(5)
茉莉と別れた真紀は、校舎裏にある弓道場に向かう途中にある弓道部の部室に、いったん立ち寄る。
「たしか、この端っこのロッカーに……」
“マキとしての記憶”に従い、弓道部室内の右側7番目のロッカーを見ると、はたしてそこには「夏樹」の名札があった。
ポケットから取り出したキーで扉を開けると、中にはキチンと洗濯された道衣と紺色の袴、右手にはめる弓懸(ゆがけ)などが置いてある。
「“あの人”はソフトボール部だったらしいのですが──このあたりのファジィな“修正”っぷりは不思議ですね」
さて、厄違えの儀式で立場を交換した真紀と勇美だが、すでに皆さんもご承知の通り、純粋に立場「だけ」が入れ替わったわけではない。
たとえば、一番わかりやすいのは名前だろう。遠坂真紀(とおさかまさのり)は「夏樹勇美(なつきいさみ)」ではなく、「夏樹真紀(なつきまき)」となっている。逆も然り。
さらに言うなら、「夏樹神社の次女で、龍刻高校に通う16歳の少女」という大枠だけは一致しているものの、夏樹真紀と夏樹勇美は、外見はもちろん普段の言動から趣味嗜好に至るまで、大幅に異なる。
それでいて、不思議と周囲の人間もマキの行動を当然のものと受け止めているのだ(稀に軽い違和感を抱く者もいるが、それもすぐに忘れてしまう)。
それだけなら、「河比奈媛の神通力による催眠暗示みたいなもの」と考えられるが、じつは人々の意識だけでなく、物理的なモノ──今回のような部活の道具なども、キチンと夏樹真紀にふさわしいものが用意されているのは、不可解に一言に尽きる。
河比奈媛は「因果を歪める」と表現していたが……。
(──とは言え、何か困るってワケでもなく、むしろ好都合なんですけどね)
頭の中で呟きながら、手際良く弓道衣姿に着替える真紀。元のマサノリも高校時代に弓道部だったため手慣れたものだ。
女性特有の行灯袴も家の巫女装束ですでに慣れているし……。
「……っと、そう言えば、女子は胸当てを付けるんでしたっけ」
弓懸の隣りに置いてある革製のソレを、多少もたつきながら装着する。このヘンは、「夏樹勇美」も「遠坂真紀」も知らない事項なので、記憶の補完が甘いのかもしれない。
氏神の神通力の凄さと限界を同時に感じつつ、真紀は更衣室を出て射場に向かった。
「お、なんだ1年の、ええと──夏樹じゃないか! 随分早いな」
さすがに三学期早々に朝練に来る人もいないかと思ったのだが、ひとりだけ先客がいた。3年生の仲井部長だ。
「あけましておめでとうございます、仲井先輩。仲井先輩こそ、3年はこの時期、自由登校でしょう?」
「まぁな。もっとも、俺は推薦が取れてるから、受験勉強に躍起になる必要がないんでな。午前中は、ここでのんびり弓を引かせてもらって、午後は図書室で適当に自習してるのさ」
なるほど、そういうことらしい。
ともあれ、仲井はともかく、真紀の方は8時45分から授業がある(もっとも、今日は始業式だが)ので、雑談している暇はない。
早速、射法八節の基本を意識しつつ、たて続けに4射ばかり引く。
真紀の(「遠坂真紀」としての主観では)数年ぶりに引く弓だが、思ったより腕は鈍っていないようだ。あるいは、「夏樹真紀は普段から練習熱心」という“設定”なのかもしれない。
「へぇ~、凄いな。休み明け早々、皆中じゃないか。夏樹は中学の頃から弓道やってたのか?」
「いえ、始めたのは高校に入ってからです」
