第197話 格の違い
「だっ、誰ですか!?」
あまりの衝撃と痛みにより、一瞬のうちに戦意を喪失してしまった柳太郎少年は、ウチの嫁さんを見上げながら、涙声で尋ねた。
「私?私は牡丹の母親よ!名前は百合華!あなたは誰?」
「ぼ……ぼくは…………ぼくはぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ…………!!!」
なんと今の今まで狂気の眼差しだった少年勇者が、号泣してしまった。
僕は何度このような光景を見てきただろうか。これまで魔王である牡丹ですら歯が立たないと思われた少年勇者が、嫁さんのワンパンで撃沈し、泣き崩れてしまったのだ。
滂沱の涙を流す少年を見て、少しだけ表情を和らげる嫁さんであったが、やはり厳しい口調のまま、しゃがみ込み、相手と同じ目線になって話しかけた。
「あなた今、本気で殺そうとしたでしょ。どうしてそんなことしたの?相手が自分と同じ”人”だってことが、わからないの?」
「ああぁぁぁん!ううああああああああぁぁぁぁぁぁんん!!!」
「泣いてちゃ、わかんないわよ。普通のことなら私もここまで怒らないけど、人を殺そうとする子がいたら全力で叱るわ。どう?わかった?」
柳太郎の手を取りながら、真剣な眼差しで告げるウチの嫁さん。泣き喚くばかりの少年は、彼女の手を離し、オスマンサスとホーリーのいる後方に走った。
そして、振り向きながら叫ぶ。
彼は再び敵意を剥き出しにした。
「ぼくは!ぼくは痛いのがイヤなのにっ!!!だから、たくさん練習してきたのにっ!!!」
「なかなか強情な子ね……」
子ども好きの嫁さんであるが、呆れたような声で呟く。さすがの彼女も彼には手を焼くようだ。
「もうそこには空間の切れ目がたっぷり出来上がっているんです!!ぼくの最大奥義がいつでも発動可能なんですよ!!」
「へぇーー」
「ぼくの空間を斬るチカラは、最初はただのハズレスキルだったんです!空間を斬っても物体が斬れるわけではないので、何の意味も無かったんですよ!だけど、切り込みを入れた空間の位置を入れ替えられることがわかってからは、神スキルに変わりました!ずっとそれを練習してきたんです!」
あまりにも悔しいのか、今までの苦労話を始める少年勇者。それは、自らの研究と努力の末にあみ出した必殺技が、絶対に破られることはないという自信の表れでもあった。
「さらに切り込みをたくさん作って連続で入れ替えれば、ぼくは瞬間移動と同時に敵を斬ることが可能なんです!発動した瞬間、そこにいる皆さんは、全員斬り刻まれるんですよ!!絶対に逃げられないんですよ!!!」
「ふーーん……」
この場に集った中では圧倒的な強者である柳太郎の説明を、まるで子どもの戯言と言わんばかりの態度で適当に聞き流す嫁さん。彼女は周囲を見渡しながら、いとも容易く言ってのけた。
「さっきから気になってたけど、空間の切り込みってコレのことね……こんなにいっぱい付けられちゃって……ちょっと邪魔だから消しちゃうか」
そう言って、何もないはずの虚空に向かって拳を突き出した。
音も無く、見た目にも変化は無く、ただ空を切られる彼女のパンチ。
その意味を理解できず、僕たちは黙って見守るだけであったが、ただ一人、柳太郎だけは目を大きく見開き、口を開けたまま愕然としていた。
「くっ……空間の切り込みが……消されちゃった…………」
自分の専売特許を完全に潰されてしまい、柳太郎は茫然と立ち尽くしている。
どうやら彼が言うところの”空間の切り込み”を、嫁さんが空間にパンチして衝撃を与えたことにより、消し去ってしまったらしい。
嫁さんの『次元斬』でもそうだが、この世界において、空間は、斬ってもすぐ元に戻ろうとする性質がある。カフェに描かれたラテアートが、カップを揺らしただけで溶け消えてしまうように、刺激を与えられた空間は斬られた部分を回復してしまったのだ。
「うん。やっぱりできた。空間って、叩くとこんなふうになるんだねぇーー。じゃあ、君、私が空間を斬るってことのお手本を見せてあげる」
嫁さんはこの日、デートがあったために剣を所持していない。そのため、すぐ後ろにいるベイローレルの手から剣を拝借した。そして、振り向きざま、横に薙ぎ払う。
シュンッ!!!
