第1話 桃子楽温泉

あたりが暗くなってきた。段々と目の前の物さえなんだかわからなくなってきて少し焦りを感じ始めた。歩いても歩いても目的地の宿の明かりが自分の視界に入ってこない。もしかして今、俺は道に迷ってしまったんじゃないのか。あたりは木々で囲まれ人工物はこのアスファルトのみ。電灯なんてない。不安が自分の心を支配し始めたがここでたち止まっていても仕方ないので足を動かす。しかしついには唯一の人工物であったアスファルトの道さえ途切れてしまい、とうとう自分は人間が住んでいる世界とは隔絶された気分になった。このまま進んでいいものか?少々面倒なことになってきて思わず深くため息をついた。白い吐息が立ち上るのを呆けて眺めていると目の前に木製の看板が地面につき刺さっていたのが見えた。よく見えなかったのでスマホのフラッシュライトを使い照らしてみるとそこに書いてあったのが

「桃子楽温泉」

それを目にした時希望が見え始めた。もう少しこの看板を探ってみると

「この下り坂500メートル」

息を大きく吐いた。ため息ではなく喜びから来るものだった。一時は引き返そうか頭をよぎったがその必要は無くなったようで、そうとなるとすぐに歩き始め無我夢中で道を下っていく。

しかし、雪道で足元が悪いことを何故か忘れてしまいせかせかとしていたら大胆に転んでしまった。いつ以来か?こんなに大胆に転んだのは。右肘を強く打ち鈍い痛みが自分を悶絶させ息がうまくできなかった。そんな痛みの中急に頭の中で過去の記憶が蘇った。思い出した。この痛みは高校の時のサッカーの試合の時に体験した痛みだった。ドリブルする相手選手を阻止しよと体を入れたら交錯して自分の体が宙にとび地面に叩きつけて魘されていた。その時の痛みがあの時とよく似ている。そんな回想をして気がついたら痛みは引けていた。どうやら骨折はしていないようなので安心したが、気をつけて下っていかねば。


そしてついに温かみのある光が自分の眼球にある桿体細胞を刺激し感動に浸った。本当に一時はどうしようかと頭を悩ませたが無事にたどり着いたので今まで積りに積もった肩の雪を払いとても身軽になった。

宿の部屋を照らしている光が外まで漏れていてそれがパラパラ落ちている雪を反射させる。とても幻想的な光景だったので自分の心が浄化された。

「ここまできてよかった」

らしくないが目を潤ませながら声が漏れた。もう少しこの場にいたい気もしたが流石に体が震えてしまっていたので、名残おしいが宿の入り口まで歩みを進め引き戸を開けた。



この宿で人生を終えるとも知らずに。

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