仲井の質問にも、嘘はついていない──もっとも、「遠坂真紀」は高校時代の3年間弓道を続け、3年の時は地区大会でも結構いい成績を残したのだが。
武道とは言え精神的な要素の大きい弓道だからこそ、その記憶や経験が活きているのだろう。これが、身体的運動能力の占める部分が大きい剣道などなら、また話は違ったはずだ。
実際、体毛が薄く肌がやや白くなったこと以外、体格などの身体的要素はほぼ変わっていないはずなのに、夏樹真紀となってから全身の筋力が幾分低下していることは、“彼女”も自覚していた。
* * *
8時25分の時点で更衣室で再度制服に着替え、早足で教室に入ると、ちょうど8時半の予鈴が鳴った。
「顔見知り」のクラスメイトに適当に挨拶をしながら、席に着く。
教師としての「マサノリ」は1年生とはほとんど接点がなかったはずなので、このクラスにいる人間とは実質ほぼ初対面のはずなのだが、正月に神社で茉莉と会った時同様、ごく自然に相手の名前と簡単な素性がわかるのだ。
そのせいか、誰ひとり、そこにいるのが「夏樹勇美」ではなく「夏樹真紀」であることをいぶかしむ者はいなかった。それを少しだけ寂しい事のように思いつつ、周囲との世間話で残り時間をつぶす。
そして、8時40分のチャイムとともに、1-Bの担任教師の吉乃晴花が教室に入ってきた。
「みんな、あけましておめでとう。欠席者は……うん、いないみたいね。じゃあ、ちょっと寒いけど頑張って大講堂まで移動してね」
教師として2年先輩の吉乃には、新米教師として色々面倒を見てもらっていたが、まさか担任として世話になるとは──と、内心ちょっと苦笑しながら、真紀もクラスメイト達に混ざって、大講堂へと向かう。
「新年、あけましておめでとうございます!」
という定番の挨拶から始まった「校長先生のお言葉」が退屈なのは、教師・生徒いずれの立場でも変わりはない。
不審を抱かれない程度に視線を壇上からさ迷わせた真紀は、ステージのすぐ脇の教師たちが並んで立っている列に遠坂勇美の姿を発見する。
「夏樹勇美」であった頃の彼女であれば、生欠伸を噛み殺して(もしくは半分居眠りして)聞いていたはずの校長の挨拶を、今の“彼”はそれなりに真面目くさった顔で耳を傾けているようだ。
とりあえず、無難に「遠坂先生」をやってくれてるコトに安堵して、真紀も校長の話に意識を戻す。
校長の話は、要約すると「新しいことにチャレンジするのを恐れるな」ということらしい。正論だが、だからと言って保守的な気風の強いこの地方で、その理想を実現できる気概のある人間がどれだけいるものか──と、真紀は、やや皮肉な想いを抱く。
(去年の秋の文化祭でも、ハードロックやメタル系バンドのエントリーは認められませんでしたし、模擬店も地元商店街とタイアップしたものしか企画を通さなかったのに、ねぇ)
こういうダブルスタンダードを、「新任の教師・遠坂真紀」は見て見ぬふりをできたのに、「1年生の女生徒・夏樹真紀」は看過できないあたり、“彼女”自身、女学生という立場の影響を精神的にも知らず知らず受けているのかもしれない。
* * *
始業式が終わり、教室でSHRが行われたのち、本日の授業は終了となった。
「マキちゃ~ん、よかったらいっしょに帰ろ」
隣のクラスから茉莉が呼びに来たので、周囲のクラスメイトに挨拶をしてから、真紀はコートを羽織り、鞄を持って教室を出る。
(それにしても「夏樹真紀」って、1-Bにあまり親しい子がいないんでしょうかね?)
