第15話 祝杯の味
秋光の許可も得ず逃げるように専務室から出た尚哉は、足早にエレベーターの前まで移動すると立て続けに深呼吸をした。秋光が梨奈を物足りないと批判した声が頭の中で響き、じわじわと腹の底から怒りが滲み出していた。
しかし、大事なプレゼンを控え、個人的な感情に流されてミスを冒すことは許されず、尚哉は深呼吸を繰り返して怒りを散らし気持ちを切り換えた。
課長の佐伯と共に行ったプレゼンは予想以上に上手くいき、確かな手応えを感じた佐伯と尚哉は、その日の夜、これまでのお互いの労を労いながら前祝いの祝杯を上げた。
その後、宿泊先のホテルの部屋で一人になった尚哉の頭の中に、その時を待ち侘びていたかのように秋光が言い放った梨奈を批判する台詞が浮かび、祝杯の味が苦いものへ変わった。
その時、尚哉の中で、それまで抱いていた秋光についての印象が変わり、誤魔化しようのない負の感情が芽生えた。
出張から戻った尚哉は意図して秋光を避け、極力顔を合わさないように過ごしていた。だが、お盆休み前に行われたプロジェクトチームの会議が終わった後、秋光から声を掛けられた尚哉は秋光に連れられて専務室へ足を運んだ。
専務室の中へ入ると秋光はデスクに着き、尚哉はそれを待ってデスクの前へ立ち秋光と向かい合った。
「8月14日に都内のホテルで、美咲の高校時代の同窓会が行われる。美咲も出席する予定だ。終了予定時刻は21時となっているから、遅れずに迎えに行ってくれ」
「申し訳ありませんが、以前にもお話した通り、私には決まった相手がおります。ですから、そのお話はお断りさせていただきます」
美咲との結婚など、たとえ生まれ変わったとしても考えられそうになかった尚哉は、秋光から何を言われても受けるつもりはなく、はっきりと拒否の言葉を返した。
「私は、何も今すぐ君に同棲相手と手を切れと言うつもりはないんだ。そこまで狭量ではないからね。美咲との結婚式までに片を付けてくれれば、結婚前の女遊びには目を瞑ろう」
「私は、彼女と別れるつもりはありません」
「それは、美咲と結婚した後も付き合いを続けるという宣言かね」
「私には、美咲さんと結婚する意思はないということです」
なぜ自分の言葉は秋光に届かないのかと苛立たしく思いながら、尚哉は美咲とは結婚しないと言葉にして伝えた。
「どうやら君は、思い違いをしているようだ。君の父親は町工場に勤めているらしいね」
「そうですが……」
尚哉の父は大学を卒業後、町工場に技術者として就職し、それ以来ずっと勤め続けていた。
尚哉の父が勤める町工場は、単なる大手の下請けというわけではなく独自の技術を開発し、その技術力は海外からの注文も途絶えないほど優秀なものだった。
尚哉の父は、自分と年の近い町工場の社長と一緒に新たな技術の開発をし続けている、いわゆる技術屋で、何度も大手の企業から引き抜きの話が来ているにも拘わらず、自由でいたいという理由で今の町工場に留まり続けていた。
「君の立場では、美咲との結婚は本来は望むこと自体が難しいものだ。それでも、君に断るという選択肢が与えられていると本気で思っているのかね」
「美咲さんのお相手ならば、私より優れた者はいくらでもいると思うのですが、なぜ私なのでしょうか」
尚哉の父を引き合いに出し見下すような秋光の物言いに、尚哉は腹の底に怒りが溜まり始めているのを感じながら、反論の機会を窺うためにずっと気になっていたことを尋ねた。
「私は、かねてから美咲の相手には全ての面において優れている者をと思っていてね。確かに、君の言う通り、能力だけを見れば君より有能な者はいくらでもいる。しかし、学歴や容姿も兼ね備えた者となると、私の眼鏡にかなう者がなかなかいなくてね。その点、君は家柄には多少の不満はあるが、総合的に見れば及第点はやれるからね」
満足気に頷き、人を人とは思わない持論を展開する秋光に対し、尚哉ははっきりと嫌悪感を抱いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます