第18話 美術館の救護室
さすがに駆け込むとはいかないがそれでも美術館へと急いで入れば、待ち構えていた職員が案内してくれた。
そうして通された救護室は白を基調とした清潔感を漂わせ、一角にはベッドが並び仕切りで区切られていた。
学校の保健室に飛び込んだような錯覚を覚える。用途が同じだと部屋の作りも似るものなのか。
だが違うところもあり、とりわけ一角に並べられたぬいぐるみや子供用の玩具は目を引いた。美術館の救護室は老若男女問わず運ばれてくる。展示内容によっては子連れが増え、救護室に子供が来ることもあるのだろう。
「そこのベッドに寝かせてあげて」
看護師の指示に従い抱きかかえていた珊瑚をベッドに下ろす。
いまだ顔色は悪いものの、涼しい部屋で横になったからか表情は幾分和らいでいる。浅かった呼吸を正すようにゆっくりと呼吸をし、ようやく楽になったと言いたげだ。
あとは専門家に任せようと一歩下がれば、代わりに看護師が珊瑚の隣に立って容態を確認しだした。
仕切りから出て、涼しい部屋の中で安堵の息を吐いた。
漏れてくる会話を聞くに熱中症といえども重症ではなく、これ以上悪化する様子も無さそうだ。珊瑚の受け答えも先程よりもはっきりとしている。
それを聞きながら壁沿いに置かれているベンチに腰掛け、一気に出る疲労に肩を落とした。「びびった……」と思わず情けない声で呟いてしまったが、幸い仕切りの向こうには届かなかったようだ。
次いではたと我に返って慌てて周囲を窺ったのは、助けてくれた女性達にお礼を言わなくてはと思い出したからだ。
彼女達が居なかったら今頃どうなっていたか。
「あれ……?」
だが救護室には彼女達の姿は無く、外を探しても見当たらない。
残されているのは救護室の机に置かれた俺の鞄だけ。珊瑚を救護室に連れていくことに必死でベンチに置いていきかけた鞄だ。
ここまで持ってきて、そして珊瑚の無事を確認すると物言わず去っていったのだろう。
……俺の鞄に、大量の飴とお菓子を詰め込んで。
「ちゃんとお礼を言っておけばよかった」
しまった、と自分の迂闊さに頭を掻く。
珊瑚を連れてくることに必死になって、考えがそこまで回らなかった。
美術館の常連なら職員に伝言を頼めるだろうか。だが次いつ彼女達が来るのか、そもそも再びこの美術部を訪れるかも定かではない。
今から外に走っていけば間に合うか? だが商業施設に真っすぐ向かっているかも分からない。もしかしたら途中でどこかに立ち寄る可能性もある。
なにより、珊瑚を残して美術館を離れるのは不安だ。
そう考えるのとほぼ同時に、仕切りから看護師が出てきた。
「軽い熱中症ね。少し眠れば大丈夫だと思うわ」
「そうですか……。よかった」
「話を聞いたら、昨日はあまり眠れてなかったみたい。朝も昼も殆ど食べてないっていうし、それで真っ黒のワンピースで外を歩くなんて、熱中症になって当然よ」
看護師の声色には呆れの色さえ感じられ、このまま再び仕切りの奥へと戻って珊瑚に説教でもしはじめかねない。
彼女の言い分は分かる。数日寝不足が続き、そのうえ食事も疎か、そんな中で黒いワンピースに身を包んで炎天下の中で過ごすなど、自ら熱中症になろうとしているのと同じだ。
俺だって、理由を知らなければ自業自得とでも思ったかもしれない。
だけど……
「だから仕方ないってわけじゃないんですけど……。妹は、いや、彼女は、母親の墓参りに来てたんです。今日が命日で、それで無理してて……」
仕切りの奥には聞こえないよう、声を潜めて事情を説明する。
俺の話を聞き、看護師が小さく「そうなの」と呟いた。俺の簡素な説明からあらかたの事情を察したのだろう、困ったものだと言いたげだった表情を憐れみに変えて仕切りを見つめる。
そんな仕切りの奥から、「健吾先輩」と俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
返事をして仕切りの奥へと入れば、ベッドに入っていた珊瑚が開口一番「すみませんでした」と謝罪をしてきた。
「着いてきて貰って、こんな事になっちゃって……」
