夜ごとの敵 前編

 それは夜ごとにやってきた。ボクは逃げた。毎日、毎晩。それがなに者なのか、


ボクにはわからない。


 一度だけふり返って、の顔を確認してみようとしたことがある。あのときは運


がよかった。足もとの赤土で横すべりして転んだことがである。視界のすみに大ナタ


がふりおろされるのが見えたのだ。つまりその場でふりむいていたら、ボクは頭を


わられていただろう。


 以来、ボクはヤツから逃げることだけに集中している。ただ、ひたすらに赤土の


荒野を走りつづけている。




「お前、いつも眠そうな顔してるよな」


 そういう宇佐木うさぎこそ、眠そうな目をしている。ボクと宇佐木は浪人生だ。


いいわけしても仕方ないことだが、高三の夏休みのころから、毎晩、あの夢を見るよ


うになった。受験というものへのプレッシャーが原因らしい。まい度まい度、夢をハ


ッキリとおぼえている。これはつまり眠りが浅いということで、疲れがまったくとれ


ない。そのうえ眠るのが恐くなり、心配した親に病院や心理カウンセラーへ連れてい


かれたりもした。とどのつまり、高三のボクは受験どころではなかったわけだ。むろ


ん今でもあの夢は継続中けいぞくちゅうだ。しかし両親にはなおったと嘘をつき、家では


必要以上に明るい浪人生を演じつづけている。したがって、外に出ているときのボク


はつねに、ひからびた出がららしのごとく疲弊ひへいしていた。


こんをつめるのもいいけど、今からそんなんじゃ夏をのりきれないぜ」


 眠そうなボクに宇佐木がいった。コイツは予備校で知りあった男だ。そんなだった


から高校時代の友人は、ほぼすべてをうしなっていた。わかるだろうか? 睡眠が


たりていないと、人は正常でいられなくなるモノだ。突然キレてみたり、笑い出した


りしてね。ボクはまぎれもなく変人だった。予備校でも、そのころのうわさはたち


まち広まり、ボクに話しかけてくる者は皆無かいむであった。この宇佐木をのぞいては。


宇佐木は自分のことをあまり語りたがらないが、実は高校でイジメにあっていたらし


い。


「勉強なんてまるでしてないよ。自まんじゃないけどさ」


 ボクはいった。今のままでは来年も浪人確定である。


「夜遊びか? よゆうだねぇ」


 カッ!とした。こんな場合、高校時代のボクならアッサリとキレて、宇佐木の胸ぐ


らをつかんでいただろう。しかし今のボクは、そんなバカはしない。なれとは恐ろし


いものだ。夜ごとなに者かに追われつづけて(夢だけど)もうすぐ一年である。正直、


なにもかもが面倒めんどうだった。


 予備校の教室、ボクらの机のわきを、あわい柑橘系かんきつけいのかおりが横ぎった。


ボクと宇佐木の会話がとまる。辰浪爽子たつなみそうこだった。彼女はボクとは別の意味で


ういた存在で、まさに授業を受けるためにだけ予備校にきている(それがあたり前な


のだが)という姿勢を前面に押しだしているため、ここでは友だちを作れない(作らな


い?)でいた。こういう場合、小さなコミュニティ内においては、しょーもないうわさ


が流れるモノだ。ボクにとってはどうでもいい話であったが。なにせ自分のことで手


いっぱいなのだ。


 しかしながら、遠目に見ているぶんには辰浪爽子はハンパない美人である。


「なーに見とれてるんだよ」 宇佐木が下卑げびた笑顔をうかべる。


「宇佐木こそ」


「まーね、同じながめるならかわいい子の方がいい。お前、思いきって誘ってみれ


ば? 変人どうし、案外うまくいくかもよ」


 宇佐木がおかしなことをいうから、辰浪爽子が気になって授業がまったく頭に入ら


なかった(嘘です。寝不足なんです。いつもです)。しかし、夢の中の見えざる敵以外


のことを考えられる自分自身に、ホッと安堵あんどしたのもまた事実であった。




 ボクはいつもの赤土の荒野にいた。これは夢、夢とわかっていながら夢の中にい


る。そして無条件でしゃにむに爆走していた。 ガッガッガッ!! 背後からせまる


いつもの靴音。今日、宇佐木と話していて考えたのであるが、このままの生活をつづ


けていれば、来年の受験もだめだろう。辰浪爽子と──なんて夢のまた夢、女の子と


つきあうということ自体が、まず無理!!


