第14話 暑く静かな一日の始まり

 


 夏休みに入ると日中の気温は更に上がり、まさに『猛暑』である。

 だというのに小学生男児は朝っぱらから喧しく、座って勉強するだけなのに忙しなく動いて暑っ苦しい。鉛筆を削る動作も消しゴムをかける動作も全力で力強いのは何故だ。

 小学生男児のこの無限とも思える熱量を有効活用できないものだろうか。たとえば一か所に集めて熱源として……やめよう、考えただけで暑くなる。


「兄ちゃん、手が止まってる!」

「はいはい、すみませんでした」


 甥の一人に叱咤され、机に開いた数学のプリントへと視線を落とす。

 高校二年の宿題となると流石に難しい。ちらと横目で見れば小学生の算数ドリルの内容が目に入り、その分かりやすさのなんと羨ましい事か。交換して欲しいが、交換したら俺のプリントが悲惨な目にあうのは火を見るよりも明らか。


 ちなみに今なにをしているのかと言えば、敷島家恒例の宿題会である。

 面子は俺と中学生の弟である健弥、そして小学生の甥っ子二人。

 リビングのテーブルにそれぞれ宿題を広げ、上が下の勉強を見てやりながら進める。あいにくと俺の宿題を見てくれる者は居ないのだが、俺も兄貴達が家に居たときは散々世話になったので今更それに文句を言う気はない。


 そんな中、「あー!」と大きな声が聞こえてきた。

 次いでバタバタと足音が聞こえ、開けた扉から母さんが顔を覗かせる。


「健吾、健弥! どっちか買物に行ってきて!」

「買物って今?」


 思わず時計を見上げる。

 時刻は午後の一時半。窓の外を見ればまさに青天といった空が覗く。今日は雲一つなくそのうえ風も無い、まさに真夏日というやつだ。もう少し曇ってくれても良いんだけど。

 この中を買物。もちろん俺も健弥も移動手段は徒歩か自転車しかなく、どちらも快適とは言い難い。


 思わず健弥と顔を見合わせた。

 健弥の顔が「行きたくない」と訴えているが、きっと今の俺の顔も同じようなものだろう。

 灼熱の中での買物に比べたら、小学生の宿題を見張るほうが比べるまでもなくマシだ。それにあと三十分もすれば小学生の集中力も切れ、ゲームなりテレビを見るなりしだすだろう。となればこちらも自由時間である。


「兄貴行ってくれよ」

「嫌だよ、お前が行けよ」

「この暑い中を可愛い弟に買物に行かせるのか? ひっでぇ兄貴、弟への愛はどこにいった!」

「可愛い弟なら兄を敬って率先して買物に行くだろ」


 そんな事を言い合い、お互い押し付け合うことしばらく。

 痺れを切らした母さんの「どっちでも良いからじゃんけんで決めてさっさと行ってきて!」という声に促され、敷島家のリビングに勝負の声が響いた。



 ◆◆◆



 で、どうなかったかと言えば。


「くそ、なんで俺が……」


 ぼやきながら俺は炎天下の道を歩いていた。

 言わずもがな健弥とのじゃんけんで負けたからだ。そのうえ俺の自転車はパンクしていて、弟のを借りようにも鍵を無くしたという。

「俺の乗って行っていいよ!」「俺のも!」という甥っ子達の申し出は有難いが遠慮しておいた。小学生の自転車は俺の腰が死ぬ。

 勝負に負けた己が恨めしく、自転車のパンクを放置していた事もまた恨めしい。

 真上から降り注ぐ日の光は痛いほどに眩しく、セミの声があちこちで聞こえ、それがまた体感温度を上げる。


「せめて風でもあればマシなんだけど。……ん?」


 駅までの道を歩き、ふと見覚えのある姿を見つけた。

 バスロータリーから駅へと続く階段を上がってくるのは……珊瑚だ。

 黒いワンピースを纏い同色の日傘をさし、行きかう人達より些か遅めの足取りで駅へと向かう。買物か、それとも友達と遊びに行くのか。


 だがその表情は遠目でも分かるほどに暗く、背後から歩いてきた親子連れに抜かされると足を止めてしまった。

 楽しそうに歩く母娘をじっと見つめる。彼女らしくないその表情に、居ても立っても居られなくなり駆け寄ると声を掛けた。


「……健吾先輩」


 振り返った珊瑚が目を丸くさせて俺を見る。

 その声にいつものような快活さや覇気はなく、まるで夢半ばに声を掛けられたかのようだ。


「よぉ、久しぶり。……ってわけじゃないけど、就業日以来だな」

「そ、そうですね……。久しぶりじゃないですけど、お久しぶりです……」


 歯切れの悪い返事をしつつ珊瑚が視線を他所へと向ける。

 心無しか顔色も悪い。


「……何かあったのか?」


 どうしたのかと尋ねれば、珊瑚が小さく肩を震わせた。


「わ、私は……。それより健吾先輩は、今日は買物ですか?」

「あぁ、親に頼まれて」

「そうなんですね。暑いので気を付けてください……」


 俺に問われたことを誤魔化すように珊瑚が一方的に告げてくる。

 上擦った声で、少し早口気味に。視線を泳がせながら。彼女の態度は言及される前に話題を変えてしまいたいと言いたげだ。

 そのうえ「急ぐので失礼します」と消え入りそうな声で呟くと、こちらの返事も碌に聞かずに軽く頭を下げて駅へと歩きだしてしまった。


 まさか、俺、避けられてる……!?


