第54話 謎の投手(前編)

 秩父第一高校。

 それが次の対戦相手なのだが。


 去年の夏。花崎実業の堀監督から手渡されたデータブックを参考に、相手校の対策を練るところだったが。


 データにはない選手が、1回戦を投げていた。それは吉田という名前の1年生だった。

 1年生なのに、すでにエースで9回を危なげなく投げて、失点が0。


 本来ならば、事前に偵察に行かせるべきだったが、そもそも秩父第一が勝つと思っていなかったし、対戦は数日後に迫っていた。


 ミーティングでは、データブックを元に対策を練るしかない。


「1年生なのに、9回無失点か。何者なんだ?」

 清原がいぶかしむように声を上げる。


「わかりません。まあ、ウチも潮崎さんが1年から投げてますから、あまり変わらないと思いますが」

 マネージャーの鹿取が答える。


「それより、要注意はキャッチャーかもしれません」


「キャッチャー? 上手いの?」

 怪我はまだ完治していないが、もうすぐ実戦復帰が出来そうな伊東が、同じ立場ということで関心を持つ中、鹿取が口を開く。


「伊東さんとは違ったタイプのキャッチャーですね。2年生の中嶋綾なかじまあやという選手です。リードが抜群に上手くて、強肩。それにデータをかなり重視するという噂です」

「謎の1年生ピッチャーに、強力な女房役か。こっちの戦力も調べられてるだろうな。ということは投手力で勝つチームか」


「そうですね。練習試合を含めて、ほとんど失点が0か1です」

 最近、ようやく心を開いてくれるようになり、距離感も近づいてくれているマネージャーの鹿取が応じる。


「関係ないっすよ。どうせあたしが得点なんて与えないっすから」

「相変わらずあんたは生意気なくらい強気だな。んなこと言ってると、足元救われるぞ」

 工藤の一言に、笘篠が睨むような眼光を向けていた。



 そんな中、ついに2回戦を迎えることになる。

 場所は越谷こしがや市民球場になった。

 中堅122メートル、両翼98メートルで、内野はクレー舗装、外野は天然芝、収容人数が10000人ほど。前回の球場よりも中堅が広い。


 そこに現れた秩父第一高校のユニフォームは、縦縞の、見栄えのいい洗練されたデザインだった。どこかメジャーリーグの球団を思わせるようなデザイン性が感じられた。


 それを見て、「カッコいい」とか「合併したらあのユニフォームを着たのか。着てみたかった」などと、呑気な声を上げている選手たち。


 だが、俺は対戦相手のピッチャーに注目する。

 データにない1年生。随分、小柄な選手だった。潮崎よりも小さく、身長が155センチもないと思われる。全体的に小さく、筋力もないように見えるのだ。


 それで、過酷な投手など務まるのだろうか。肩に負担がかかるポジションを任せていいとは思えないほどだった。


 そして、その疑問は、試合が始まると判明することになる。


 スタメンは以下のように決めた。


1番(一) 吉竹

2番(中) 羽生田

3番(右) 笘篠

4番(三) 清原

5番(遊) 石毛

6番(投) 工藤

7番(捕) 辻

8番(左) 平野

9番(二) 田辺


 前回の試合で、見事な演技でタイムリーを放った工藤を上げ、調子がいまいちという辻を下げ、ソフトボール経験者ながら打撃力が未知数の1年生、田辺を最後に持ってくる。羽生田は俊足を生かせると思い、2番にした。

 伊東と潮崎は、当然ながら怪我でベンチ入り。ちなみに、潮崎の怪我は幸いにも打撲だったため、しばらく休ませれば復帰は出来るだろう。佐々木は代打か、守備・代走要員だ。


 ついに試合が始まる。

 先攻は三塁側の我が校、後攻は一塁側の秩父第一。

 奇しくも同じ秩父市にある高校同士の対戦となる。


 そして、その注目の1年生ピッチャー、吉田希世乃きよのがマウンドに上がった。右投右打、サイドスローの投手。


 天候は晴れで風が穏やかな日だった。この「天候や風速」が重要なことに後ほど気づくことになる。


 1番の吉竹が左打席に入る。

 吉田という投手は、球種としては、100キロほどのストレート、80キロほどのカーブ、たまにシュートを投げるくらいで、別段、打てないようには見えなかったのだが。


 カウントを稼いだ後、決め球が来た。

 それが問題だった。


 球速にして、大体60~70キロの間くらい。非常に遅い。

 だが、打者の手元でふわふわと浮いているように見え、手元で沈んでいた。


(何だ、あれは)

 投手出身の俺でさえ、初見ではわからないほど微妙な変化をする球で、吉竹は空振り三振。


 戻ってきた彼女に感想を聞くと。

「わかりませんわ。手元で落ちました。何だかボールに回転がかかってないように見えましたけど」


 その一言で俺には思い浮かぶ球種が一つだけあった。

 その考えを確信に変えるため、次の羽生田の打席も見守る。


 結果としては同じだった。

 今度は初球からその球が来た。


 野球の投球において、投手は少なからずボールに回転をかけているものだが、そのボールは、ほとんど回転がかかっていないように見える。


 その上で、ゆらゆらと揺れて、打者の手元で不規則に落ちる軌道を描く。

(ナックルか)


 ナックルボール。これを使う投手はアメリカに多いが、肩に負担がかかることが多い投手の中では、最も肩への負担が少ない球種という。


 そういう意味では、小柄で非力そうに見える、この吉田という投手には合っているのだろう。


 だが、同時にそれは捕手の捕球能力が格段に優れていることをも意味する。

 ナックルボールは、不規則な変化をする「魔球」とも言われるボールで、投げている投手にさえ、変化の予測ができないという。


 原理としては、ほぼ無回転のボールの縫い目が空気抵抗を受け、ボールの後方にできる空気がいずれかの方向に引っ張られるからと言われている。縫い目と革の空気抵抗の差が不規則な変化を生み出すため、新しいボールの方が有利とも言われている。


 また、ナックルは天候に大きく左右される球とも言われる。無風や微風よりも多少風があった方が有利に働く。

 通常、そんなボールを受けるキャッチャーには、高度な捕球技術が求められ、それができない場合、キャッチャーは後逸が多くなるから、ナックルは投げにくいとされるのが一般的だ。


 様子を見ていると、そのキャッチャーの中嶋の捕球技術は、完璧だった。ウチの伊東にも劣らない、確実な捕球技術だ。予測がつかないほどの魔球のナックルを逸らすことなく、全球捕球していた。


 そして、この「魔球」こそが我が校に、大きな「壁」として立ち塞がることになる。


 打てないのだ。羽生田も決め球のナックルに三振。

 続く3番の笘篠。ボールを見極める能力に長けている彼女でさえ、かろうじて当てるのが精一杯らしく、しかもキャッチャーフライに終わっていた。


 初回から相手に翻弄される我が校。試合は淡々と続いていく。


 4回まで、四球はあったものの、ほぼ完璧に抑えられ、二塁すら踏めずに進む試合。


 それも、初回の3人くらいは色々な球種を投げていたが、それ以降、吉田はほとんどナックルしか投げなかった。


 つまり、投球のほとんどがナックルの「フルタイム・ナックルボーラー」と化しており、ある意味では非常に厄介だった。


 一方、我が校の先発は、高校初先発の工藤だったが、初回から3回までは危なげなく抑えていた。四球はあるものの、落ち着いているように見えた。


 ところが。


 4回裏。秩父第一は3番からの好打順。先頭の3番に四球を与えてノーアウト一塁。

 見たところ、相手チームは、こちらの戦力を調べてきているようで、ベンチにいた伊東に何気なく聞いてみると、


「工藤さんのこともよく調べてますね。恐らく速球を狙ってくると思います」

 とのコメントだった。


 そして、その通りになった。


 相手の4番は体格のいい3年生。工藤の得意な球であるムービングファストやフォークで追い込んでいたが、決め球に速球を使った。


 ノビのある直球で、それがインハイに切り込んでいく。おまけに彼女のストレートは、ムービングファストとほとんど変わらないフォームから繰り出される。

 が。


 鋭い打撃音と共に、打球はセンター方向に伸びていた。傍から見ていても、球威があるように見えた球だったが、それを物ともせずに打ち返していた。


 打球は強いライナー性の、低い軌道を描きながら、センターの頭上を襲う。センターの羽生田が懸命に下がり、フェンス際まで追いつき、ジャンプするものの。


 あと一歩というところで、そのグラブの上を通過し、バックスクリーンに直撃していた。

 一塁側スタンドから、大袈裟な歓声とブラスバンド演奏が放たれ、球場が波に飲まれたように、騒がしくなる。


 0-2。工藤の自信のある球を力で打ち返した、完璧なホームランだった。


 すかさず、俺はタイムを取り、佐々木を呼び、マウンドに向かわせる。

 キャッチャーの辻、内野陣も工藤の周りに集まる。


 戻ってきた、佐々木に聞いてみると。

「『あの野郎。あたしのマジの速球を力で打ち返しやがった。けど、同じ轍は踏まないっす。任せて下さいっす』だそうですよ」

 相変わらず、絶妙に上手い工藤の物真似をして、お茶面な笑顔を見せる佐々木に、思わず笑ってしまった。


 もっとも、エースの潮崎を出せない以上、交代するにしても羽生田しか選択肢はないし、球威でも変化球でも工藤には及ばない羽生田に今、替える予定はなかったのだが。


 その言葉通りに、工藤は後続を連続三振に切って取り、この回を終える。


 5回表。打順が一巡しても我が校は、未だにヒット1本すら打てていなかった。

 6番の工藤が四球で出塁するが、7番の辻、8番の平野が相次いで三振。


「先生。どうやったら打てるんですか、あんな球……」

 その平野が泣きそうな顔でベンチに戻ってきた。


 ベンチにいる部員の視線が俺に集中する。

 一応は、監督だから、こういう時にこそアドバイスをすべきであり、失敗は許されないのだが。


 俺には確固たる「打てる」というアドバイスはなかった。

 ただ、聞きかじった知識を披露する。


「ボールをよく見ることだな。ナックルってのは、どこに行くか、投げている本人ですらわからないんだ。つまり、今まで見てきたようにボール球が多い。四球を狙える。そして、ナックルボーラーってのは、大体、四球から崩れるものだ」


 あくまで経験則と、知識に頼るものだったが、そう言ったことで、彼女たちは一応は納得したような表情を見せてくれた。


 続く6回表。

 1番の吉竹からの好打順で、チャンスが来た。その吉竹が俺のアドバイス通りにボールをよく見て、四球を選んだのだ。


「ナイセン!」

 部員たちが叫ぶ中、俺はすかさずブロックサインを送り、盗塁を指示する。


 ナックルボーラーの弱点、それは球が遅いゆえに、盗塁が狙いやすい。


 ところが。

 初球から走った吉竹。キャッチャーの中嶋が遅いナックルを受け止めるが、そこから先が凄まじかった。


 素早く立ち上がり、まるで全身をバネのようにしならせ、下半身から伸び上がるようにスローイング。


 文字通りの「矢」のような返球が二塁ベースに向かって行った。


 滑り込む吉竹のタイミングは悪くなかったのだが。


「アウト!」

 塁審が右手を上げていた。


 恐るべきは、中嶋というこのキャッチャーだった。


 ピッチャーのナックルボーラー、吉田も凄いのだが、その吉田を最大限、生かしているのがこのキャッチャーの中嶋だった。


 ピッチャーとキャッチャーは表裏一体。野球においては、「夫婦」と表現されるくらいに重要で、息が合う方が上手くいく。


 最大の敵は「中嶋」だったのだ。

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