「そんなの嫌だ……」 ボクは小さく言葉にした。ボクはこれでも健全な十八歳の男


子なのだ (変人だけど)! 彼女がほしいぞ!! 足音が近い。ボクは一大決心をし


た。ヤツはボクを殺したくて一年も追ってきている。ということはボクが


れれば、それで終わり。ジ・エンド。そしてこれは夢なんだから、夢の中でボクが死


んでも、ボクが死ぬわけがない!! はずだよね? 走りながらボクはまよいをふ


りきり、ヤツに意識を集中させる。やるんなら一撃でたのんます、痛くないところを


ひとつ……。


 ところがボクの足はとまらない。立ちどまって、ヤツにやられるんだ。そう頭では


わかっていても、本当には死なないと理解はしていても、恐いものは恐いのだ!


 ──とりあえず、られるのは明日にしよう!!  方針変更ほうしんへんこう!!


 ボクはいいかげん痛くなりはじめた足をふるいたたせ、目がさめるまで、ひたす


らに ……しかしハリキリすぎたらしい。 小さな岩を飛びこえたつもりだったのだ


が、夢の中のボクの足は想像以上に疲れていたらしい。ただ小岩をよけて走ればすむ


話だったのにバカなことをした!!


 ジャジャジャ!  赤土に頭から突っこんだボクはほおをすりむき、転倒して


いた。


 ──もうだめだ! ヤツがくる!!  死ぬ! 今すぐ死ぬ!!


「え!?」ヤツがフラついていた、ヤツも疲れているのだ! ヤツも人間!? 


ヤツは頭上に大きくナタをふり上げた!


「あっ!! ぇえええ!?」 初めてヤツの顔が見えた。


そのとき周囲の風景が白くかすみはじめた。目がさめる前兆ぜんちょうである。


間にあうのか? 目がさめれば、とにかく逃げきれる!




 大きくゆさぶられたことと、自分自身の声のデカさで目がさめた。どうやら


られる前に目ざめたらしい。


「ひぃ!!」 ボクは腰を引いた。目の前に両親の顔がアップで迫っていたのだ。


「あんた……病気、なおってなかったのかい?」 母さんが心配そうな声でたずねて


くる。違う違うと首をふるボク。


「だけどお前、予備校の成績、からっきしじゃないか? 本当はまだ悪夢に悩まされ


ているんじゃないか?」 父さんがボクの肩に手をかけた。


 おそらく、近ごろでは珍しいくらい、デキのいい両親なんだと思う。ありがたいこ


とだ。だが、ボクは夢の中で見たヤツの顔が気になっていた。


──あれが、ヤツの正体!? そんなバカな!


 ボクはなんともないと両親をときふせ、ふとんにもぐり込んだ。しかし、その夜の


ボクはマンジリともできなかった。




「辰浪爽子のうわさを聞きたい?」


 教室で宇佐木は、目を丸くしてボクを見た。


「なんだなんだ、昨日の話でその気になっちゃったのか? てか、知らなかったの?


彼女のうわさ、やっぱお前、変わってるわ」


「いいから聞かせろよ──」


柑橘系かんきつけいのかおりがした、彼女だ。


「後でな」


 ボクはそういうと机に筆記用具をならべつつ、さりげなく彼女の背中を目で追


う……が、とうの辰浪爽子の方が、通路に立ちどまってボクを見ていた。


「あ?」


 しかし、その目は背筋がこおるほどに冷たい。まさにヘビににらまれたカエル


状態。身動きひとつできないボクと、彼女を交ごに見た宇佐木は、へぇーなどと見当


ちがいな納得をしてボクの肩をバンバンとたたいた。


 その日の授業が終わる前に声をかけたかったのだが、なぜかためらわれ、結局、彼


女はとっとと帰ってしまった。




「いい雰囲気ふんいきだったじゃん?」


 コーラをすすりながら宇佐木が笑った。あれのどこがいい雰囲気なんだ? お前の


目はイボか?


