第110話 幼女の行方

魔族のいなくなった廃城に巣食う魔獣たち。

その殲滅は、嫁さんにとっては朝飯前だった。


「ちょっと私、今イラついてるから、優しくできないかも!」


そう言って、姿を消した嫁さんは、次々と魔獣を撃破して回った。宝珠システムのレーダーで確認すると、モンスターの生命反応が続々と消えていく。


いずれもレベル37から39の間であり、老猿ピクテスが”不良品”と言っていたとおり、レベル40超えが一般的な魔獣としては低レベルだった。


ところが、しばらくすると、レーダー反応の消えるペースが落ちてきた。嫁さんの反応は、あちこちをウロウロしている。そのうち、僕の気配を辿って、戻ってきた。


「蓮くーーーん、この中、複雑すぎて、よくわかんないよぉーー」


幼女魔王デルフィニウムを救えなかったことで意気消沈していた僕は、通常営業に戻って泣きついてきた嫁さんを見て苦笑し、逆になぜか元気になった。


「じゃあ、僕が一緒に行くから」


「うん……」


魔獣の気配を追える嫁さんは、敵の位置を把握できる。しかし、岩山をくり抜かれて建造された魔城は、非常に入り組んだ構造をしており、方向音痴の嫁さん一人では道に迷ってしまうのだった。


僕は、こういう時のためにレーダー魔法を応用して作成しておいた、オートマッピングの魔法を使った。半径1キロ圏内の周辺情報が三次元で表示される。これで、道に迷うことなく、魔獣を見つけ出せるだろう。


「なぁーーんだ。これがあれば、私一人でも行けたかも」


「百合ちゃんのペンダントにも、この機能、入れてあるよ」


「えっ!そうなの?」


「ちゃんと僕の説明を聞かないから……」


「電話ができるだけで満足しちゃった……」


「君のサポートになるように、いろんな機能を搭載したんだよ。何のためにアイコン画像を君に描いてもらったと思ってるんだ」


「あっ!あれ、もう出来てたの?ごめん。気づかなかった」


「コラ。僕があげた宝珠を起動してみなさい。たくさんアイコンが出てくるでしょうが」


「うん。まだ動かないって言ってたから」


「灰色になってるアイコンは、未実装だから動かない。だけど白く光ってるアイコンは、もう実装済みで、ちゃんと動くんだよ」


「ごめん……」


せっかく便利機能を搭載し、彼女にプレゼントしていた宝珠は、実はまだしっかりと理解されていなかった。


今さらながらに宝珠の機能を確認する嫁さん。

目の前に表示されたアイコンをタップすると、そこから水が出た。


「あっ、私たちが売ってる水道宝珠の機能も入ってたんだ」


「それだけじゃない。このアイコンが照明宝珠の機能で、こっちが着火宝珠の機能。さらに、百合ちゃんの最大の弱点を補うために、これも用意しておいたんだ」


僕が、あるアイコンをタップすると、嫁さんの前に圧縮空気の壁が現れた。


「蓮くん、私、こんなのあっても防御に使わないよ?」


「これは防御のために用意したんじゃない。空中戦のために用意したんだ」


「え?……あぁっ!!」


「空気の壁を足場にすれば、空中で方向転換することができるでしょ」


「なるほど!これがあれば、ジャンプのしすぎに脅えなくて済むね!」


「いや、それでも高度1万メートルは越えないようにしてよ。空気そのものが薄くなったら、この魔法は意味がないんだから」


「あぁ……そっか……うん。じゃあ、このマップと空気の壁を使って、もう一度、頑張ってくる!ちょっと待ってて!」


新しいアイテムの使い方を知った嫁さんは、再び元気になって一人で魔獣を倒しに向かった。


しかも、今度は岩山の空洞から外に出て、空中に出現させた透明の壁を使い、狙いの空洞へ直接飛び込んで行った。確かにこの方法なら、いちいち入り組んだ魔城の内部を移動する手間が省ける。


