第19話 池に浮かぶ鍵と……

 

「月見、棒高跳びの練習か?」

「し、敷島君!? これは、その……!」

「さすがに池を飛び越えるのは止めた方が良いぞ。月見の場合は失敗する可能性が高いし、失敗したら目も当てられない」

「棒高跳びの練習なんてしないよ! こ、これは……。待って、私だと失敗する可能性が高いってどういうこと!?」


 棒を片手に月見が怒る。

 次いで深く息を吐き……チラと横目で池へと視線を向けた。

 駐輪場の奥にある池。相変わらず藻やら落ち葉が浮かんで鬱蒼としており見れたものではない。藻が覆い尽くしており、これを水面と呼んでいいのか怪しいところだ。水面もとい……藻面?

 その中央あたりに何かが浮かんでいる。喪とも、葉とも違う。ピンク色の小さな何か。


「あれって、キーカバー? ……まさか、月見の鍵か!?」


 ぎょっとし池に浮かぶキーカバーらしきものへと凝視すれば、月見が弱々しい声で「……多分」と答えた。

 半分ほど浸かってしまっているため見えにくくはあるが、池の喪の中でピンクのチェック柄はやたらと目を引く。よくよく見れば小さなキーホルダーらしきものも見えた。

 きっと月見は池に浮かぶ自分の鍵を見つけ、棒で手繰り寄せようと考えたのだろう。

 だが些か長さが足りないようにも見える。棒高跳びと冗談めかしたが、実際には棒の長さは1メートルあるかないかだ。


「その棒で届くか?」

「頑張ればいけるかなぁ」

「俺がやるよ」


 ほら、と棒をこちらに寄越すように月見へと手を伸ばす。

 だが月見は困ったように眉尻を下げ、「でも……」と困惑の色を浮かべた。


「俺の方がリーチが長いし、縁ギリギリに立てば届くかもしれないだろ。……それに月見だと、ギリギリに立ったらズリっと行きそうだし」

「い、いかないよ! ……多分。さっきちょっと池の縁に立って泥濘で転びそうになったけど」

「よし、大人しく俺に棒を渡して、地面が固いところまでさがれ」

「うぅ……お願いします……」


 月見が大人しく棒を俺に手渡してきた。

 物干し竿のような棒だ。聞けば、鍵を取る手立ては無いかとあちこち探している最中に技術部の小坂先生に会い、池に鍵を落としてしまったと話してこの棒を借りたのだという。

 きっと小坂先生もまさか池の中央に浮かんでいるとは思わなかっただろう。棒の長さは微妙なところで、俺でもギリギリだ。

 試しにと池の縁に立って棒を伸ばしてみるも、微妙に届かない。


「きついな……。もう少し、前にいければ……」

「気を付けてね敷島君、無理しないで。届かないなら私が池に入って取るから」

「やめておけ、月見が入ったら滑って全身喪まみれの未来しか見えない」

「私そこまでどんくさくないよぉ……!」


 月見が切なげに訴え、俺の手から棒を取り返そうとする。

 それを制止し、双方共に自分が行くと主張する。そんな中、


「健吾、なにやってるんだ?」


 と、声が割って入ってきた。

 驚いて俺と月見が同時に振り返れば、そこに居たのは宗佐。

 どうやら帰宅する途中だったようで、肩から鞄を下げ、不思議そうにこちらを見ている。

 月見が小さく息を呑み、「芝浦君……」と呟くように宗佐を呼んだ。


「宗佐、どうしてここに」

「帰ろうとしたら小坂先生に会って、月見さんが池に鍵を落としたって教えてくれたんだ。それで、取れたのかなって見に来た。月見さん、大丈夫? 俺でよければ手伝うよ」


 宗佐がこちらに歩み寄り、そして池に浮かぶ鍵を見つけた。

 一瞬なにかを言いかけたのは、宗佐もまた鍵が『に浮かんでいる』ことに気付いたからだろう。

 縁に立ち棒を伸ばしても届かない距離。これは歩いていて落とした距離とは言えない。いくら軽い鍵とはいえ、意志を持って投げ入れでもしない限り、あれほど遠くにはいかないはずだ。


