第22話 惨劇、開幕

「よくやったついでに、ちょっくら死んでこいや」

 その言葉に、咲良は目を見開いた。

 瞳を光源とした光は、輝きを増す。どよめきは遠く、光景が二重に見える――早川が転移を目論んでいることは、確実であった。

 ――そういえば、あの時も。

 音一つなく背後に現れた、その理屈が転移によるものであれば不自然ではない。

 そりゃあそうだ。杖をついて、ゆっくりと歩いているのだから……いくらなんでも、音で気づくはずなのだ。

 その時点で警戒するべきだったが、もう遅い。

 だが、しかし――彼らは、まだ知らないのだろう。

 咲良の持つ異能。

 否、正確には、異能のようなものを。


 咲良は、身長とともに、あらゆる異能に恵まれなかった。

 人並外れた怪力も、人外へと変化することも、或いは誰かの心を読むことも、自由自在にどこかへ降り立つこともできない。

 その代わり、と言ってはなんだが――生まれつき、あらゆる異能を拒絶できた。


「……ごめんなさい。それは、できません」

 転移先であろう景色が、ひび割れてたわむ。

 そのまま、景色を軽く指先で押した。あくまでも幻覚に過ぎないそれは、ぱきりと音を立てて割れる。

 同時に、輝きが離散した。

 当然それなりの反動があったのだろう。勢いよく手が離れた。

「ッつつ。驚いたなァ、こりゃ」

 ぶんぶんと手を振る早川の様子からして、相当応えたに違いない。

 流石に悪いことをしたように思えて、軽い罪悪感に駆られた。

「あ……え、えぇっと、痛いですよね? 大丈夫ですかっ」

「なァに、すぐ治るさこれくらい……しかし、参ったな」

 ぶつぶつ、と何か口の中で喋る。その危機感の理由が、わからない。

 ただごとでない様子を察知したのだろう、小田原が小走りで寄ってきた。早川がちらりと見やると、何か決めたように声を出す。

「おォ、小田原の坊。他の部屋には誰かいるかァ?」

「今ですか? 精進料理を作るために、厨房に三人……」

「よォしわかった、そいつらの葬儀も手配しろ」

「はぁっ……?」

 あとはついでに、全員逃げろ――それだけを指示して、また何かを考えているようだった。


 ――だが、既にそれさえ遅かった。

 圧倒的な脚力で跳んでいったとつぐは、あらゆる全てを遙か彼方に置き去りにし……そして、ついに、到着していた。

「――うふふ」

 走っている間に馴染みきった異形の肉は、生き物を狩る事に特化している。

 爪は鋭く伸び、獲物を捕らえ、貫くための鉤爪と化し。

 桜色の髪は、燃え盛る炎を宿す。爆発的な脚力を秘めた脚は、平時の倍ほどに長く伸びている。

 体表は赤黒く変色し、額からは歪曲した一対の角を生やす。ぽたぽたと垂れた唾液が、じゅうとカーペットを焼いた。

 最早それを、人と呼ぶものはいない。人を喰らう、鬼である。


 ぐるる、と何かが喉を鳴らす音で、彼らは気付いた。

 初めは、野良猫だと思っていた。極道も人間なので、猫が好きな人間もまぁまぁいる。そういう人間が住み着かせてしまったのだろう、と。

 だが、ここは厨房だ。そして今は、葬式のために料理を手配している真っ最中である。どこの馬の骨とも分からぬ猫の毛が入り込んだ食事を、万が一にも若頭には食わせられない。