着々と魔獣を撃破していく嫁さんをレーダーで確認しつつ、僕は待ち時間で連絡を済ませることにした。


宝珠システムから通話機能を起動する。着信した相手は、僕の連絡を待っており、すぐに繋がった。


『……レ……レンか?』


いささか緊張した声が聞こえてきた。”女剣侠”ローズである。僕は、彼女に連絡用の携帯端末宝珠を渡しておいたのだ。


「ローズ、待たせたね」


『な……なんか、不思議な感じだな。この電話というのは……遠く離れているのにレンの声が聞こえてくるなんて』


「ん?なんだか、ローズ、緊張してないか?」


『は、はぁ!?べ、別に緊張などしてないぞ!それより、そっちはどうなんだ!無事に済んだのか?』


「一応は無事だ。でも、作戦は失敗に終わったよ。魔王には逃げられてしまった」


『そうか……まぁ、もともとが無謀すぎる作戦だったんだ。何事もなかっただけでも良しとすべきだろう』


「報告したいことが山ほどあるんだけど、とりあえず、こっちに来てくれ。今から、ここの地点情報をそっちの端末に送る。場所はやはり調査依頼のあった山岳地帯だ。約束どおり、僕のクルマを使っていいぞ」


『ああ!そのつもりだったから、既にクルマに乗り込んで、途中まで来てるぞ!』


「え……来てるのか……」


『あっ、レーダーとやらに光る点が現れた!ここに行けばいいのか?』


「ああ、でも、ゆっくり来てくれ。まだ百合ちゃんが残りの魔獣を撃破中なんだ。今すぐでは危険だ」


『何を言ってるんだ。だったら、あたしも手伝うよ。じゃ、待っててくれ』


明るい声で通話を切るローズ。


彼女が調査依頼に向かうのを制止するため、僕が彼女に提案したのが、クルマを貸してあげることだった。これがあれば、目的地まで徒歩で3日かかるところを半日で行くことができる。


魔王を生け捕りにできた場合、それを運ぶための手段として、自動車を使おうと思っていたのだ。


クルマに惚れ込んでいるいるローズは二つ返事で引き受けてくれた。僕たちの作戦を聞いたローズとダチュラは、口を開けたまま唖然としていたが、それを可能にする力を嫁さんが有していることに理解を示してくれた。そして、僕から宝珠を受け取り、連絡を待っていたのだ。


ローズが到着するまでに魔獣を一掃しておきたい。そう思ってレーダーを確認すると、嫁さんの反応以外が全て消えていた。


上空をジャンプで伝って、僕のいる会議室の空洞に戻ってくる嫁さん。


意外なこともあるものだ。たとえ地図アプリがあったところで、それでも道に迷うのがウチの嫁さんなのだ。きっとまた、泣き言を言ってくると思っていた。それが、3Dマップひとつで、方向音痴を克服できたというのだろうか。


「百合ちゃん、お疲れ様。よくマップがあるだけで、道に迷わなかったね」


「うん。気配を感知できるからね」


「なるほど」


「それよりも蓮くん……これ…………私、気づいたんだけど…………」


彼女は何やら、深刻そうな声を出し、僕が送ったペンダントを手に取って凝視している。いったい、何に気づいたというのだろうか。


「これって!もう、スマホだよね!!」


満面の笑みで、宣言する嫁さん。

一瞬、心配してしまった僕は、呆れながら言った。


「あぁ……まぁ……そうかもね……」


「ラインはできないの!?」


「……ラインていうか……メッセージは送れるよ。ほら」


そう言って、僕は嫁さんの宝珠に適当なメッセージを送った。

すると、嫁さんが躍り上がるように喜んだ。


「スマホだぁーーー!!!!」


「……あまり意識してなかったけど、確かに魔法で作ったスマホに近い代物だね。本家と比べるのが申し訳ないほど低スペックだけど」


「すごい!!すごいすごいすごい!!!私の旦那が!私の旦那様が!!スマホ作っちゃったぁっ!!!!」


「いや、ほんと……システム構築とはまた違う分野として、情報通信の仕組みを一から作り上げるのは、とんでもなく大変だったよ。まぁ、どうせ理解してはくれないんだろうけど……」