「別に気にするなよ。それより、そこまで酷くならなくて良かったな。救急車で病院に……なんてことになったら、今年の夏は心配性を拗らせた宗佐に家に監禁されるところだったぞ」
冗談めかして告げれば、珊瑚が力なく笑った。「そうしたら二人で宿題をします」と俺の冗談に更に乗ってくるあたり、彼女の回復の度合いが窺える。
まだ少し顔色は悪いがいつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべており、俺も思わず安堵してしまう。あぁその顔が一番だ、なんて、そんな事を一瞬考えた。
「少し寝たほうが良いって言われたんです。健吾先輩、もう遅いし先に帰ってください」
「馬鹿言うなよ。『熱中症の後輩を置いて帰ってきた』なんて言ったら家族中からブーイングくらって閉め出される」
「でも……」
「ちゃんと家まで送っていくから、今はひとまずゆっくり寝てろ」
念を押して休むように告げれば、珊瑚が僅かに眉尻を下げた。
「分かりました」と返すあたり、きっと何を言っても俺は帰らないと察したのだろう。理解が早くて助かる。
「家に連絡するついでに、宗佐にも帰りが遅くなるって伝えておいてやるよ」
「あの、宗にぃには……」
「分かってる」
不安そうに何かを言おうとする珊瑚を制して、「ちゃんと寝ろよ」と告げて仕切りから外へと出る。
これは交換条件だ。もちろん『宗佐には誤魔化して伝えてやるから、その代わりにしっかり休め』という事である。
そうして看護師に一声掛け、そのまま救護室を後にした。
◆◆◆
館内では海外の有名デザイナーの展示をしているらしく、離れるわけにもいかないと中を見て回る。
といってもそんな高尚なものを俺が理解できるわけがなく、ひとまず一周し、今度は展示内容の説明を読みながら一周し、音声アナウンスを借りて三周目に挑む。
だがそれも早々に終わり、暇を持て余して美術館の中庭へと出た。
時刻は既に六時を回っている。だというのに外はいまだ明るく、日中の焼けつくような日射しこそ和らいだが変わらず暑い。
美術館は七時まで開いているらしく、看護師から時間いっぱい休んだ方が良いと言われていた。そのころには日も落ちて過ごしやすくなるだろう。
となれば、あと一時間。
「よし、四周目いくか。なんだかこのデザイナーが好きになってきた」
音声ガイダンスの他にガイドブックも貸出されていたから、それを片手に四周目を堪能しよう。そんな事を考えつつ立ち上がり、再び館内へと戻っていった。
それから数十分後、
「思ったより美術館って良いもんだな」
と、すっかり感化されながら四周目を終え、事情を知る職員から缶コーヒーを貰い、再び美術館の中庭で時間を潰す。
携帯電話でデザイナーについて調べたり宗佐に電話を掛けて他愛もないやりとりをしていると、時刻は気付けば七時十分前になっていた。日も落ちはじめ、涼しいとまでは言わないが過ごしやすい気温までは落ち着いている。
そろそろ良いかと救護室へと戻れば、珊瑚は既にベッドからソファへと移動していた。
俺を見るとすぐさま立ち上がろうとするが、これで立ち眩みなんて起こされたら堪ったものじゃないと慌てて制止する。
「もう大丈夫なのか?」
「はい。だいぶ楽になりました」
もう平気だと珊瑚が笑う。
その表情には無理を押し隠して取り繕おうという色は無い。口調も普段通りはっきりとしており、熱中症でぐったりとしていたのが嘘のようだ。
これなら家まで帰れるだろう。宗佐やおばさんも気付くまい。
看護師が無理をしないように念押しし、帰宅途中に再び具合が悪くなった時の対応策を話す。事情を知ったからか、その口調は随分と優しい。
それに礼を告げ、美術館を後にした。
幸い帰路では珊瑚も体調を崩すことなく、無事に芝浦家まで送ることができた。
新芝浦邸まで行けば玄関口に宗佐とおばさんはおろか、普段は旧芝浦邸で暮らす祖母まで出迎えてくれたのだから、よほど珊瑚を心配していたのだろう。
大丈夫だったかと尋ねてくる母に、珊瑚が大事は無かったと誤魔化す。ちらと俺に視線を向けてくるので、ここは彼女の意向を組んで俺も同意を示しておいた。
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