静寂なる一閃によって、背景となる空間ごと、柳太郎が斬られた。彼の肉体が断層面のようにズレて見える。
思えば、この絶対的最強スキルを僕とシャクヤ以外の人の前で披露するのは、初ではないだろうか。僕以外の面々が、彼女の起こした怪奇現象に絶叫した。
「なっ!なんですか、これは!!!ぼくが、ぼくの胴体が!空間ごと斬られています!!!」
「リュ!リュウタが斬られた!!!」
「きゃああぁぁぁぁっ!!!ぼっちゃんが!リュウタローぼっちゃんが!!!」
しかし、彼らが狼狽するうちに空間は元の位置に復元し、柳太郎の胴体も元に戻った。
ただし、彼が右手に持っていた剣のみ、その刀身を綺麗に切断され、根元から落ちていた。ウチの嫁さんが、剣だけを斬り、それ以外は元に戻したのだ。
「こうやって、私は斬りたいモノだけを斬ることができる。空間ごとね」
静かな口調で告げる嫁さん。格の違いをまざまざと見せつけられた柳太郎は、自信と戦意を完全に喪失し、膝から崩れ落ちてしまった。
「それと、君のお陰で今、新しいことを思いついちゃった。ちょっと見せてあげるわね」
ベイローレルに剣を返した嫁さんは、さらに新たな何かを会得してしまったらしく、柳太郎に向かって微笑する。そして、彼の方向に軽く手のひらを突き出した。
「こうやって空間に波動を与えると!」
これまた音も無い掌打である。
しかし、一人だけ彼女の起こした現象を理解できる柳太郎は、声を震わせて叫んだ。
「くっ!空間に!波が起こった!!!……うわっ!」
それを言うと同時に、彼は嫁さんに向かって吸い寄せられるように飛んできた。そのまま少年勇者は嫁さんに優しく抱きしめられてしまった。
「はいっ!捕まえた」
残念ながら視認することはできないが、おそらくこの現象を解説できるのは僕だけであろう。
彼女は、空間を叩き、波動を与えることで、空間の”歪み”を作り出した。それは、一般相対性理論によれば、重力場である。
具体的には、嫁さんから柳太郎に向かって、空間に加速度が生じたのだ。例えば、自動車や列車が前に向かって発進する時、乗っている人間は、慣性の法則に従って、後方への力を受ける。
柳太郎にしてみれば、前方から後方に向かって空間が加速した。すると、前方への重力が発生したのだ。これによって、彼は嫁さんに引き寄せられてしまった。
なんとウチの嫁さんは、牡丹にしか使えないと思われていた重力操作を部分的に再現してしまったのだ。
「んっ!んんんんっっ!!!」
彼女の胸にギュッと抱きしめられた柳太郎は、顔を赤くして、もがいた。
「さぁ、もう逃げられないわよ。おとなしくお姉さんとお話ししようか」
嫁さんはイタズラっぽい笑みを浮かべて彼をホールドする。僕自身、何度も経験があるが、ああなったら最後、決して嫁さんから逃れる術はない。
「どう?少しは反省した?もう人を殺さないって約束できる?」
彼女のこの言葉に、柳太郎は黙って頷いた。
それを見た嫁さんは、彼を離して、その両肩に手を置いた。
「じゃ、これで仲直りね」
「……オバサ……お姉さんは、どうしてそんなに強いんですか」
「私はね、ちょっと特別な勇者みたいなの」
「どうして魔王を庇うんですか」
「あの子は、普通の人間よ。君と同じで、こっちに呼ばれた普通の女の子。君は、同じ境遇に立たされた子がいても、平気で傷つけることができるの?」
「それは……イヤですけど……」
「じゃあ、ウチの娘と仲良くしてもらえるかな。同じ日本人同士、一緒に帰る方法を見つけよ?」
「………………」
戦う気力を失い、おとなしくなった柳太郎だが、うちしおれるように俯いた彼は、なかなか返事をしなかった。そこに僕が牡丹を連れて近づいた。
「なぁ、君、柳太郎くんだったな。こっちはウチの娘の牡丹だ」
「わたし、ぼたん」
牡丹は優しい声で自己紹介し、彼に手を差し出した。
握手を求めているのだ。
これに目を丸くする柳太郎。
「………………」
「な。この子は本当にいい子なんだ。本来、この世界に呼ばれた僕たちは、勇者も魔王も無いんだよ。一緒に協力して地球に帰ろう」
「………………」
牡丹の目を見つめながら愕然としている柳太郎であったが、次第に観念したように手を出した。少年勇者と幼女魔王が今、ゆっくりと手を繋ごうとする。
僕も嫁さんもそれを温かい目で見守った。
ところが、ここでサッと身を翻した柳太郎は、後ろに控えていたオスマンサスとホーリーの方に駆け寄ってしまった。
「やっ!やっぱり魔王と握手なんて変です!!だったら、この世界は何なんですか!最初から魔王を召喚しなければ、こんなことにならないのに!ぼくはただの被害者ですよ!ぼくが謝る必要はどこにもありません!!」