「どうしよ!どうしよ!!今の私、たぶん目がハートマークだよ!!!これで異世界ライフがもっと楽しく…………たの……し…く………」


本当に目の中にハートマークが浮かんでいそうなほど喜んでいた嫁さんだったが、急に声のトーンが下がった。そこから、まるで急降下するようにテンションが落ち、いっきにドンヨリしてしまった。


「……私……ほんとにバカだ…………もっとちゃんと考えていれば、これをマオちゃんに渡すことだってできたのに……そうすれば……もっとお話しすることだってできたのに……」


嘆きの言葉を呟きながら、涙を零す嫁さん。

それを見て、僕は胸が締めつけられた。


「百合ちゃん、悔やんでも仕方がない。次の行動を考えよう。まだ僕たちにはできることがある。この城の中を探索して、マオの情報を集めるんだ」


この言葉を聞くと、嫁さんは目を大きく開いて顔を上げた。


「……うん!そだね!私が泣いてもしょうがない!」


涙を拭いた嫁さんを連れて、僕はマップを確認しながら、魔城の中を探索した。


魔族の様子から察するに、おそらくデルフィニウムには、最も住みやすく居心地の良い部屋が用意されていたに違いない。そう推測し、最上階から探してみることにした。


すると、他の部屋と比べて、とりわけ豪華な飾り付けが施された一室があった。広さもあり、大きなベッドと大きな机がある。家具については、移転先で新しい物が用意されているのか、ほとんど置き去りにされていた。


「ここが魔王の部屋だとしても、おかしくないね」


僕が推察すると、嫁さんも感想を述べた。


「飾り付けは豪勢だけど、趣味は最悪だね」


彼女の言うとおり、飾り付けは、禍々しいデザインになっており、いかにも魔族の統領の部屋、という印象である。


「……確かに、とても子ども部屋とは言い難いね。おもちゃの一つも無い」


「こんなところに1年近くもいたのかな……あの子……」


そう言う嫁さんは、また暗い顔になった。


少しでもデルフィニウム本人のことを知るため、僕は部屋中を物色してみた。何か一つでもいい。彼女の手掛かりになる物があれば、幸いだ。


しかし、めぼしい物は見つからなかった。書類のような物もあったが、大した情報は得られなかった。さすがに機密情報に当たるものを放置はしていないようだ。


すると、嫁さんは部屋の隣にある、ガラクタ置き場のような場所を探りはじめた。


魔王の部屋のすぐ近くにある、ゴミのような物が山積していた場所だ。こういう場所を何の迷いもなく、素手で手探りするのだから、さすがは家事全般を一手に引き受けてくれている専業主婦である。


「……あっ!蓮くん!これ!!」


急に嫁さんが声を上げた。

そばに行って確認すると、それは子ども服だった。


「これ、日本の服か!」


「この世界に来た時に着てた服かな?だとしたら、他にも持ち物があるかも!」


「探そう!」


僕も一緒になって、ゴミ山を漁った。

すると、奥からカバンのような物が見つかった。

カバンは、ファスナーで開け閉めする構造になっていた。


「こ……これは……この世界のモノじゃないな……」


「うん……」


期待と不安を同時に抱え、僕と嫁さんは、そのカバンを開けてみた。中には、小さなタオルや、布切れ、ビニール袋、子どもの服と下着が小さく丸めるように畳まれたものが入っていた。嫁さんが叫ぶように言った。


