待てと言ったり、よく分からない。そもそもどうしてボールを手放してしまったのか。


 いったいなにがあったのかと改めて見れば、身を縮こまらせる彼女の首元で、空色の布が浮かんで揺れているのが見えた。

 あれは珊瑚が着ている水着の布だ。だが布の長さも浮かび方も不自然すぎる。

 あれではまるで……。


 まるで、首元で結んでいたのが解けてしまったかのようではないか……。


「ま、まさかお前……!」

「さっき、誰かとぶつかって、その時に解けちゃって……背中も……」


 水面からの明かりで赤くなっているのか青ざめているのか分からないが、困惑を露わに強張った表情と弱々しい声で珊瑚が話す。

 彼女の体の影からゆらりと揺れて出てくるのは、首元で結んでいた布とはまた別。これはきっと背中を横切って結ばれていたリボンだろう。


 つまり、背面を止める結び目が全て解かれたということだ。


「な、なんでそんな……! とりあえずこっちに来い!」


 慌てて珊瑚を背に隠し、ひとまずプールの端へと誘導する。俺の体と壁で挟めば行きかう人達に見られることはないだろう。もちろん俺も彼女には背を向けて見ないようにする。

 といっても、人の目を避けられたからといって事態が好転するわけではない。片手で紐は結べないし、かといって当然だが両手を放すわけにもいかない。


 でもここでじっとしていたって事態は解決できないし……。


 あれこれと考えが浮かぶがどれも名案とは言い難い。

 突然のことすぎて頭の中がパンクしそうだ。あぁなんて情けない。


「い、妹、とりあえず誰かに……」


 誰かに助けて貰わないと。

 そう言いかけた俺の言葉に、珊瑚の「健吾先輩」という声が被さった。


「健吾先輩、結んでもらえますか?」

「お、俺……!?」

「はい。私押さえてるんで」


 だから、と俺の背中越しに珊瑚が告げてくる。

 彼女の言い分は分かる。この状況、助けてやれるのは俺だけだ。

 月見や桐生先輩はこちらに気付いておらず、彼女達を呼ぼうと下手に声をあげれば悪目立ちしてしまう。かといって通りがかりの女性に声を掛けようにも周囲にいる男達に聞かれる可能性がある。


 誰にも気付かれずに水着の紐を結ぶ。

 それが出来るのは俺だけだ。


 ……いや、それは分かるんだけど。


「わ、分かった……。見ないから、見ないで結ぶからな」

「見ないで結べるんですか?」

「多分結べない」


 俺にそんな器用さはない。


 そう断言すれば水中で俺の足が蹴られた。

 なるほど、水着を押さえるために腕は使えないが足は自由か……。


 だが一撃喰らったおかげで幾分は冷静さを取り戻し、一声かけるとゆっくりと振り返った。

 それを見て珊瑚が「お願いします」と告げて後ろを向く。水着のデザインゆえ大きく開かれていた背中が、今は結ぶ紐も無くさらに開けて俺の目の前に晒される。

 水底で点るオレンジ色の光が彼女の背中を照らす。薄くて小さい背中、改めて彼女と俺との対格差を目の当たりにした気分だ。


「……結ぶからな」


 水面に浮かんでいる水着の端を掴み、身を屈める彼女に合わせるように俺も少しばかり屈む。

 手早く結んで……とやりたいところだが、どうにも手の動きが悪い。ただ結ぶだけなのに力加減が分からなくなる。緩くても結ぶ意味がないし、かといって強く引っ張るわけにもいかないし……と、そんな事を考えて意識が手にいかない。


 なんて情けないのだろうか。

 仮にこれが宗佐で俺が第三者として見ているだけの立場なら、きっと無様だのなんだのと散々に言ってやっただろうに。


 それでもなんとか結び終え――だいぶ不格好な結び目になってしまったが――終わったと告げれば、身を縮こまらせていた珊瑚がゆっくりと立ち上がり、胸元を押さえていた手を恐る恐る放した。