なかなかに強情だ。これまでの言動からして、相当に物覚えの良い子どものようだが、そのため、一度こうだと決め込んだ事柄が、実は間違いであったと聞かされても、頭と心の整理ができないのだろう。
可哀想に。小学生がたった一人で、このような世界に放り込まれたのだ。同情の余地は十分にある。しかし、こちらも娘が狙われている以上、毅然とした態度を示さねばなるまい。
「だったら、君はこれからどうするんだ。この子に危害を加えるつもりなら、こっちも全力で阻止するぞ。娘のためなら何だってするかもしれない。あまり大人を怒らせるなよ」
僕は厳しめに告げた。
彼は後退りしながら、負け惜しみのように叫んだ。
「こ、今回のところは諦めて帰ります!!でも、帝国に戻れば、もっとたくさんの仲間がいるんですよ!!どんなに強い勇者だって、何人もの勇者に囲まれれば、ひとたまりもないでしょうよ!!」
この発言には、僕たち全員が仰天した。
僕は慌てて問い返す。
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!帝国には『勇者』が何人もいるのか!?」
それには反応もせず、柳太郎は後方の二人に叫び、さっさと歩いて行った。
「行きましょう!!オスマンさん!ホーリーさん!」
「あ、あぁ……」
一部始終をキョトンとした目で見ていたオスマンサスは、こちらの方を見ながら気まずそうに柳太郎を追いかけて行った。ホーリーは、申し訳なさそうに僕たちに向かって深々とおじぎをし、去って行った。
「蓮くん、どうしよっか……私は追いかけなくてもいいと思ってるけど……」
嫁さんが意見を求めるので、僕も同意した。
「うん。こっちの説得にも応じないんだから、しょうがないよ。戦うつもりは、もう無いみたいだから、よしとしよう」
そして、僕はすぐそばにいる牡丹の頭を撫でた。
「牡丹、本当にいい子だったな。頭に来て、オトナに変身しそうになるのを必死に我慢してくれたんだろ」
「うん」
「背中をやられたみたいだけど、すぐに治してやるぞ……てか、もう治りかけてるな……さすがだ」
「えへへぇ」
牡丹はニコニコしている。もしも彼女が怒りを爆発させ、レベル60を超える大魔王クラスの力を引き出せば、その圧倒的な戦闘力で柳太郎を倒せた可能性はある。しかし、その場合、確実にこの一帯は甚大な被害を被ったはずである。
街中で勇者と魔王がバトルを繰り広げるという、あまりにも異常な事態は、ありがたくも一切の被害が無く、全く騒ぎにもならずに幕を閉じることができた。
「ベイローレル、もしかして、君が彼らと戦っていたのは、僕たちのためなんじゃないか?本当にすまない。心から感謝するよ」
僕から礼を述べると、ベイローレルは苦笑いして答えた。
「別にレンさんのためじゃありませんよ。ユリカさんとボタンちゃんのためです」
ツンデレというわけではなく本気で言っていた。しかし、その次には、胸に手を当てて深々と頭を下げた。
「先程は、命を救っていただき、ありがとうございました。よもや心臓を貫かれても、生き返ることができるとは……とんでもない体験をさせていただきました。ちょっと悔しいですが……騎士として、このご恩は一生涯、忘れることはありません」
さすがに彼からそこまで言われるとは思ってもいなかったので、僕の方が慌ててしまった。
「いやいや、こちらこそ本当にすまない。君が狙われたのは、僕たちと秘密を共有しているからだ。これは僕の責任だ。巻き込んでしまって、申し訳ない」
「いえ……そうであったとしても、ボク自身、自分が殺されるような事態になるとは、考えもしませんでした……今日のことは痛恨の極みです。こんなことで、『勇者』を名乗るなど…………」
珍しくも自信を失っているような顔つきで、下を向いてしまったベイローレル。彼のこんな様子は見たこともないし、見れるとも思っていなかった。
そんな彼の頭を宙に浮いた牡丹が優しく撫でた。
「ベイベイ、いいこ」
これに僕と嫁さんは噴き出しそうになるのを我慢し、ベイローレル本人は、なんとも言えない困ったような笑顔を見せた。
「まさか魔王に慰められる日が来ようとは。ボクらしくもない」
吹っ切れた彼は、穏やかな表情で僕と嫁さんに告げた。
「では、今日は非番だったのですが、仕事に行きます。ちょっとおかしな情報を手に入れましたので」
「ん?どんな情報だ?」
「さっきの帝国の勇者少年、妙なことを言ったんですよ。目の前で人が魔族になった、と」
「「えっ!?」」
僕と嫁さんは驚愕して叫んだ。
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