第44話 クアドラ -9-
すべてがおぼろげであった。
分かっているのは、引きずられていることと、青い空が小さくなり、雲がねじまがり、太陽が四つに分裂していたことぐらいであった。
とめどなく流れ落ちる赤い血の量に比例して、体が重たくなってゆく気がした。
おかしいじゃないか。
血液が流れ落ちれば落ちるほど体重は軽くなるはずだ。
なのに、どうして僕は体を重く感じているのだろう?
意味が分からなかった。
いや、きっとそれさえもクアドラは分かっているのかもしれない。
だって、僕の過ごした六年間は彼女の掌の上で踊らされていた六年間だったのだから。
たぶん僕は、ずっと偽りの情報をジーンに見せられていたのだろう。
クアドラが見せたい姿だけを僕は追っていた。
僕はそれを丹念に拾い集め、そして彼女が用意した解答に辿り着いたのだ。
まるで人の用意した迷路を攻略させられる実験用のネズミのように……
まったく馬鹿げた話だ。
そういえば、僕のことをクアドラが認識している時点でおかしかったのだ。
僕の顔はあの頃のままじゃない。
小さいころとは違い頬の肉がとれ精悍な顔つきになったし、体つきだって変わった。
たぶん今は僕の方がクアドラよりも背が高いはずだし、声変わりだってしていた。
普通は僕のことをただの異端審問官だと思うはずだ。
でも彼女はなんのためらいもなく僕のことを「ユーリ」と呼んだ。
その時点で、気づくべきだった。
なにもかもが仕組まれていたのだ、と。
いや、もっと前に気づくべきだった。
ジーンが水に触れるのを嫌がっていた時点で。
……
遅すぎたんだ。……すべてが遅かった。
何もかも、遅すぎたんだ。
頭の奥が更にしびれ、少し眠くなってきた。
意識を段々とつなぎとめるのが難しくなってきたような気がした。
そして、太陽が四つの光で僕を照らしているのに、体中がどこか寒いのだ。
瞳に映るねじまき村の姿が更にぼやけてきた。
すると、不思議な映像が僕の瞳に映り込んできた。
道端にしゃがみ、何も言わず僕を凝視する野生児キャルがいたのだ。
キャルは黒いごわごわの髪で僕を見つめていた。
その後ろには頭の禿げた村長がいた。
村長はこの道の向かいに大声で何かを叫んでいた。
僕がそっちに視線をずらすと、ベンおじさんがニヤつきながら、ふかした芋を割り、口に放りこんでいた。あれはたぶん冬ごもりのための食料だ。
「ごはんの時間よ~」と叫ぶ母さんの声が聞こえた。
引きずられてゆく僕に向かってかがむようにして母さんは再び叫ぶ。
「ユーリ、もうお昼の時間よ。そこで遊んでないで早くいらっしゃい。冷めないうちに」
母さんはそう言い終わると、黒ずんだ廃材の中に消えてゆく。
これは幻覚か?
わからない。でも、何もかもが混ざり合っていた。
過去も現在も、恐らく未来さえ。
クアドラの声に似た耳鳴りが聞こえた。
『さてと、本当に何年ぶりなのかしら』
水流の音が聞こえた。
ねじまき水路の近くにまた連れてこられたのだと思った。
よく分からない。上手く視線を移動できない。
分かるのはクアドラの顔だけ。
四つに分かれた彼女の顔は、僕に近づいてくる。
銀色の髪が僕の顔にふりかかり、彼女は僕の腰のあたりに手を伸ばし、鞘から剣を抜き出すと、僕の右足のアキレス腱を素早く断ち切った。
「ぐああああ」痛みで思わず叫ぶ。
『これで、もう逃げられないでしょう? ユーリ』
それは悪魔のような声だった。
彼女は剣を手放し、光の首輪を消すと、仰向けになりのたうち回る僕に馬乗りになった。そして、僕の胸に手をあて、どこからか取り出した本を広げ、なにかを唱えはじめた。それは、たぶん、何らかの呪文であった。
四つに分裂したクアドラの目がとじられる。
僕の胸にあてられた彼女の手がにぶい赤紫の光を放っていた。
どこまでも禍々しい色の光を。
すると視線の先に、立ってこちらを見下ろす妹のフィーナが見えた。
「お兄ちゃん」とフィーナは言った。
すると、その声が呼び水となるように色んな記憶が走馬灯のように僕の頭を駆け抜ける。
狂人エウケソンを焼いた記憶。
司教様と話し合った記憶。
ラズロ・ラ・ズールに恐れおののいた記憶。
村を焼かれた記憶。
キャルが本を破り捨てた記憶。
ベンおじさんが軽口をたたいた記憶。
ライラが巨木で用を足す姿を見かけてしまった記憶。
母さんの料理をたべた記憶。
父さんと一緒に木を切った時の記憶。
フィーナが僕のウールのシャツの後ろを引っ張った記憶。
ここで終わるつもりか?