「いいから話せよ」


 次に教室を使う生徒たちがバラバラとやってきたので、ボクらは予備校を出て、駅


前のバーガー屋に入った。彼女についてどうしても知りたかった。


 ──あの夢の中でボクを殺そうとしたのは 辰浪 爽子 だったから。


夢なんてあくまでも個人で見るモノで、昨日はたまたま宇佐木につきあえば? なん


て軽口をいわれたせいで、ヤツの顔が辰浪爽子になってしまっただけなのかもしれな


い。しかし……。


「なにから話す?」


 周囲の騒音がハンパない。しかし声をはるわけにもいかない、ナイショ話も楽じゃ


ない。


「辰浪ってすごく頭いいじゃん、なんで浪人なんかしたんだろな?」


「高三の春ごろから精神病院に入院だか、通院してたって話だぜ」


「精神病院?」


「つきあってた男を刺したんだか、刺そうとしただかで」


「……なんでまた」刺す? 健全な浪人生のボクには別次元の話だ。


「よくある話。けっこう年上だったみたいだけど、辰浪の彼氏ってのがメッチャ浮気


症だったんだと。で、キレた んだと。相手も女子高生相手に告訴すれば社会的にヤ


バいし、手っとり早くガイキチに仕立てることで辰浪爽子の親も納得したらしい」


「ははぁ……」


「なに驚いてんの? 今どきの女子高生なら普通でしょ? これくらい」


 そうか? 普通か? 同い年で!?


「でもどうなんだろ? ウチの親なら納得しないような気がする」


 して欲しくない気がする。


「金だよカネ。元々、ひどい親らしいよ。彼女、美少女じゃん。あの、あるだろ?


ロリコンDVDみたいの、あれに売られたことまであるって話だぜ……」


 少し声をひそめた宇佐木は嬉々ききとしてさらにいろいろな話をしていたが、


ボクの耳は聞きとり拒否を決めこんでいた。どう考えても楽しい話ではなかった。




 その夜のボクは疲れきっていたにもかかわらず、やはり一睡もできなかった。


辰浪爽子のことを考えていた。


 翌日。明け方からしとしとと降りはじめた雨が、かなり本格的などしゃ降りに変わ


った。こんな日はただでさえ予備校へいく気がせる。その上、寝ていない。


悪夢に追われてはいても、眠るか眠らないかは大きな違いだ。


 はぁ……。 ボクは台所をのぞいてため息をついた。一昨日の夜のことがあるの


で、母親が必要以上に心配するのは目に見えていた。


「行ってきま~す」ボクはフラフラと雨の中に出ていった。小さなビニール傘の抵抗


もむなしく、数分後のボクはすでにびしょ濡れだった。もう少しで駅だ。どこかで仮


眠でも取りたいところであるが、例の夢を見て叫ぶとか、暴れる可能性がある(した


がって、試したことはない)。ボクは自分の部屋以外では眠れない、眠ってはならな


い男なのだ。


 豪雨の中に赤い傘。 ダークなモノトーンに近い風景の中で、ひときわ目立つ赤い


傘が、ボクの方へと近づいてくる。前かがみ気味に傘をさしているので、ボクに気が


つかないのかもしれない。そして雨音の激しさがボクの存在を消してしまっているの


かもしれない。


 ところが赤い傘の主はボクの目の前でピタリとをとめ、その傘とともに、


ゆっくりと顔を上げた。


 予感はあった。 雨で飛んでしまってはいるが、柑橘系かんきつけいのかおりがうすく


ただよっていたのだ。


「眠そうね」


 辰浪爽子だった。


「あ、うん。いちおう受験生だから」


 あれ?  彼女と話をするの初めて?


「ふん! 勉強なんかロクにしてないくせに」


 な、なな!?


「なぜわかる!?」


「模試の結果を見れば誰だってわかるわ」


 ウチの予備校では試験結果がはり出される。


「のほほんとしちゃってさ」


 こ、これでも苦労してるんだ!!


「今夜は逃げないでよね」


 バシャバシャと水しぶきを立てながら、辰浪爽子は駅の方へと走りさった。


「──は!?」


                        (後編につづく)


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