第19話 老練老獪

「よォ大将、やってるかい」

 そうして現れたのは、いかにも飄々とした好々爺である。

 流石に老体にも暑かったのだろう、トレンチコートを脱ぎ、額の汗を軽くハンカチで抑えていた。くったりとしたスーツは、相当昔のものなのだろう。見た目よりも老けて見える。

 だが、その眼光は鋭いものだ。

「ひッ……は、早川はやかわさんっ」

「おう、小田原おだわらの坊じゃねェか。会長サマのお達しでなぁ」

 そのひと睨み、ひと声で、並の人間を震え上がらせるほどには。


「あぁ、あいつかぁ……」

 その様を、軽く落胆して見つめているのは、とつぐである。

 正門を捉えられる窓越しに、その姿を覗き込んでいた。咲良に会話は聞こえないが、それでもなんとなく、慌ただしいのがわかる。

「あの、すごそうな方ですけど……?」

「まぁ、凄いわよ。手加減一つしてくれないわね」

 早川――その名を早川武蔵はやかわむさしというその男は、華狼会におけるブレイン頭脳であった。

 先代までは老いてなお現役。今代ではその座こそ後進へ譲ったが、未だ相談役としての立場は大きい。

 完全に隠居しているわけではないからこそ、その影響が大きすぎる。当の今代とも仲は良好。今でこそ一線を退いてこそいるが、その気になればいつだって戻ってくる、そういう存在だ。

