第16話 事件、勃発
春の陽気がほんの少し行きすぎてしまったのだろう、羽織っていたボレロが少し蒸し暑い。
ごくごくと美味しそうに飲み干されるアイスティーを、咲良は少し恨めしげな顔で見ていた。グラスから玉のような水滴がぽたぽたと垂れていくのも、なんとも涼やかなものだ。
もちろん、じっと睨みつけたところで、横暴の化身であるとつぐが一口たりとて分けてくれるはずもない。だぼだぼのボレロを脱いで、物欲しげなため息を一つ、わざとらしく吐いた。
事実として、この日はとても良く晴れていた。
雲ひとつない快晴であるばかりか、少し季節を先取りして、夏日になっていた。この年では初めてとなる夏日であった。だからと言って、何か特別なことが起こるわけでもない。
ただ、間違いなく、確かにその日は絶好のアイスティー日和だった。
「ぐッ!? がッ……ぱ……」
鮮血が噴き出た、その時までは。
「……ッ、し、獅子原さん!」
返事は、ない。
口から、鼻から、だらだらと血が流れ落ちている。咄嗟に口元を抑えた手から、赤が漏れ出す。
それと同時に――苦痛に見開いた目からは、色が失われた。
一瞬赤が濃く出た、その次の瞬間に、黒変する。
喉元に、刃が突き立てられている。否、刃が生えている。
そこから勢いよく吹き出した血は、止まることはない。吐き出した、逆流した、大量の血が、カーペットを侵食する。
急速に血液を失った獅子原の身体は、力なく崩れ落ちた。
「き、救急車を――」
「もう無駄よ。今から呼ぶなら霊柩車」
絶対の宣告が、応接間にこだまする。
「なんでっ」
とつぐのその言葉に、食ってかかった。薄いカーディガンを掴んで、ほとんど縋り付くような格好になる。
「目ぇ見なさい。もう真っ黒でしょう」
それを特に振り払うでもなく、すっと顎で死体をさした。
異能は、その力を瞳に映す。そして、使い手の死とともに失われる。もちろん例外はあるが――全人類の
そうして現れる人間の瞳は、人種に関わらず真っ黒だ。
「こうなったら無理。医者だって神様じゃないもの、死体の治療はできないわ」
「……」
熱を失っていく身体を、咲良は直視できない。ぎゅっと口を真一文字に結んで、俯いた。
当然、どう見ても即死だということは薄々わかっていた。それでも、もしかしたら助かるかもしれない――まさしく奇跡のような、一縷の望みに縋りたかった。
「……しかしまぁ、危なかったわね。どういう神経の持ち主なのよ」
「?」
「アレ見なさい」
とつぐが指さした方には、こぼしたアイスティーの残骸がある。否、ある筈だった。
だが――咲良の目に映ったのは、ウニのような形をした、球体の剣山だったのだ。ぬらりとした感触をしている。
一体どこから。
その疑問に答える様に、次の言葉が紡がれる。
「『異能水銀』が混じってたのよ。少し異能で刺激を与えれば、誰が使ってもあぁなるわ」
足もつかない上にそこそこ確実に殺せるし、定番の
アレを飲んでいれば、自らも同じように死んでいた。それを理解し、震え上がる。
そして、ある一つの疑問が浮かび上がった。
「……とつぐさんは大丈夫なんですか!?」
何しろ、そこそこ豪快に飲み干していたのだ。三つのうち、一つだけ入っていないということはあり得ないだろう。
「あぁ、そこそこ駄目だったわよ……失礼。うぉえっぶ」
そう言うと咲良から顔を背け、グラスを引っ掴んだ。
べちゃべちゃべちゃ、と何かを吐き出す音しか聞こえない。
少しすえたような、酸っぱい臭いと共に……どこか鉄臭い匂いも、混じっていた。細いグラスではその量を留めきれず、どばどばとカーペットに垂れていく。
どす黒く、おびただしい量の血であった。どう考えても死んでいる、そう直感するほどの量だ。
