3-6

『次は、樟葉です。国鉄信楽線は乗り換えです』


 先輩たちがだんまりを決め込んだまま、電車は中書島駅を出てしまった。中書島を出ると大阪府内に入る樟葉まではにはあまり建物がなく、清掃工場と競馬場が目立つくらいの印象だったのだけれども、僕が今見ている車窓には、オフィスビルが立ち並んでいる。中には僕も知っているカメラメーカや家電メーカのロゴが入ったビルもあって、東海道新幹線の品川あたりみたいだな、なんて思う。

 清掃工場も僕の知っているところと同じところにあるようで、ビルに負けじと高い煙突から白い煙を吐いていた。


 僕は車窓を眺めながら、なんとかこの雰囲気を打開する術を考えていた。


 あと15分ほど辛抱すれば、電車は枚方市に到着、白井先輩はそこで電車を降りるだろうから、この雰囲気は解除される。だけど、その後も高千穂先輩ともこの雰囲気を引きずったまま淀屋橋まで行くのは辛い。


 ここで、「京阪電車って、久しぶりに乗りましたよ―」なんて言って、白井先輩から豆知識を引き出そうか。いや、今乗っている車両の系式すら知らないのに、その話を展開するのは危険な気がする。もっと無難な、例えば「今日はいい天気ですね」――いやいや、商談前のサラリーマンじゃあるまいし。


 うーん、と考え込んでいると、電車は競馬場のそばを通過して、宇治川と、木津川の赤いトラス橋を渡りきってしまった。そういえば、この辺も京阪の車庫と、ちょっと工場のようなものがある他にはずっと田んぼだったはずだけど、こちらでは何かの倉庫や、工場が建ち並んでいて、道をトラックが行き交うちょっとした工業団地のような所になっているようだ。


 もうここまでくれば白井先輩が降りるまで10分とないだろうし、諦めるか、と思って向かいの席に目を戻すと、ふと、白井先輩の本のタイトルが目に入る。

 『伊勢物語』――これだ。


 「そういえば、今日の会長さんの話、良かったですね。それこそ、白井先輩が今読んでらっしゃる、伊勢物語からの引用じゃありませんでした?」


 先輩は本から目を話すと、僕の方を向いた。


「ああ、それこそ青柳さんに勧められて読んでるんです」

「青柳さんって―― あ、そうか、会長さんのお名前でしたっけ」


 僕がそう返すと、高千穂先輩も会話に加わった。


「そういえば、私も勧められたなあ…… まあ、あんまりノンフィクションを読まないから、私には難しいかな、ってお断りしたけど」

「まあ、瑞穂だったら漫画版とかのほうがとっつきやすいかもしれないですね」


 普段であればこの発言もハハハ、と聞き流せるのだけど、今日ばかりはヒヤヒヤする。


 高千穂先輩は少し頬を膨らませて、応戦する。

「そういう花音でも、流石に古典文学となると難しくない? 『古典はちょっと苦手ですね』なんて、前の模試の時も言っていたじゃない」


 一方の白井先輩は余裕を見せながら、返す。

「問題を解くのと、鑑賞するのは違いますよ。試験は文法をチクチクと問われますから。解説なしだと確かにしんどいですけど、この本は現代文訳がついていますからなんとか読めますし。詩集みたいな感覚で読めますよ」

「そう言われても、授業以外で古典を読むなんて、私には出来ないなあ」

「まあ、伊勢物語みたいな雅やかな物語を瑞穂が読んでいたら気味が悪いといえばそうかもしれないですね」

「えっ、なんて?」

「いや、何も」

 高千穂先輩へそうぼそっと言うと、電車は樟葉駅に滑り込んだ。国鉄の駅は少し離れたところにあるようで、京阪の駅からは見えなかった。


 電車が樟葉を出ても、幸いなことに高千穂先輩と白井先輩の話は続いていた。おそらく件の国鉄信楽線のものだと思われる高架線をくぐって、電車は淀川の堤防沿いから少し外れる。


「それこそ、今日の『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』なんて、今から通る御殿山駅近辺ににあった、渚の院という別荘で読まれた歌ですね。そう考えると、割と古典って身近に感じられません?」


「確かに教科書に出てきたお話で行ったことのあるところが出てくるの親近感が湧くのはわかるかもだけど、そもそも和歌って恋心を歌ったものが多くない?」

「そもそも中世では和歌を読むという行為に告白とか、そういう性質がありますからね。モテる、モテないも歌作りの腕次第、みたいなところもありましたし」

「そこなんだよね。私、あんまりラブコメとかを読んでも共感することがないし、この人達面倒くさいなあ、って思うばかりなんだよ」

「古典とラブコメを同列に扱うのはいかがかと思いますけど……」


 白井先輩が困惑しているところに、僕が口を挟む。


「あ、でも僕も分かります。別れた女に未練タラタラだったり、やたらと恋心を伝えるにウジウジしていたりとかしますよね。なんでそんなみっともない事を文字に残して、あろうことか千年も残っているんだ! なんて思うことはありますよね―― まあ、たいてい古典の試験への当てつけなんですけども」