 空色の水着は開けることなく、ほっと安堵したのが後ろ向きでも分かる。

 次いで彼女はこちらを向くと改めてお礼を言ってきた。……それに対して俺が僅かに視線をそらしつつ答えたのは、目の前に立つ珊瑚の水着を直視できないからである。あぁ、本当に情けない。


「……あんまりビビらせるなよ」

「ビックリしたのはこっちですよ。……でも、なんで突然解けちゃったんだろう。それも両方とも」

「何かに引っかかったとか? いや、でもそれで両方同時に解けるのはおかしいか」

「……気のせいかもしれないんですけど、誰かとぶつかった時に紐を引っ張られた気がするんです」

「えっ、それって!」


 つまり、故意に解かれたってことか!?


 ぎょっとして俺が尋ねれば、珊瑚が念を押すように「気のせいかもしれませんよ」と告げてきた。だが表情は暗く、怯えの色さえ見せるあたり、彼女の中ではかなり高い可能性として考えているのだろう。

 まさかそんな事が……。と俺が言葉を詰まらせていると、「あの」と横から声を掛けられた。

 見れば施設のティーシャツを着た女性スタッフが妙な表情で俺達を見ている。


「その話、詳しく聞かせてもらえますか」


 真剣みを帯びた声色。次いで腰元のポシェットからレシーバーを取り出し何やら連絡を入れる。

 プールには場違いなその空気に当てられたのか、珊瑚が少し上擦った声で「はい」と返した。



 ◆◆◆



 通された事務所では若い女性スタッフが二人待っており、まずはと席に着くように促してきた。

 アイスティーが出され当り障りのない会話を交わす。


 どこの高校なのか、今日は何時頃から来ているのか、何をして遊んだのか、お昼は何を食べたのか……。


 他愛もない雑談は宗佐達が来るまでの場を繋ぐためもあるが、きっと俺達の緊張を解こうとしての事だろう。

 最初こそ不安そうにしていた珊瑚も話す内に落ち着きを見せ、スタッフの話に時には楽しそうに笑っている。


 そんなやりとりをしばらく続けていると、事務所の扉がノックされ、宗佐達が姿を現した。誰もがわけが分からないと不思議そうな顔をしており、とりわけ宗佐は事務所に入るなり珊瑚のもとへと駆け寄り何があったのかと尋ねてくる。

 本題に入る頃合いと考えたのか、スタッフの一人が「それで」と落ち着いた声色で話を改めてきた。


「何があったのか話してもらえる?」

「はい……。健吾先輩と話しながらプールを出ようとしたんです。人が少し多くて、それを抜けようとしたらぶつかっちゃって、その時に……」


 ぶつかりざまに紐を引っ張られた気がしたという。

 次の瞬間には首元と背中の結びが解け、はだける水着を慌てて押さえて身を縮こまらせた。俺の背に庇われ、近場にいたスタッフに声を掛けて結び直してもらい、そして今に至る。

 一連の事を珊瑚が話し終えるとスタッフが神妙な面持ちで顔を見合わせ、月見達は唖然としながら珊瑚に視線をやる。

 そんな中で、慌てた様子で珊瑚を呼んだのは宗佐だ。まるで当事者かのように顔色を青ざめさせている。


「珊瑚、だ、大丈夫だったのか!? ごめんな、俺が一緒に着いていけばよかった!」

「宗にぃ、落ち着いて。大丈夫だよ。ビックリしたけど健吾先輩がすぐに庇って隠してくれたし」

「そうか……。健吾、ありがとうな」


 宗佐が俺に対して感謝を告げてくる。それに対しては頷いて返し、再びスタッフへと視線を向けた。

 三人で何やら話し込んでおり、聞こえてくる「もしかして」だの「また」だのという言葉は随分と不穏な空気を漂わせている。

 その空気が伝わり俺達も話を止めて様子を窺っていると、一人が溜息を吐いてこちらに向き直った。


「実はね、同じような事が今日だけでも何件か起こってるの」




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