Contrail 07
洗い場へ足を踏み入れると、そこは屋外だった。敷き詰められた砂利は足の裏を程よく刺激し、広い岩風呂には湯が端で滝のように注ぎ込んでいる。
柵で囲われているものの、立ち上がれば目線の下に湖が広がっていて、昼間ならきっと眺めも良い。夜であっても屋根のない所からは満天の星空を見上げることが出来る。
「うわ、外だあ」
「なんだか温泉って、普通の風呂と全く違いますね」
「うん、不思議な寛ぎの空間なんだよ。オレはここが好きでね。よくぼーっと昔を思い出している」
掛け湯の後、体を洗う3人の間を夜風が通り抜ける。バロンが身震いし、早く湯につかりたいからと頭を洗いながら体まで全て泡で包み込む。
「んー、髪が伸びたな、明日出発前に散髪しようか」
ヴィセは自分の髪を適当に自分で切っている。だがバロンの髪は伸びたままだ。流しきれていない泡を流してやりながら、ヴィセは重たそうな髪を絞ってやった。ヴィセは次にラヴァニを掴む。
「ラヴァニ、嫌がるなよ」
≪我はよい、泡は苦手なのだ……おい!≫
ヴィセは笑いながらタオルでラヴァニを拭き上げ、最後にお湯を掛ける。ラヴァニは早々にヴィセから距離を取り、バロンと共に湯の中へと逃げた。
「あはは、ラヴァニが逃げてきた!」
「汚い体のままベッドに忍び込まれたくないからな」
≪我は汚れてなどおらぬ≫
ヴィセ達のやり取りを、エゴールは微笑ましく見守っていた。ドラゴン化した自分にも、かつてはこのように親しく話せる友人たちがいたからだ。
エゴールも体を洗い終わり、最後にヴィセが湯の中に浸かる。心も体も開放的な3人と1匹は、星空と山の端に顔を出した月を眺めつつ、しばらく言葉を交わすのでもなく寛いでいた。
「見て! ほら、足が浮く!」
「水の中だと体が浮くんだ。もう少し深けりゃ泳げたかもな」
バロンはしゃがんだまま歩き回り、大きな耳を庇いながら浮かぶ。瓦礫の道を駆けまわる事はあったものの、こんなにも楽しそうな姿を見た事はない。ヴィセはテレッサの言う通り、いつか遊園地に連れて行ってやろうと約束する。
「あ! ヴィセ、そこ座って!」
「ん? 縁に座ればいいのか」
「うん、それでね、足を揃えて斜めに伸ばして」
「何をする気だ?」
ヴィセが腰に巻いたタオルを整えながら、縁に腰かける。ヴィセの体からは湯気が立ち昇っている。バロンはザブザブと湯の中を歩いてヴィセの横までやってきた。
「ヴィセ、俺持ってて! いいよって言ったら手放して!」
「……?」
バロンはヴィセの膝の上で跨ぐように座り、ヴィセが脇の下を支えてやる。
「いいよ!」
「放すぞ」
ヴィセが手を離すと、バロンが体勢を崩し、頭から湯の中に倒れ込んだ。水しぶきがヴィセ達を襲い、一瞬バロンが視界から消える。バロンはすぐに顔を上げて顔を手で拭ったかと思うと、大笑いしだした。
「あはは! 駄目だった!」
「何がしたかったんだよ」
「ヴィセの足をつるんって滑ってお湯に沈むか実験した!」
「……広い風呂1つでほんと楽しそうだな」
「楽しいよ! ラヴァニは泳げる? 俺ね、泳げない!」
≪我は泳いだことがない。止めておく≫
はしゃぐバロンと苦笑いしつつ楽しそうなヴィセ、巻き込まれまいと逃げるラヴァニ。そんな若者の姿を見守るエゴールの表情は優しかった。
「エゴールさん、そろそろ……」
「君達は、生きていて良かったと思うかい。それとも……」
エゴールは笑顔のまま、はしゃぐバロンを見つめて呟く。
「俺は……命があってよかったです。ドラゴン化が止まらないとしても、あなたに感謝しています」
「そう、か。……うん、良かった。君達がこうして楽しそうにしていると、きっとこれで良かったんだと思えてくる。悲観するばかりじゃないんだと」
「生き方は自由です。この旅は俺が選んだもので、エゴールさんのせいじゃない」
