皇国の少女達 …闇夜の一番星…
…私は、帰って来た。帰ってきてしまった。
二度と戻りたく無かった闇の中へ、
「いいか? セリーナ。
用意が済むまでここでそいつを見張ってろ!
縄を解いたりするんじゃねえぞ!」
蛮声とも言える、野太い声と共に扉が閉められた。
ここは良く知っている。
『館』の子ども部屋。
自分と『妹』が二人だけ。
ずっと、ずっと暮らしていた場所だ。
石造りの地下室は、暗くて固くて冷たくて。
湿って据えた匂いがする。
石の床に寝そべっていると、体温だけでなく、あらゆるものが奪われて行く気がする。
けれど、けれど…ずっと解っていた筈なのに。
質素だと言われるけれども家具の揃った明るく、整った部屋。
自分の為に誂えられた清潔で美しい服。
そして、噂にさえ聞いたことが無かった、美味しい食事。
自分に酷い事をしない、いや違う。
優しく笑いかけてくれる人々の中で、幸せに暮らすうち、忘れかけていた。
ここにしか、自分の居場所は無いのだということを。
痛い、痛い…。
激痛に軋む折られた左腕では無く、心が痛い。
「セリーナおねえちゃん!」
私の名前が呼ばれたことで、気付いたのだろう。
闇の中に蹲っていた影が、私に飛びついてきた。
「ファミー? 良かった。無事だったのね」
確かめるように抱き付く妹の腕は、信じられない程細いのに込められた力は信じられない程、強い。
私は動かない左腕ではなく、右腕でその頭をそっと撫でた。
「よかった。おねえちゃん、かえってきてくれたんだ。
わたしをすてたんじゃ、なかったんだ!」
…ずっと季節一つ分、戻ってはいなかった。
それまでは安息日は帰っていたけれど、店の人達に怪しまれる、と口実を付けて戻らなかったのだ。
でも…その間、ずっと妹はこの闇の中で耐え続けていたのだと思うと、申し訳なさでいっぱいになる。
捨てた、訳では無かったけれど…ここに戻ることを恐れる余り、胸の奥に封じてしまって。
(最低だ…私は)
自分の事しか考えず、大恩ある店を裏切り、妹を見捨てた私は、光の中にいる資格なんか、当然ない。
どうせ、店を裏切った私には、帰る場所などないのだから。
「ごめんね。ずっと一人にして、ごめんね。
これからは、もうどこにも行かないから…、ずっとここにいるから」
ぎゅっと、妹を抱きしめて私は自分に言いきかせる。
もうあの光の中には帰らない、と。
なのに。
「セリーナさん。
その子、本当に妹さん? 本物? 間違いないですか?」
眩しさに眼がくらむ。
私の横には…光があった。
返事は出来なかったけれど、私と妹の姿で理解してくれたのだろう。
「よっし、勝った。
相手がバカで本当に助かった。
このまま、妹さんと引き離されて、脅され続けるのが一番怖かったんだ。
これで、後は待つだけ。
ここが地下室で無ければもう逃げてもいいんだけれど。外に見張り、やっぱりいるかな?」
彼女は小さく握りしめた両手に力を籠める。
? 両手?
彼女は縄で固く縛られていた筈なのに。
「痛い思いさせてしまってごめんなさい。でも、もう大丈夫ですから」
立ち上がり、外を伺っていた彼女は、私と妹の前に膝を折って微笑む。
「帰りましょう。光の中へ」
真っ暗な闇の中なのに、私には彼女の笑顔が夜空に輝く星のように、輝いて見えたのだ。
私はレシピの木板を厨房から持ち出したところを彼女 マリカに見つかった。
手を引かれて厨房から連れ出された後
「はい、持って行って下さい」
「え?」
木板を手渡されたのだ。
店主の前につき出されると、泥棒と蔑まされると覚悟していたのに。
「ど、どうして…」
金貨三枚以上の価値がある木板をあっさりと渡されて、驚く私にマリカは
「妹さんが、悪い奴らに捕まっているんですよね。
そして、レシピを奪ってこい、って脅されている。違いますか?」
語りかける。
その瞳は優しく、木板を持ち出した責めや、怒りはまったく見えない。
「! なんでそれを?」
マリカは私の質問には答えず、透き通るような声で続ける。
「直ぐに、この木板を渡してはダメです。妹を先に連れて来て、と交渉して下さい。
相手が本当に木板と交換に妹さんを返してくれたら、妹さんを連れて店に帰って来て下さい。
寮ではなく、お店に。
ガルフ…様が助けてくれる筈ですから」
マリカの言葉は耳に入っている筈なのに、理解できない。
何故、木板を妹と引き換えて良い、などと言うのか?
何故、裏切った店主の元に逃げ込めと言うのか?
