42 ボールペン・後

「えっ、今から七戸しちのへくんが来るの!?」

「うん、ごめん。駅の名前も言っちゃった」

「でもココの住所は言ってないだろ? そうしたら駅で迷子になるのか〜 なんかマヌケだな!」

「リクくん、黙って」


 話がややこしくなるからトウヤマは家に置いてきた。もちろん、スミレも。

 セナがつくであろう時間に駅まで迎えに行く旨を伝えると、「わかった」と短い返事が来た。


 アルコールも少しは抜けただろうか。

 今朝は南風だったけど、今は北風が吹いている。夏の夜道は涼しく、駅に着くころには酔いなど完全に冷めていた。


 雑踏の中でも、セナがいると一目瞭然だ。特別背が高い訳でも、奇抜な格好をしている訳でもないのに。

 歩き方とか、速度とか、他の通行人との距離感とか、まるでゲームの画面のように、うちの目はセナにオートフォーカスされるのだ。


「セナ、こっち」


 セナはいつもは背筋をピンと伸ばし、パリッとした服装で堂々としているけど、今日は背中を丸め、黒いスウェットのポケットに両手を入れていた。

 頬は少し紅潮している。目も赤く、まぶたは少し重たそうだった。きっとそれは、アルコールのせいだけではない。


「ハシバミさん、いるの」

「いないよ」


 カチカチカチカチ、なんだろう、何かの音がする。

 聴き慣れた音だけど、何の音かわからない。

 なんだかわからないが、その無機質な音がひどく恐ろしく感じる。


「二人で話そう、どこがいい? カフェか、公園か」

「ハシバミさんに会わせて欲しい」

「本気でつもり?」

「ちげーよ。うっかり一発くらいは殴っちゃうかもしれないけど、どうして今さらハシバミさんなのかわからねーんだよ。女に婚約者取られるとか、マジウケるよな」

「……女だからっていうのは、今は関係ない」

「だってそうだろ。セックスだってできないくせにさ、女同士で何が楽しいんだか。生産性なさすぎるだろ」


 怒りよりも先に来たのは、失望、ではなく、違和感。


「男女のつがいでも、子供が産めない夫婦だっているでしょ。生産性ってなんなの。流石に人間性疑うんだけど」

「俺はもともとこういう人間なんだよ。お前に好かれたくて隠してたの。あーあ、こんなことなら浮気した女とガキでも作っとけばよかった。そしたらこんな惨めな思いしないですんだのに」


 言葉の綾にしても、今のはひどい。

 けれど、セナと婚約解消しても気にしないようにわざと悪役を買っているのではないかと思ってしまう。

 うちはお人好しじゃないから、セナじゃなかったらこんな風には捉えないだろう。今まで知ってきたセナの人柄とあまりにかけ離れているから、そう思ってしまうのだ。


「しかも相手がハシバミさんとか、バカにされてるとしか思えない。婚約まで済ませてさ。親にも言ってあんのに、俺は一生バカにされるよ、女に女を取られた男って」

「本当にごめん」


 セナからの返事はない。

 カチカチカチカチ、音は鳴り続けている。


「とにかく、ハシバミさんに会わせて」

「スミレには何もしないって約束して」

「そのときはお前が盾になれよ。二ヶ月後の入籍を控えた俺との婚約を解消するほどハシバミさんのことが好きならできるだろ。それでハシバミさんが死んだらお前のせいだ。お前がハシバミさんを殺すんだ」


 支離滅裂だ。

 だけど、その通りでもあると思った。もしもの時はうちが盾になる。それが出来なかったら、セナに失礼だ。


「わかった。ついてきて」


 そう言って体を一八〇度回転させた時、

 ——カチカチカチという音が止んだ。


 ああ、刺されるのかな。

 反射的に振り向いたが、体に痛みが走ることはない。

 セナはうちの二歩後ろの位置に立ったまま何かを見つめている。その視線の先を追うと、家にいるはずのスミレがいた。


「七戸くん、私と話をしよう。二人で」

「スミレ、家で待っててって言ったよね?」

「環ちゃんとの話し合いは、後にしてほしい」


 スミレは、うちとセナの間に立った。

 うちよりも小さなはずの背中がなんだかたくましい。


「ハシバミさん、あんまり変わらないね」

「七戸くんはなんだかチャラくなったね。茶髪だし」

「この髪は海焼け。変わってないって言ったけど、嘘だわ。キツくなった」

「七戸くんは知らないと思うけど、私ものすごく卑屈で性格が悪いの」

「知ってるよ。人の婚約者を奪うようなやつだし。フツー身を引くだろ」

「無理だよ、環ちゃんがいっとう幸せになることが私の最優先事項だもの」


 対面し次第刃傷沙汰になるのではと思っていたけれど、流石に杞憂だったらしい。

 けれど一触即発な雰囲気は予想通りで、そこをうちが「まあまあ」と宥めるのも可笑しい気がして、結局口を挟めずにいた。

 その間にも話は進んでいく。


「とりあえず、私と話をしてもらってもいいかな。私と環ちゃんの二人で説得されても、ウザいだけでしょ?」

「ああ。説得されに来たわけじゃないし、お前と話をするのが目的だから」


 スミレがきびすを返すと、二人はそのまま歩き出した。

 家とは逆の方向に。


「ちょっとまってよ二人とも」

「環ちゃんはウチに戻ってて」

「で、でも」

「安心しろよ。本気でぶっ殺したりしねーし、いくらオレでも理性はあるからな」

「じゃあ、武器は置いてってよ」

「武器?」

「さっきからカチカチカチカチ、なんの音? ……怖いんだけど」


 セナは疑問符を浮かべた後、すぐに何かにひらめいたようにポケットから手を出した。

 そこには、ボールペンが握られていた。どこにでもあるボールペンだけど、「IOP」と書かれた付箋がセロハンテープで上から貼られている。

 ダイバーの聖地の一つ、伊豆Izu海洋Ocean公園Parkのボールペン。最後にIOPで潜ったのは半年以上前だが、借りたまま持って帰ってきていたのだろう。それをセナから受け取る。ボールペンは人肌に温かくなっていた。

 スミレとは違う、セナの温かい体温。


「これ、返しといて。俺はもう行かないから」


 その一言には、もう全ての答えが含まれているような気がした。

 きっと、もう二度とセナの体温を感じることはないだろう。


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