エゴールはヴィセの言葉に満足げに頷き、今の自分の暮らしを振り返る。ドラゴン化が進んだ肌を撫でながら、小さく「そうだよな」と呟いた。
「オレはね、霧に苦しむ人達を治療して、少しばかり報酬を貰って、それで生活している。ドラゴン化したこの体が、今は誰かの役に立っているんだ」
「そうか、エゴールさんにも浄化の力が」
「うん。オレには子供もいないしこれからもきっといない。孤独に圧し潰されそうになっても、誰かのために生きていく事を覚えた。不謹慎だけど、オレと同じ境遇の君達は新しい心の支えなんだ」
エゴールが「父親代わりと言うには年が離れ過ぎかな」と笑う。ヴィセは無邪気なバロンの様子を眺めつつ、エゴールに旅の成功を誓った。
「来客用の寝具はあるから、今日はご飯を食べた後でうちに泊まるといい。明日は今まで試した方法、得た知識、色んな事を教えてあげよう」
「はい」
そろそろ21時になる。ヴィセはバロンを呼んで立ち上がり、帰り支度を始めた。
* * * * * * * * *
翌日、簡単に片づけた室内を水拭きした後、ヴィセ達は数々の資料を眺めていた。
ドラゴンを退治するとして開発された爆裂弾、投網、劇薬、そして毒霧。更に昔に人々が目撃していたドラゴニアの絵などもあった。
「世界中を旅し、ドラゴンの血に関しての記述や、ドラゴンの棲み処の情報を集めた。ドラゴニアに関する最後の目撃情報は140年前だ」
≪我が封印されていた間も、しばらくは存在していたのだな≫
「ああ。ドラゴンが周囲を飛び回っていたと書かれている。だからこそドラゴニアを奪うための人竜戦争が勃発したんだけどね」
「霧が発生してからもドラゴニアはあったという事ですね」
「ああ。皮肉にも霧の海の方角へゆっくりと」
時折大陸にない文字の記述も見かける。レーベル語、イア語など、今では殆ど使われていない言語だ。それらを読み上げてもらいつつ、ヴィセは希望を見出していた。
霧の発生以降、人類の文明は一気に退化した。あらゆる兵器の製造開発設備は殆どが霧の下だ。浮遊鉱石を使う技術も一気に廃れ、人々は生きていくだけで精いっぱいとなった。
そんな状況下でドラゴニアを手に入れる動きなど取れるはずがない。ここ数十年の文献では、ドラゴニアがもはや伝説上の存在になりつつある。実際に目撃した者は世界中でエゴールだけだろう。
「ドラゴニアは……まだ人の手に渡っていない。つまりそういう事でしょうか」
「断定は出来ないけどね。ドラゴニアが霧の海の真上にあったなら、人が到達するのは無理だ。もっとも霧の海が本当にあるなら、だけど」
「本当にあるなら?」
エゴールは古い1冊の本を開き、1行を指し示す。そこには「毒霧を開発した町」と書かれてあった。
「霧の海のどこかに、最初に毒霧を作った町があるんですか」
「ああ。そこで培った製造方法が全世界に広まった。あまりにも多くの場所で製造されてしまったから、一気にこの有り様だ。とりわけ最初に製造した町キールは膨大な材料を保管していた」
「ドラゴンを攻撃するため、でしたよね」
「うん。でも、開発者は材料と水が反応する事を失念していたらしい。周囲を数百キルテをたった数時間で霧に変えてしまった」
「最初に霧に覆われ、製造者も死んで、どうなっているのかろくに調査もできていない……ドラゴンに効くという噂だけが独り歩き」
当時生きていたエゴールは、毒霧の広がり方を川の濁流のようだと表現した。
≪危険性の認識が広まるよりも、毒霧の使用が先だったのだな≫
「しかもドラゴンに効かないと分かったのは、更にその後だった」
人の手によって苦しんだのは、結局人だった。そんな人類をドラゴンはどう見ていたのか。ヴィセはドラゴンに失望されていない事を願いつつ、エゴールの話を聞いていた。
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