 そんな不安が胸に沸く。だが去っていく珊瑚の後ろ姿を見るに、俺を避けているというより彼女の様子がおかしい。

 急いでいるという割には足取りは見て分かるほどに遅く、後から来る人達に追い抜かされていく。ふと立ち止まり携帯電話を見たかと思えば溜息を吐き、再び歩き出す動きもいつものような活発さは無い。


「どうしたんだ、あいつ……」


 今の珊瑚の状態は誰が見たっておかしいと分かる。意識をどこかに置いてきてしまったような、そんな虚ろな印象だ。

 だが追いかけて再び声を掛けても、彼女はきっと「急ぐので」と話を終えてしまうだろう。そもそも無理に聞き出して良いものかもわからない。

 かといって放っておけるわけもなく、ならばと俺は携帯電話を取り出し、宗佐へと連絡を入れた。


『お前の妹、何かあったのか?』


 と、急いでいるあまり些か簡潔気味なメッセージを入れる。

 さて返事を待つ間どうするか。いっそ珊瑚の後を追うか……と考えた矢先、携帯電話が震え出した。

 画面には宗佐の名前が映っている。返事どころではない、直接電話をかけてきた。


「宗佐、どうした」


 通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。

 俺から連絡を入れておいて『どうした』も変な話ではあるが、どうやら電話の向こうの相手はそんな事を言っている余裕も無いようで、俺の言葉も途中に『健吾、今どこにいるんだ!』と尋ねてきた。

 宗佐らしからぬ切羽詰まった声だ。ただ事ではないと分かる。


「どこって、駅前だよ」

『珊瑚もいるんだな。今一緒なのか?』

「いや、あいつは駅に向かってるけど。なんか様子が変で……。何かあったのか?」

『そうか、一緒じゃないのか……。なぁ健吾、悪いんだけど、珊瑚に着いて行ってくれないか?』

「はぁ?」


 説明もなくわけの分からない頼みごとをされ、思わず間の抜けた声をあげてしまう。

 どうして俺が。そもそもどこに。

 そう尋ねるも返ってきたのは説明ではなく、辛そうな『俺だって……』という声だった。宗佐らしくない掠れた声だ。


『俺だって一緒に行けたら行きたいさ。でも珊瑚が嫌がるんだ。……今日は、珊瑚のお母さんの命日だから』


 言葉尻を弱めて話す宗佐に、俺は「命日」と小さく呟いた。


 宗佐が言う『珊瑚のお母さん』とは、きっと俺が知る芝浦家のおばさんの事ではなく、珊瑚の産みの母親の事だろう。

 珊瑚も宗佐も両親が再婚している事は平然と話題に出すが、それ以前の事はどちらも詳しく語ろうとしない。

 どういう経緯で互いの両親が別れたのか、今どうしているのか、交流はあるのか……。そういう事には一切触れず、今の家族仲の良さを語るのだ。


 無理に聞き出して良い話題ではない。

 そう考え、俺も今日まで触れずにいた。


 だけど『命日』って事は、少なくとも珊瑚の母親は……。


「そ、そうか……」


 突然の話にどう答えて良いのか分からず、上手く言葉が出てこない。


『何年か前まではおばぁちゃんと一緒に墓参りに行ってたんだ。でもここ数年はおばぁちゃんが炎天下の中で外に出るのがきつくなって……。俺と母さんも一緒に行くとは言ってるんだけど、一度断られるとさすがに食い下がれないだろ』


 他の用事ならばまだしも、産みの母の墓参り。宗佐もおばさんも無理強い出来ず、一人で家を出る珊瑚をただ黙って見送るしかないという。

 そのうえ、珊瑚はこの日が近付くと次第に元気がなくなり、夜もあまり眠れていないらしい。

 元より過保護な宗佐のことだ、珊瑚を見送ってから気が気ではなかったのだろう。聞けば案の定、家の中で携帯電話を握りしめて待っていたという。

 そんな中で俺からの先程の連絡。なるほど間髪を入れず電話をしてきたのも頷ける。


「事情は分かったけど、それって俺が一緒に行って良いものなのか?」


 言ってしまえば、俺は全くの無関係。珊瑚の産みの母親についても今知ったばかり。

 そんな状態の俺が墓参りに同行……。普通であれば考えられない事である。

 それは宗佐も分かっているのだろう。

 電話の向こうで僅かに躊躇いの声を漏らし、『そうだけど……』と呟くように話し出した。


『見てられないんだよ。顔色悪いのに無理に取り繕って、今日だって俺のこと見て『宗にぃってば酷い顔』って笑うんだ。自分は全然眠れなかったって顔してるくせに』


 携帯電話から聞こえてくる宗佐の声は覇気がなく、酷く掠れている。顔色を悪くさせそれでも笑う珊瑚の事を思い出しているのか。きっと今の宗佐だって見れば誰もが心配するほどに酷い顔をしているのだろう。

 胸中はさぞや複雑に違いない。歯痒いなんてものじゃなく、その果てに、藁にも縋る思いで俺に珊瑚を託そうとしているのだ。


 この状況で俺がすべきことは何か……。


 そんな事、考えるまでもない。


「分かった」と一言告げて、俺は珊瑚を追うべく足早に歩き出した。




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