いじめられたり、ハブにされてるという感じは全然ない。むしろ、ある種の敬意らしきものが男女問わずクラスメイトからは見てとれるのだが……。
“記憶”を探ってみても、“親友”とか“いつもの遊び仲間”的ポジションの友人に、まったく心あたりがないのだ。
「ん? どーしたの、マキちゃん?」
「いえ、他愛もないことなのですけれど……」
今抱いていた疑念を、なるべくソフトに茉莉に伝える。
「そうなんだぁ。うーん……でも、1-Bの人達の気持ちも、ちょっとわかる気がするな」
「え!? 私って、そんなに友達になりたくないタイプですか?」
驚く真紀に苦笑する茉莉。
「あ~、逆逆。真紀ちゃん、むしろ高嶺の花なんだよー」
要は、マサノリ自身の
委員長キャラと言うほど口うるさく出しゃばることはないが、世間的に見て「悪い」とされることはキッパリ拒絶し、丁寧で優しい口調ながら、きちんと筋道だてて理知的に会話する。
人の感情にはキチンと理解を示しつつも、自身はあまり情に流されることなく、冷静で良識的な判断を下す。
世間の流行をまったく知らないわけではないが、同年代の少女達と比べるとやや関心は薄く、どちらかと言うとパーマネントなものの方に心を惹かれる。
改めて茉莉にそう指摘されると、真紀としてはぐぅの音も出ない。
「──もしかして、私って、ものすごく“面白味のない女”なんでしょうか」
ごく自然に自分のことを“女”と表現する真紀。会話の途中だからかもしれないが、茉莉はもちろん、本人もそのことに何ら違和感を抱かずスルーしているあたり、もはや完全に今の“立場”を受け入れているようだ。
「そ、そんなコトないよ~。でも、マキちゃんのことをよく知らない人から見ると、やっぱり“優等生”ってイメージが強くて、敬遠しちゃうのかも」
茉莉のフォローもあまりフォローになっていない。
「それに、体育祭とか文化祭とかでは、随分クラスの人たちが頼りにしてたって聞いてるよ?」
「それは……ウチのクラス委員が頼り甲斐がなさすぎだからでしょう」
1-Bのクラス委員の磐田は生粋のお笑い芸人体質で、お祭り騒ぎの時のノリやリーダーシップは上々だが、真面目に地道に事を運ぶのにはまったくもって不向きな人材だ。
その結果、仕方なくクラス委員でもない真紀が、いろいろな行事の際は実務に手を貸す──ことになったらしい。おぼろげながら、そんな「記憶」があるのだ。
「──これって、いわゆる「都合のいい女」なのでは?」
「マキちゃんにそれだけ人望がある証拠だよ~」
本気で言ってるらしいのが茉莉のすごいところだろう。
真紀も自分がかなりお人好しの部類に入るという自覚はあったが、この子はそれを上回る純粋無垢な
「はぁ……まぁ、茉莉さんに愚痴っていても仕方ありませんね。それより、今日はどこかに寄ってから帰りますか?」
雁屋村へのバスは、昼間は1時間に1本しか来ない。次のバスが来るまではまだ30分以上あるし、それまで近くのショッピングモールなどで時間をつぶすのもいいだろう。
「あ、だったらさぁ、わたし、ちょっと行きたいお店があるんだけど、いいかなぁ」
「ええ、私は構いませんよ。あ、でも昼食は家でとる予定なので、飲食店は遠慮したいのですが」
「うん、わたしもお昼は家で食べるつもりだから……」
──などと言った口の舌の根が乾かぬうちに、ちゃっかり山陽堂のワッフルを手にしている女子高生ふたり。
「んぐんぐ……やっぱりココのオリジナルメニューは美味しいね、マキちゃん♪」
「くぅ~、自分の意思の弱さを恨みます。でも確かに美味しい♪」
元々下戸に近いこともあって、「遠坂真紀」は甘いものを口にする機会もそれなりに多かったが、年頃の女の子という立場になったことで、「いい歳した男が甘いものを」という自制心のタガが外れたのか、茉莉の誘い&甘い匂いの誘惑に抗しきれなかったようだ。
「それはともかく、茉莉さんはどこに行くつもりなのですか?」
「うん、あそこだよ」
と、茉莉が指差すのは、いかにも女の子向けなファンシーショップだ。
未だ少女趣味なところを多分に残す妻、慶子の付き添いで、「遠坂真紀」の時にも2度ほど入ったことはあるが、その都度に周囲の視線に居心地の悪い思いをしたのを思い出す。
「えーと、私にはちょっと合わないかと……」
「マキちゃんの好みは和風だもんね。でも、最近、あそこにもジャパネスクコーナーが増えたんだよ。かんざしとか根付とか巾着とか……」
「あら、そうなんですか?」
そう聞かされては“古風で和物好き”と設定された“乙女心”が微妙に疼いてしまう。
結果、茉莉とともに、そのファンシーショップ「ビッグキャット」に足を踏み入れた真紀は、新設されたジャパネスクコーナーはもとより、並べられた数多の可愛らしい小物類にも(男時代と真逆に)目を輝かせることになる。
バスの時間ギリギリまで吟味した挙句、江戸時代のお姫様のかんざしを思わせるバレッタと、卓上に飾る猫のマスコットを購入する真紀。
どうやら“彼女”は、“祖父”の逆転の発想に感化されたのか、開き直って今の立場に馴染むことを決めたようだ。
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