第14話 出張

 その後は、再び美咲から電話が入ることもなく、秋光も口を閉ざしたまま時間が過ぎて行った。だが、美咲と電話で話した内容が尚哉の記憶から薄れ、美咲からの電話はお嬢様の気紛れだったのだろうと尚哉が考えるようになった矢先、秋光から声を掛けられた。


「美咲から聞いたのだが、君は美咲を一週間も待たせたまま何の音沙汰もないということらしいが……」

「何のことでしょうか」


秋光から投げ掛けられた問いに尚哉は消えつつあった記憶を引き出し、美咲との電話での会話を瞬時に思い返してみたが、思い当たるものもなく美咲を敬遠する心が言葉を紡ぎ出していた。


「美咲から聞かされた時には半信半疑だったが、どうやら君は本当に女性の扱いは不慣れなようだ。まあ、今回は知らなかったようだから仕方ないが、本来ならば女性の側から連絡が入ったら男性は食事にでも誘うのがマナーというものだ。分かったら、今日にでも美咲に誘いの電話を入れなさい。いいね」


尚哉は、美咲からの電話に武骨者として対応したことで、秋光が尚哉の様子を窺っていたのだろうと咄嗟に判断した。そして、出した結論のままに尚哉へ諭すように話しながら命令を下していることに気が付いた。


「樫山専務のお嬢様は、私には過ぎた女性だということは重々承知しておりますが、私には心に決めた女性がいます。その女性とは、既に生活も共にしておりますし、大変申し訳ありませんが樫山専務のご期待に沿うことはできかねます」


このまま秋光の言いなりになっていたのでは美咲との結婚話が現実のものとなり、具体的に話を進められてしまうと危惧した尚哉は、梨奈の存在を明かし、美咲との結婚の可能性は微塵もないのだと伝えるために同棲の事実も告げた。


 そして、七月最後の金曜日の朝。梨奈に見送られていつものように出勤し、その日の仕事の準備をしていた尚哉へ課長の佐伯から急いでプレゼンの用意をするようにと声が掛かった。


 尚哉の直属の上司である佐伯は地元の大学を卒業後、東海地方の支社へ入社し、そこでの実力を買われて本社の課長へ抜擢された人物で、大学に在学中は四年間空手サークルで過ごしていた。年齢は30代後半のはずだったが、外見は実年齢よりも落ち着いて見えた。


その佐伯が担当していた案件が遅々として話が先へ進まず、プロジェクトチームの一員である尚哉へ相談を持ち掛けたことを切っ掛けに、それ以来、2人で組んで事に当たっていた。


 その日、九州地方に本社のある取引先の決定権を持つ重役が話を聞く用意があると担当者から連絡が入ったということで、佐伯と尚哉は大急ぎで出掛ける準備を整えていた。


慌ただしく総務部へ乗り物と宿泊先の手配を頼んでいた尚哉へ、思い掛けず秋光から呼び出しの連絡が入った。嫌な予感が胸を過ぎった尚哉だったが、出掛けるまでにそれ程の余裕がなかったこともあり、直ぐに秋光の待つ専務室へ向かった。


 中へ入ると、秋光と美咲が向かい合って応接セットに座っていた。長椅子に座っていた美咲の隣へ座るように秋光から勧められた尚哉だったが、出掛ける時間が迫っていたこともあり、秋光の勧めを断り応接セットの脇に立ったまま話を聞く体勢に入った。


「どうだね、新井。今日の美咲は、一段と綺麗だとは思わないかね」


秋光に話を振られた尚哉が改めて美咲へ目をやると、美咲は襟ぐりが大きく開きスカートの丈が短く、身体のラインを強調するようなワンピースにシースルーの上掛けを羽織り、何かを期待し顔を輝かせて尚哉を見ていた。


しかし、尚哉には秋光の意図するところが分からず、当たり障りのない返事を返すだけに留めた尚哉へ秋光が本題を告げた。


「若い時は、誰でも判断を誤るものだ。君の相手の女性について調べさせてもらったが、君の相手としては全然物足りない。その点、美咲なら……」

「申し訳ありませんが、これから出張へ出掛ける予定になっておりまして、時間ですので失礼させていただきます」


尚哉は、そうすることが当然だという態度で梨奈について調べたと言った秋光に驚くと同時に嫌悪感を覚え、梨奈を批判する秋光の言葉に反発して出張を理由に秋光の話を遮り専務室から出ようとした。


「待ちたまえ。今日の君の予定に出張も急ぎの案件もなかったはずだ」

「今朝ほど、先方から連絡が入り、今日はこれから佐伯課長と共に九州地方へ出掛けることになっておりますので、失礼致します」


尚哉の対応に口調を強め、暗に尚哉の予定は把握済みだと告げてきた秋光に、反発心を強めた尚哉は軽く頭を下げ視線を合わさないまま退室するための言葉を口にした。


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