「でも…力づくで奪われて…、連れ戻されそうになったり、妹さんを助けたいのならもっと持って来いとか言われたら…。
私に、合わせて下さいますか?」
「あ、合わせる…って、何を?」
「難しい事は、考えなくって大丈夫。
もし、誰かに聞かれたら私がガルフの店の料理人だとか、料理を教えている本店の支配人だってことを、否定しないでくれればそれでいいですから。
まあ、そんな余計な事をしないですめば、それに越したことはないんですけれど…」
何を言われたのか、どういう意味なのか、全く理解できないまま、私は木板と共に店を出された。
約束の時間には、まだ早いが、多分、寮は見張られている。
戻れば、彼らは出て来るだろう。
「上手くいったのか?」
思った通り寮に戻り、入ろうとしたところを私は呼び止められ、裏路地に引き込まれた。
「おら! 寄越せ!!」
捕まれ、捻りあげられかけた腕から必死に逃れて、私は彼から、間を取った。
目の前の男は、私と妹をずっと支配してきた人物。
『館』ではトップでこそないものの、多分中間で配下を指揮する立場にある者だ。
彼にはいつも命令されてきた。
今まで、ずっと逆らう事などできなかった。でも…
「ま、待って下さい。ファミーと交換の約束です。そして、この木板を持って来たら自由にしてくれるっておっしゃった筈!」
木板を渡してくれた彼女の声が聞こえたようで、私は生まれて初めて、彼を見据えた。
腕の中にある板を強く胸に抱いて。
「俺に、逆らうつもりか? 妹が、どうなってもいいのか?」
「だから、ファミーを連れて来て、先に返して下さい! そしたら木板はお渡しします。
私達は『館』を出て行きますから…」
「『館』を出てどこにいくつもりだ? 裏切った店に戻れると思うのか? 盗人として捕まって牢屋に入れられるのが関の山だぞ?」
「そ、それでも構いません。牢屋に入れられたとしても『館』にいるより、ずっと、マシです」
「偉そうな口を効く。『館』の外を知って、外の暮らしを知って、子ども風情が夢でも見たか?
自分も人並みに生きられるとでも?」
「そ、それは…! あっ!!」
私が彼との会話に気を取られていた間に、いつの間にか後ろにまわりこんでいた男が、私の背中から両腕を掴む。
そのまま後ろに捻られ…
「ぎゃあああっ!」
激痛と共に左腕が鈍い音を立てた。
地面に落ちる木板。
「ふん、子どもの癖に生意気なことを。余計な手間をかけさせやがって」
彼は私の足元から木板を取り上げて、眇める。
にやり、と背筋が寒くなるようないつもの笑顔を見せ…いきなり私の襟首を掴んだ。
「うっ!」
「いいか? よく覚えておけ、この世界にはな。
お前らのような子どもが生きる場所は、どこにもねえんだよ。
最初から持ってない奴は、行く場所も、帰る場所も何もない。
闇の中で膝を抱えて生きていくしかねえんだと、とっとと理解しやがれ!!」
そのまま釣り上げるように引き上げられ、首が絞められる。
呼吸と、心が締め付けられ、腕の痛みよりも苦しい。
遠ざかる意識の中。
『帰って来て下さい』
マリカがくれた言葉が不思議に星のように、煌めいた。
おかしな話だ。
私が帰る場所は、あそこではないのに。
「店に戻してレシピをもう少し集めさせたいところだったが、もし戻したら本当に店主の所に逃げ込みそうだな。
仕方ねえ。お前の役目はここまでだ。
『館』に戻って…また…」
死刑宣告にも等しい昏い命令は
「セリーナさん? 貴方達、何をしてるんですか?」
けれど、場を塗り替える眩しい声に遮られた。
「貴様、誰だ? セリーナの知り合いか?」
どさ、と地面に落とされた私に彼女は駆け寄って跪く。
「セリーナさんの勤める店を預かる者です。様子がおかしいので後を追いかけてみたら…。
貴方方は、彼女に何をしたんです?」
「あ、兄貴、こいつです! 第三皇子の館に呼ばれてレシピを教えた料理人。
子どものくせに護衛を付けられた一号店の支配人代理って奴は!」
「こんな子どもが? ホントか? セリーナ?」
彼に近づいた男が耳打ちには大きい声で知らせる。
「マリカ…さん、逃げ…て」
脂汗が止まらない中、私は必死に身体をあげる。
腕は妙な方向に曲がっている。多分折れているのだろうけれど、気にしている暇はない。
彼女が、彼に奪われたら大変な事になる。
「は、早く…」
「セリーナさん!」
「嘘じゃあ、無いようだな。金づるが、自分の方から飛び込んで来たのに誰が逃がすか! おい!」
「わかりました!」
「キャアア!」
男の乱暴な拳がみぞおちに入り、ガクンと力を失ったマリカの身体は地面に落ちた。
「バカな小娘だ。
せっかくの護衛を外して、こんなどうでもいい女を追ってくるとはな。
…戻るぞ。セリーナ。
こいつに免じて、優しい俺は今回の事は忘れてやる。
妹の命が惜しかったらもう二度と、逆らおうなんて思うんじゃねえぞ!」
「は、はい…」
マリカは男の肩に荷物のように担がれている。
私はもう、頷き首をしゃくる彼の後について行くしかない。
幸せだった…光に、背を向けて。
「少し、我慢して下さいね。
治してあげたいんですけど、これも奴らの悪事の証拠、なので」
不思議なことに、マリカが私の折れた左腕に触ると痛みが、少し薄らいだ。
扉に触れたり、外を見ていたマリカがふと、私の方を見る。
「セリーナさん。右腕で妹さんだっこできますか?」
「え? ええ」
「じゃあ、妹さんをだっこして、それから強く願って下さい。
見つかりたくない。見つからないようにここから抜け出したい、って。声は出さないで。
館の人と出会っても気にしないでそのまま進んで下さい。
多分、館の人には貴方は見えませんから」
「え? 見えない、ってどうして?」
「説明は後で、そして外に出て、この館の住人じゃない人、鎧を来た人がいますから助けて下さいって頼んで下さい。
もし、ティラ様、解りますよね。
私の護衛だった方がいたら迷わず声をかけて。絶対助けて下さいますから。
あと、ファミーさん、でしたよね?」
意味が理解できず呆然とする私に、それ以上の説明はせず、マリカはファミーの前に膝を折る。
ファミーの青い目とマリカの紫の瞳がパチンと合う。
「だれ?」
「私は、マリカ。セリーナさん。お姉さんの友達で貴女達を助けに来ました。
お外に出してあげますから、お姉さんの首にしがみ付いて、私か、お姉さんがいい、っていうまで絶対に声を出さないで下さい。
できますか?」
「できたら…お外に行けるの? お姉ちゃんと一緒に?」
「はい。必ず、外に出して、お姉さんと一緒に明るくて暖かい所で暮らせるようにします。
信じて、くれますか?」
「うん!」
「ありがとう。じゃあ、お姉さんの首にしがみついて。いい、って言われるまでしー、ですよ」
言われるままにファミーは私の首筋に両腕を回した。
きつく噛みしめられた唇は精一杯言われたことを守ろうとしているのかもしれない。
私は軽くて小さな体を抱き上げる。左腕が動かないので少し不安定だけれど、多分、なんとかなる。
「では、行きます。
私の事は気にしないで、とにかく、外に出る事。
そして、助けを求める事だけ。考えて下さい」
「えっ!」
バン!
勢いよく、蹴り飛ばされたドアが壁に跳ね返る大きな音がした。
何故? 扉が開いたの?
鍵は、かかっていなかったの?
そんなことを思う間もなく、彼女は階段を駆け上がっていく。
「誰か、助けてーー!」
「な、なんだ。なんだ?」
「! 捕まえてた娘が逃げた? なんで?」
「話は後だ、とりあえず追いかけろ!」
見張りや、周囲の部屋の男は彼女を追いかけたようだった。
私は状況も解らず、暗い部屋から出て階段を上がった。
そのまま注意深く、外に向かう。
時々、男達の視線が自分に向けられた、と思う場面はあったのだけれども、不思議な事に男達が私達を捕えることは無かった。
そっと、注意深くいくつもの扉を潜り、外へ繋がる扉を開ける。
私が店を出たのは昼過ぎだったけれど、いつの間にか夕方になっていたようだ。
薄赤い光が周囲を照らし、真っ赤で大きな太陽が、私達の前に輝いている。
「!」
眩しい、光に目を閉じた時、私は自分達が、外に出たことを、出る事ができたのだと理解した。
気が抜けたのだと思う。
へたり込んだ私に、気付いたのだろうか。
「お前は? 確か、ガルフの店の店員でしたね」
一人の女性騎士が駆け寄って来る。
「あ、貴女…は?」
一度だけだが見覚えがある顔だった。
ティラ様、と皆が呼んで親しんだ女騎士、ではないけれど、店にやってきたことのある騎士だ。彼女は。
「私は、ミーティラです。
お前達がティラ様とマリカが言ったこの『館』に捕えられていた子どもですね。
もう、心配はいりません。お前達は、私が、王都の治安維持を司る第三皇子ライオット様の名に懸けて保護します」
ミーティラ様の、固い、でも確かな誓いを聞いた時、目元が熱くなるのを感じた。
胸の中に言葉にできない思いが生まれ、熱を放って溢れ、零れたのかもしれない。
止まらない涙を、溢れる思いをファミーとミーティラ様は何も言わず黙って見守ってくれていた。
自分でも理由が解らなかったその感情は、夕闇に染まった館から出て来たマリカを見た時に生まれた熱と、よく似ていた。
両脇を黒髪の少年と、ティラ様にがっちりと固められ、肩を縮こませながらも、
「セリーナさん! ファミーちゃん! 無事で良かった」
私達を見つけ、駆け寄ってくれたマリカ。
煌めく笑顔が、星のようだ。
と私は思った。
惑う者を照らし導く一番星。
安堵。
安心、感謝。
私がこの時の…思いの、熱の正体に名前を付けられるのは、まだかなり先の事であったけれど。
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