僕は何も知らず、何もわからないまま、すべてを終えるつもりか?
いやだ。絶対にいやだ。
そんなこと僕は受け入れることなどできない。
絶対に認めない。
戦え!
戦うんだユーリ!
ほんの少しの時間でいい。
動け、僕の体。動くんだ!
動けぇええええええええ!!
たぶん、それは本当に偶然できあがった状況だった。
ゴーレムであるジーンはすでにクアドラの黒いローブのポケットの中にあり、クアドラは呪文を詠唱するために目をとじ、そして彼女の一方の手は本をもち、そしてもう一方の手は僕の胸にあてられていた。
古来よりこのミッドランドには“神のいたずら”という諺がある。
それは、完全に予測可能の決まりきった状況であったとしても、最後までことの成り行きは分からず、思わぬところから、その予測は崩れてしまうこともある、という教訓をはらんだ戒めの諺であった。
未来は常に誰に向けてどう動くか分からないし、誰に向けて微笑むのかもわからない。
クアドラは、きっとこう予想していたに違いない。
僕の武器は剣のみで、僕が剣で攻撃しようとも鋼鉄化しさえすればダメージは受けない。
だから僕の攻撃など避けるまでもない。
たぶん、そう思っていたに違いない。
だからなのだろう。
僕の内ポケットから繰り出した手錠に、彼女の右手は拍子抜けするほどあっさりとかかった。
クアドラは眉をひそめ僕を見下ろしてきた。
今しかない。
僕は内ポケットに残った二つの手錠を彼女の腕を駆け上がるように次々とかけた。
クアドラは訳が分からないといった表情で「ユーリ……これは?」と尋ねてきた。
「すぐに分かるよクアドラ」と僕は返事した。
これは、魔力の移動をはかる聖具であった。
司教様は、いつかのクアドラと同じこと言った。
魔法とは魔の波動なのだ、と。
魔の波動は、その力によって生物や物に流し込み影響を及ぼすことができるそうだ。そして、司教様に言わせると、その逆も可能なのだそうだ。
つまり、魔の波動を流し込むだけではなく、流し込ませることもできるのだそうだ。
それが僕の聖具である手錠の効果であった。
僕の手錠は、魔の波動を強制的に流し込ませる奇跡を司る聖具で、つまり……クアドラの体内に流れる魔の力を奪う聖具であった。
普通の魔導士であれば、手錠を一つかけただけで魔が尽きてしまうだろう、と司教様は言った。
では、三つある全ての手錠をかけてしまいさえすれば、たとえクアドラでさえ、魔が尽きてしまうに違いない。僕はそう思った。
クアドラの体は震え始め「そんな馬鹿な」と言いながら僕に向かって突っ伏すように倒れ込んだ。
全身が震える僕は、さっきクアドラに放り投げられた剣を拾い、今度は僕が馬乗りになり、彼女の喉元に剣をつきつけた。
「終わりだ! クアドラ!」
クアドラは信じられない、といった顔つきで僕を見上げていた。
この瞬間を待っていたのだ。
僕は六年、この瞬間をただ待ち続けていたのだ。
口から僕の魂があふれ出すように声が飛び出した。
「言え! クアドラ言うんだ! 僕の妹をどこにやった! あの日何故村の皆を殺した!」
言葉が止まらなかった。
僕は真実を聞きたかった。
どうしてあれほどよくしてあげた村の皆を殺したのか。
なにがクアドラをそうさせたのだか。そしてなにより。
どうして僕を生かしたのか。
「言えええええええええ!
何故村の皆を殺したんだぁああああ!
何故だ!?
何故あんなことをしたぁあああ!
どうして…………
どうして…………
どうして僕を…………
どうして僕を生かしたんだ!
どうして僕だけを生かしたんだ!!
何故だ!? 答えろ、答えるんだ!
クアドラぁあああああああああああああああああああああ!」
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