 ――とはいえ、極道に精通しているわけではない咲良にそんな事を言っても分からないだろう。

 ある程度、己の社会経験などから噛み砕いて言葉を組み立てる。

「まぁ、元請けの社長の相談役……みたいな感じかしらね?」

「はぁ」

 残念ながら、そもそもの社会経験がない咲良にはピンと来ない例えであったが。

「ま、頭でっかちが来なかっただけマシって事にしておきましょう」

「はい……?」

 当然、常識的に考えれば会長本人が出張るということはない。

 確かにそれなら話は早いが、別の話が余計に拗れる。そもそも迂闊に死なれると困る人間だ。当然護衛も付けるだろうが、その上でとつぐが全力で守らねばならない。

 もちろんただの葬列ならいいが、暗殺された人間の葬列だ。その辺りを、言葉尻から察知したのだろう。

 そうとなれば、その側近がパッと出てくることもない。彼の側近というその立場に限っては、そう変えが効く場所じゃない。

 ――なるほど、確かに順当だ。

 故人との付き合いもあり、ひとまずの一線を退いた老いぼれ。しかして自らを裏切ることはなく、適当に実権を与えても問題ない人間。

 例の書類のことを考えに入れたって、確かに適任は彼しかいない。恐らくはそんな情報無しにこの人選をしたのだから、バケモノじみた洞察力だ。

「それにしたって、やりすぎなのよ」

 今更どうしようもない事を、一人ごちる。


「よ、お嬢。お久しぶりですなァ」

 どろり、溶けたような声が、背後に響いた。

 ばっと振り返ると、今まで外にいた筈の老人――早川が、そこに佇んでいる。

 ねっとりとした紫色の瞳が、じっと咲良を見据えていた。

「あら。挨拶はもういいのかしら」

「はっは、冗談はほどほどにしてくだせェ。嬢ちゃん無視して、他の奴にうつつを抜かすだなんてねェ……」

 ねとり、と粘ついているが、しかし耳障りは不思議と悪くない。むしろ、じわりと染み入るような音だ。

 こつこつと杖をつき、ゆったりとにじり寄ってくる。まるで、兼ねてからの友だったかのように。

「オレがそこまで薄情じゃあないってこたぁ、よォく理解してらっしゃるくせに」

「それはそうなんだけど」

 恐らく、この老獪な紳士はそんな事を言いに来たのではない。

 にこやかな、いかにも人のいい笑顔の裏で、何かを画策している。

 ヤクザとは部外者であるとつぐを利用する必要がある――その具体的な内容までは分からないが、あまりいい事ではないだろう。

 それくらいは、咲良にも理解できる。

「……何が目的なんですか?」

 だから、口を開いた。

 どろどろとした空気に、頭まで飲み込まれないように――せめて、一瞬だけでも『年相応こども』に見えるように。

 じっ、と舐め回すような視線を、感じる。それに飲み込まれないように、きっと睨み返した。

 そうして数瞬後、笑いが飛び出した。

「――只者じゃねェなぁ。こりゃあ将来有望だ……お嬢?」

「気持ちはわかるけど、わたしの物よ」

 かかっ、と気持ちのいい笑い声。今までのじめじめしたような空気を吹き飛ばすような、そういう晴れ晴れとしたものだ。

 だが、その空気を作り出したのが他ならぬこの老人である。

 油断ならない人間として、余計に咲良の警戒は深まるばかりであった。

「そりゃあわかってますよ。それにしても、目的ね……そうさなァ……」

 ゆるりと杖の先を遊ばせ、何やら考えているような、わざとらしい間を開ける。

「……あるにはあるのね。大体予想はついているけど」

「そりゃ、のこのこ葬式にだけ顔見せるわきゃァいかないさね。オレもそれなりに忙しい御身分でねェ」

 老人らしい、緩慢な口調。ゆったりとした動作。

 どうにも、焦れったい。それを分かっていて、わざとやっているにしても。

 ――駄目だ。言い出すまで、待たなくちゃ。

「……端的に言いなさい。命令よ」

「えっ……」

 恐らく、どちらかがしびれを切らすまで待っている腹づもりだったに違いない。だから、今仕掛けたら思うつぼだ。

 とはいえ、ぺちぺちと足を叩きつけていると思い込んでいるのだろうとつぐの足元は、既に軽くヒビが入っている。

 よって、これ以上待たせたら自滅するのだ。床の崩落という形で。

「おやァ、これは失敬。じゃァ、単刀直入に申し上げますがねェ……」

「初めからそうなさい」

 急かすとつぐもそこそこに、にっといやらしい笑みを浮かべている。

 どうにもそれが、咲良には勝利宣言のように見えた。

 だが、その悔しさも、その次の一言で吹き飛んでしまう。


「この件に関しては全て、華狼会本家の預かりとさせてもらっても?」


 ――しばし、時間が止まった。

 否。

 空気が凍りついた、というべきか。

 初めから、この言葉を最大限効果的に発言する為の、布石に過ぎなかった。

 しかし、咲良には何ら脅しとして意味をなさぬ言葉だ。間接的にとつぐが呼び出したようなものなので、そもそも不利益の被りようがない。

 あぁやっぱりか、そうとつぐがぼやき捨てるくらいのものだった。元からこのくらいは覚悟していたのだろう。

 果たして、それは誰に向けて。

 咲良がうろうろと見回すと――果たしてその相手は、背後にいた。


 目を見開いたまま、立ちすくんでいる、金髪の男。

 この組の若頭だ。


「あぁ……会長のご命令でなァ。オレにはどうしようもねェんだよ、『』だからなァ」

 まるで自分たちに向けられているような言葉だ。

 いや、初めから会話をしていたはず。少なくとも、後ろに気を遣っている様子はなかった。

「あぁ、そう。具体的にはどこまでかしら」

「『』ってのがあるなら、そこは任すさね。オレは生憎、そういうのはてんで駄目だ」

 そして――それがまるで、咲良たちにしか影響がないように、言ってのけている。

 だが。

 あの様子を見る限りでは、そうではない。完全に背後から撃たれた形だ。

 むしろ、獅子原組への宣告。

 その真意までは計りかねるが――その様子からして、ほとんど最後通牒なのだろう、と判断した。


「んじゃ……おぉ、小田原の坊。悪りいな、歳ィ取ると知り合いが多くなって」

「い、いえ……その、部屋は用意したんで。よければ、どうぞ」

 そうして、何でもないかのように立ち去っていった男の背を見る。

「……やりすぎなのよ、まったく」

 チッ、と舌打ちを吐き捨てるとつぐの気持ちが、この時ばかりはよく分かった。

 ――なんとも実に、おぞましい老人を引き入れてしまったものである。

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