「これ!幼稚園……ううん、保育園に行くときのカバンじゃない?」


「てことは……保育園に通う最中か、保育園にいる時に召喚されたのか!」


「このビニール、たぶん汚れ物入れだと思う。空っぽってことは、登園中に召喚されたのかも」


「なるほど。そのとおりだ」


「替えのオムツが無いってことは、もうオムツは卒業してたのかも……」


そんなふうに想像する嫁さんは、また泣きそうな声になっている。

僕はさらに詳しく中身を探る。

カバンの底には、雑に扱われたためか、クシャクシャに折れ曲がってしまったノートが一冊入っていた。


表紙を見ると、保育園の連絡帳だった。

そして、名前が書いてある。


――栗森くりもり牡丹ぼたん――


「くりもり……ぼたん……?……これが、あの子の本当の名前?」


「おそらく、そうだ。これを読めば、あの子が、いつの時代から来たのかもわかるだろう」


不思議と緊張してきた僕は、震える手つきでページを開こうとする。まごついている僕の横で、嫁さんが、ふと疑問を呈した。


「……あれ?でも、どうして子どものカバンにこんな大事な物が入ってるんだろ?普通は、こういう連絡帳って親御さんが持ってるものだよね?」


「え……?そうなのか?」


「たぶん……少なくとも、子どもが小さい頃は、こんなところに入れないんじゃないかな?」


「うーーん……まぁ、そこは気にしてもしょうがない。むしろ入っててくれて、今はありがとうだよ」


「そだね」


僕は連絡帳を開く。

まずは記述のある最後のページを見た。

そこには、僕たちが召喚されたはずの日付から、一週間前の日付が書かれていた。これより後ろのページは、全て白紙である。


「僕たちより、一週間前に召喚されている。マオが魔族に発見されたのは、この世界の1年前。やはり、この世界と僕たちの世界とでは、時間の流れる速度が違うんだ」


「え?え?どういうこと?」


「あとで詳しく説明してあげるよ」


「う……うん……」


僕は、デルフィニウム――いや、栗森牡丹の手掛かりを探すため、改めて最初のページから読み進めることにした。嫁さんと肩を寄せ合い、一緒に読む。


保育園の先生から、親御さんへ、牡丹の一日の様子が記載されており、その報告内容に対して、母親の返事が書き込まれている。そうしたことが、毎日続けられているのだ。


担当している保育士は、熱心な人物のようで、牡丹の保育園での過ごし方や心配な点など、実によく観察されていて、詳細な報告がされていた。対する母親の返事は実に淡白である。筆不精なのだろうか。


牡丹は、好き嫌いなく何でも食べて、活発な女の子らしい。むしろ活発過ぎて、時々、男の子の友達を泣かせてしまう時があるらしく、保育士が心配している。どことなく、嫁さんの幼い頃の話を聞いた時と印象がカブった。


「百合ちゃんも、小さい時、こんな感じだったんじゃない?」


「えぇーーそうかなーー?うーーん……でも、そうかも」


嫁さんは微笑を浮かべた。

初めの頃は、こうして笑顔で読んでいた。


ところが、読み進んでいくうちに、だんだんと様子が変わってきた。

牡丹が急に、おとなくしくなったのだ。


初めは年頃の女の子らしく、少しマセてきたのだと認識されていた。しかし、表情そのものが、どことなく暗い印象になった、と保育士は気づきはじめた。


やがて、このような記述が出てきた。


『着替えの最中、脇腹のあたりにアザが出来ていることに気づきました。うっかり怪我をさせてしまったのだとしたら、申し訳ありません。以後、気をつけて参ります』


これだけなら、特に何の疑問も抱くことはなかっただろう。しかし、一週間後には、このように書かれていた。


『本日は、背中に数ヶ所アザがありました。先週のこともあり、細心の注意を払っていたつもりでございます。もしかしたらですが、家の中で、何か怪我をされていることはありませんでしょうか。仮の話で申し訳ありませんが、よくご注意してみてくださいませ』