 つまり、この鍵は……。


 だが次の瞬間には宗佐の表情は普段通りのものに戻り、俺に向き直ると届いたのかと尋ねてきた。

 首を横に振って返す。あと少し距離が足りなかった。といっても、宗佐は俺よりも身長が低く、そして腕の長さも同様。代わったところで届きそうにない。


「無理そうだな。何か見つけて継ぎ足すか、それともいっそ……」

「なら入っちゃえば良いじゃん。俺いってくるよ」


 あっさりと言い切り、宗佐が手早く靴と靴下を脱ぐとズボンの裾を捲り、迷うことなく池に足を突っ込んだ。

 意気込むでもなく、躊躇う様子もない。水溜まりを通る時だってもう少し躊躇するというもの。

 あまりの潔さに思わず俺も月見も唖然としてしまう。


「健吾、その棒貸してくれ。ここからなら届くだろ」


 数歩進んだところで宗佐がこちらに手を伸ばしてきた。

 池の深さは脹ら脛半ばぐらいだろうか。たった数歩だというのに藻が絡みついているのが分かる。底が滑っているのかバランスが取りにくそうだ。


「し、芝浦君!」


 声をあげたのは、ようやく我に返った月見。

 池から出てくるように宗佐に声を掛ける。追いかけて池に入りかねない必死さだ。

 だが宗佐は相変わらずあっけらかんとした様子で、「大丈夫だよ」と穏やかに笑うと池の中央に浮かぶ鍵へと棒を伸ばした。ひっかけて取るのは難しいと判断したのか、藻を掻き分けるようにして鍵をこちらへと移動させる。


 そうして自分の足元近くまで引き寄せると、これもまた迷うことなく手で鍵を掴んだ。絡みついた藻や草を手で丁寧に取りのぞき、こちらに振り返ると嬉しそうに笑って鍵を揺らして見せてきた。

 まるで己の功績を誇るような表情だ。藻だらけの池に立っているとは思えない。

 今にも泣きだしそうな表情で見守っていた月見が、宗佐が池から出てくると慌てて駆け寄った。


「芝浦君、ごめんね。足汚れちゃって……」

「月見さんが謝ることじゃないよ。汚れたって水道で洗えば済むし。それより鍵、汚れてはいるけど無事でよかったね」

「ありがとう……! 私、保健室からタオル借りてくるね!」


 水道で待ってて、と一言残し、月見がパタパタと駆けていく。

 それを見届け、俺は宗佐へと向き直ると「おつかれさん」と労ってやった。

 見れば宗佐の足元は見るに堪えないほどに汚れている。藻が絡み、いままさに藻の固まりがゆっくりと足を伝って地に落ちた。

 宗佐曰く『尋常じゃないぬめり』かつ『ちょっと温かくてそれが余計に嫌』とのこと。聞いているだけで不快感がしてくる。

 それほどまでに……と改めて池へと視線を向ける。藻が水面を覆いつくし、棒で手繰り寄せたあとがまだ残っている。それもまた汚い話だ。


 ……そんな池の縁に、何かが引っ掛かっている。


「……あれ?」

「どうした?」

「い、いやなんでもない。靴と鞄は持っていってやるから、さっさと洗いに行け。棒も小坂先生に返しといてやる」

「あぁ、悪いな」


 俺に棒を渡し、ズボンの裾を押さえたまま宗佐が水道へと向かう。


 それを見届け、俺は改めて池へと近付いた。

 藻が水面を覆いつくしている。よくここに迷いなく入ったものだと思えるほどだ。

 そんな池の縁にほんの少し端をひっかけるのは……。


「いや、でもまさか……」


 そんなはずがない、と誰にともなく呟き、棒の先で手繰り寄せる。

 ひっかけて持ち上げれば、ずしりとした重みが手に伝った。

 ゆっくりと池の水面から姿を現したのは見覚えのあるネクタイ。随分と汚れているが、これは蒼坂高校のネクタイだ。

 裾は藻が絡まっていて見えない。だが軽く手で拭えば、そこに刺繍されているイニシャルが……、


『S・S』


 のイニシャルが、はっきりと見えた。



「……嘘だろ」


 と呟いた俺の言葉には、当然だが返事はない。


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