「あ、あの……」
「この程度じゃ、死にはしないのよね。流石にちょっと痛かったけど」
だが、心なしか青ざめた顔をしている以外は、ピンピンしている。それも吐き気によるものだったらしく、するすると元の血色を取り戻していった。
咲良は混乱した。思わず敬語がすっぽ抜けるくらいには、取り乱した。
「……なんで?」
「あぁ、再生能力が人より強い……らしいわよ。玲奈ちゃんが言ってたの」
どうあれケツから血ぃ垂れ流すハメにならなくて良かったわ、とぼやくとつぐを横目に、異能ってなんでもありだな、と思い始めていた。
「こぼした分っ……うわああああああああああああ!?」
またしてもどたばたと駆けてきた男が、死体を目にして絶叫した。
腰が抜け、その場にへたり込む。またしてもアイスティーが地面にこぼれたが、咲良はもうとやかく言う気はなかった。
と言うよりも、飲む気が完全に失せてしまっていた。
「く、組長!? な、なんでッ――」
その瞳には、涙が浮かんでいる。
と同時に、只事ではないと察知されたのだろう。どたどたばたばたと、騒々しい足音がそこかしこから聞こえた。
「あぁ。ちょうどさっき死んだわよ、異能水銀が入ってたみたい」
ぴしゃりと冷たく言い放った言葉は、その男には酷すぎる出来事だった。
はらはらと、頬を涙が伝っていく。
「……ちょっと!」
「なによ」
咲良は、とつぐのカーディガンの裾を、ぐっと引っ張って抗議した。
「そんな言い方ないでしょう、もうちょっと優しくたって――」
「別にいいじゃないの、どうせ見りゃあわかるんだから」
「でもっ!」
無駄につっかかってくる咲良に、苛立ちが募る。ぴーぴーと良く回る口と、人並みにはある自我が、今は酷く鬱陶しい。
特大の舌打ちをしてから、口元を押さえつけた。
「もごっ」
「ちょっと黙ってなさい、いいわね?」
顎の骨が、みしりと軋んだ。
折れる寸前で力を調整しているが、だからと言って痛くないというわけではない。顔半分を圧縮されているような状態だ。鼻まで覆われて、酷く息苦しいことだろう。
事実、咲良の目には涙が浮かんでいる。
「……泣くことないじゃないの」
当然、生理的なものだと理解はしている。だがそれとこれとは別の話だ。特に、一度身内になった人間には弱い。
――それなりに真っ当だと信じ込んでいた家族に捨てられ、世間に対して無知なままほっぽり出されたともなれば、それなりに同情する。誰だって自分の家族はまともだと思いたいものだし……高校生なら、何となく余所の事も分かり始めてきた頃だ。
二十と八年の人生の間、例外的に己の暴力性を涙ながらに崇拝された事はあるが、あれは身内かつそういう共同体だからという理由がある。
手を緩め、解放した。
「ぷはっ……泣いてません!」
「うるさいわね。ほらこれ」
ぷくぷくと頬を膨らませて怒っている……のだろうが、目元に涙を溜めていては全く説得力がない。ただの癇癪坊主である。
とはいえ、みっともない顔を晒すのも酷だろう――そう思い、懐からハンカチを出して投げた。頬を膨らませたままだが、ありがとうございます、と素直に受け取る。
そんなことをしている間に、足音はどんどん大きくなり――ついには、死体の元に辿り着いた。
「おい、何事だ!」
「若! お、オヤジが……!」
反応は、絶句、嗚咽、無言、様々である。だが、皆が皆、一様に悲しみに暮れているだけではない。
一つの極道の存続を懸けた、大きなうねり。それが今、ここに始動した。
その全ての鍵となる、起点は――。
「――この事件、わたし達が預かるわ」
一人の女の、鶴の一声である。
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