 一人が、追い払ってきます、と向かった。

 ――それが、悲劇の始まりであった。


 そこにいたのは、異形であった。

 それしか分からなかった。

 初めの一人は、それが何かを理解する前に、頭を潰された。


「……うふっ」

 悲鳴すら上げることなく死んでいった人間を、食い千切った。

 先の獅子原に比べればいくらか若い。だからだろう、柔らかくて甘い肉だ。もちもちと軽く噛むだけで、ほろりとほぐれていく。

「美味しい……」

 バキバキ、と骨を噛み砕いていく。じゅうじゅうと酸で溶けていく。

 しゅわしゅわ、と泡を吐き出したそれを呑み込んだ。

「……ビールみたい、ね。うふ、うふふっ」

 ――どうして、こんな美味しいものを、食べていないんだっけ。

 もちもち、バキバキ、と楽しんでいる間に、人ひとりを食べ尽くしてしまった。あぁ、でも、まだ足りない。

「……あっち、かしら?」

 でもまだ、人の気配がするんだもの。もっともっと、食べなくちゃ。


 絶叫が、響き渡った。

「くそったれが、早すぎる!」

 散り散りに逃げていく男達を背に、残っていたのは咲良と早川だけである。

「なにがっ……」

「あぁクソ。お嬢が……とつぐが、暴走した」

「暴走!?」

 そう、知るよしもなかったのだ。

 咲良にとっては、ただ色々と人間離れしているだけの暴君女。

 だが――その素性を知る者にとっては、生ける時限爆弾に他ならない。人の血という甘露に食欲をそそられ、その本性をさらけ出す。

 挙げ句、周囲全ての人間を喰らい尽くすまで、その暴走は終わらない。厄介な病気と言っても差し支えないどころか、運悪く暴走に関われば命はないのだ。

「あァそうだ、残ってりゃ二人仲良く食肉になる」

「そんなっ……」

「手は打った、賽も投げた。あとは神様の気分次第だ」

 そう吐き捨てた早川の顔は、やけにすがすがしいものだ。いずれ、そう遠くないうちに寿命に追いつかれるのが分かっているからだろう。

 だが、それでも――。

「だめです、止めなくちゃ!」

「おォ、そうかい」

 死にたくないし、死なせたくない。

 確かにそこまで好きではないが、死んでくれとまでは望まない。そしてきっと、ここで見捨てたとすれば、後悔するだろう。そう直感した。

 ――なんとなく、理解はしていた。

 とつぐのことを、よく知っている人間なのだと。きっと親しい相手なのだと。

 仮にこの老人を手に掛けたところで、とつぐの心が揺れ動くかは分からない。

 だが、嘆き悲しむにしろ、何も思わないにしろ、咲良には耐えられないのだ。一度知ってしまった人が、知っている人を手に掛けるというのは。

「んじゃァ、これ持ってけ」

 ぶおん、と上空に穴が開いた。そこから、携帯電話が落ちてくる。

 どこか古めかしくも懐かしい、折りたたみ式のガラケー。恐らくは早川の私物だろう、と当たりを付けた。

「お守りだ。漢にゃァ神様が味方する、かもな」

「……はいっ!」

 開け放たれた扉へと、駆けていく。


「さァて」

 脱兎の如く駆け抜けていった咲良を見送って、早川は懐からスマートフォンを取り出した。

 そのまま、最後に登録した電話番号へと発信する。

「まったく、いい漢に恵まれたもんだよなァ……おォ、もしもし」

「……」

 相手が、何かを返すことはない。

 ただ、深く息を吐き出し、その拍子に衣擦れを起こした音だけを拾っている。気配らしい気配は、ほとんどない。

 素性が分かっている早川にすら、人間とは思えないのだ。人でありながら鬼である、そういう酔狂者キチガイ。そう理解せねば、呑まれてしまう。

「ガキが飛んでった。くれぐれも殺るなよ、じゃァな」

 ただそれだけを伝えて、切った。


「しっかしまァ、このご時世にガラケー見るとはね。神様ってのは、オレ以上のジジィらしいな」


 飛び出して、半ば転がるようにして、数分も経たないうちに――血の匂いが、漂ってきた。

 ぐちゃぐちゃと肉をかき混ぜるような音。べちゃり、ばきばきばき、と人体の壊されるような音。ずるずると啜るような音。

 それら全ての根源が、一秒足らずで焼き付いた。


 どこかしなやかで、流線のような……やや女性的な、それが。

 哀れな女の死体を持ち上げ、口元へと運ぶ。

 四肢も顔も、潰れるか食われるかで面影はない。服はちぎり取られ、血で染め上げられている。しかし、顕わになった乳房でそれを判別した。

「……とつぐさん、ですか?」

 絞り出した声は、恐怖に震えている。

 血と内臓とが散乱したかつての厨房に、本来の面影はない。それでいて、死体は見えない。

 ここで何があったのか、咲良はそれを理解した。

 しかし、もう遅い。

 女の死体を投げ捨て、それがゆらりと立ち上がる。一対の角を額に生やした鬼が、そこにいる。

「あ、あの……どうして……?」

 答えはない。

 ふしゅるる、と息を吐き出したような音だけが、響く。しずしずと、ゆるやかに、ただ歩いてくる。

「……お願いです、今ならまだ間に合いますから、ね」

 目には溢れんばかりの涙をたたえ、震える声を、絞り出す。

 説得にさえならない、ありのままの言葉を。

「だから」

 それでも足は止まらない。

 もう、目の前にいる。むせるような血の匂いが、漂ってくる。

 長く伸びた腕は、もうあと一歩で、咲良を捉える。


 ――あぁ、やっぱりダメだったのかな。

 咲良は、ぎゅっと目を瞑る。

 せめて、最期は泣き出さないように。


 その瞬間。

 電話が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。

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