 高千穂先輩はうんうん、と頷く。一方の白井先輩は反論する。


「逆に『恋』というものの普遍性を今に残していて、それはそれで価値があると思いますけどね」


 なるほど。たしかに「占いによって今日の行き先を決める」みたいな、現代からすると信じられないような風習が書いている作品よりかは「たしかに共感できるな」、なんていう内容が多いのは、うなずけるところだ。


「言われてみれば確かに、共感は出来ますもんね」


 僕が白井先輩の発言に納得すると、先輩は続けて言いたいことがあるようだったけども、急にふと開きかけた口を閉じて、考え込むように黙り込んでしまった。「花音、どうしたの?」と高千穂先輩がちょっと不安そうに話しかけると、先輩は「ああ、大丈夫ですよ」と断る。


 白井先輩はカバンに本をしまって、こころなしか細い声でつぶやいた。


「まあ、『恋』なんて、私には共感したフリしか出来ないのが、なんとも残念ですが」


 その時、ちょうど、電車はすでに枚方市のプラットフォームに滑り込んでいた。白井先輩は頬をちょっと無理めに上げて、「それではごきげんよう」と席を立った。


    ○


 白井先輩が去ったあとのボックスシートには、外回り帰りであろうおじさんと二人向かい合わせに座る羽目になった。


 枚方市から先はなんと複々線になっているようだ。ただ、用地がないのか、急行線は地下にあるらしく、ずっとトンネルの中を走っている。


「花音、途中で黙っちゃった時、あまり元気がないというか、冴えていないと言うか、ぼーっとしているというか…… なんか悩み事でもあるのかなって感じだったね。君が『伊勢物語』の話をしなかったらちょっと重たい雰囲気のままだったよ」


 どうも、僕が思っていた『こっちでは、先輩同士は仲が悪いのかもしれない』というのは杞憂だったようで、やはり高千穂先輩も不思議に思っていたようだ。ただ、僕の目には明らかに高千穂先輩への不満が貯まっているようにしか見えなかったのだが、どうも先輩自身は白井先輩が不調であるがゆえの態度だと思っているらしい。


「……大変失礼ですが、僕が居ない間にケンカとかしてませんでした?」

「うーん、心当たりはないかなあ。あ、君の見舞いに一人勝手に行った件はあまりご納得いただいていなかったようだけども、『まあ、部員である以前に、シスターの一大事ですから仕方がないですよね』とは思ってくれているみたいで、昨日立ち話をしたときもそんなに気にしている感じはなかったなあ」


 てっきり、僕もその件を怒っているのだろう、と思ったのだが、どうも違うらしい。言われてみれば、その程度で腹を立てていれば高千穂先輩のお友達、なんて絶対務まるはずがない。


「最近天気も悪かったし、ほら、あの頭痛持ちだからちょっとしんどかったのかもね」


 どことなく腑に落ちないが、案外、原因は単純なところにあって、高千穂先輩の言っていることは正しいのかもしれない。

 ちょうど、電車は地上に出て、ちょうど、香里園駅を通過していた。


 ここから電車は線路が四本並ぶ複々線区間を走るようだ。

 内側が急行電車の線路で、外側が各駅停車の線路になっていて、急行や特急は通過待ちをせずとも普通列車を抜ける構造になっている。町並みもだんだんと郊外の彩りから都会の様相を呈してきて、守口市を通過すると住宅ではなくビルも目立つようになった。

 もともと、大阪は京都に比べれば都会だから、そこまで様変わり、といった印象はないけど、こころなしか人の住む家より、ビルの類のほうが多いように思える。


 車窓の向こうに見たこともないような――下手すると西新宿より立派かもしれない――超高層ビル群が見えてくると電車はカーブし、京橋駅に滑り込む。


 京橋に到着する間際、先輩に聞く。

「日本橋へはどうやって行くんですか?」


 僕の知っている限り、北浜から堺筋線に乗るのが一番早いはずだけども、もっと違うルートがあるかもしれない。


「そうだね、北浜で降りて、堺筋線が一番早いかな」

 このあたりは、あまり変わっていないらしい。見覚えのある地下線を走って、記憶よりかはホーム幅の広い北浜駅で特急電車を降りた。


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