これを読んだ嫁さんは、訝しむようにように呟いた。


「蓮くん……これって……」


「うん……でも、だとしたら、これは直接、親に知らせてはマズいんじゃないかな……いや、ただの素人意見だけど……」


栗森牡丹は親から虐待を受けている。

僕たちは、そう推測した。

そして、それを裏付けるように、さらに数日後には、こう記されていた。


『本日は、朝から腕に火傷の跡がありました。ご家庭で何かありましたでしょうか?心配でなりません』


嫁さんが震える声で叫んだ。


「これ、どう考えても、そうだよ!」


「うん……」


僕自身も不快感を覚えながら、緊張する手つきでページを進めた。そして、先程の一週間後に、次のような簡潔な書き込みがあった。


『先日の件は、私の勘違いだったようです。申し訳ありません』


「え……これはどういうこと?」


「こんなおかしな連絡は無い。おそらく親御さんと直接何かを話したのかもしれない。しかし、事を荒立てると、かえって牡丹のためにならないと判断し、児童相談所に連絡して、そちらに任せることにした、ということじゃないか?」


「えぇぇ…………」


嫁さんは絶望したような顔になった。そこから先は、ありきたりな連絡事項が続いていき、最後のページとなった。


「これは……たぶん……何も解決していない……あの子は、きっと親から……」


やるせない気持ちで、僕は独り言のように呟く。すると、カバンの中を覗いていた嫁さんが、悲しそうにこう言った。


「このカバンの中ね……初めて見た時、雑だな、って思ったんだ……最初は魔族が荒らしたんだと思ってた……でも、そうじゃなかったんだ……」


彼女は、少しずつ涙声になりながら、話を続けた。


「だって、この小さなタオルも、ちゃんと洗われていない……何日も使い古されてるタオルだよ……保育園の先生に親御さんがちゃんと返事してるの、ちょっとしか無かった……」


「百合ちゃん……」


カバンを持つ嫁さんの手が震えている。


「蓮くん、私、胸が張り裂けそうだよ……あの子を殴ったのは、お父さんなの……?お母さんなの……?」


「わからない……この連絡帳からでは、家庭環境までは見えてこないから……」


現在判明している正直な結論を僕が伝えると、嫁さんの感情は頂点に達した。


「あんまりだよっ!!!!!」


それは、声というより衝撃波だった。震える声が、大気を振動させ、岩山全体を大きく揺るがした。目の前で火山が噴火したのかと錯覚するほどだった。


「親から虐待を受けて!辛い思いをして!きっと自分がどうすればいいのかもわからなくて!なのに次は、こんな世界に呼ばれて、たった一人で森の中を彷徨ってたなんて!3歳の女の子が!!そして、魔族の世話になって、今は魔王にされてる!!こんな!こんな、ひどいこと!!あっていいわけがない!!!!!!」


轟音のような叫び声を上げながら、嫁さんは号泣しだした。体をワナワナと震わせ、怒りに我を忘れている。


僕は初めて目の当たりにした。

レベル150の嫁さんが、本気で怒り狂った姿を。


この世の恐怖を全て一身に集めたかのような、凄まじすぎる畏怖。人間が絶対に刃向ってはいけない天罰の雷。これは、もはや神の怒りと言っても過言ではない。


この子が自分の愛する嫁さんだという認識がなければ、僕は最初の一瞬で、恐怖のあまり卒倒していただろう。


気配を全開放することは、街中では絶対にしない方がいい、と嫁さん自身が言っていた。今、彼女は、怒りのあまり、それを無意識にやっているのだ。そして、この衝撃は、精神的なものだけでなく、物理的にも周囲にショックを与えていた。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……


大地震が起こったように、岩山の魔城が激しく揺れている。このまま嫁さんを放っておけば、岩山が崩れてしまうのではないかと心配するほどの揺れだ。


「百合ちゃん!百合ちゃん!!」


必死に呼びかけるが、嫁さんは全く平常に戻らない。


「ヤだよ!!私!こんな現実、耐えられない!!!」


栗森牡丹の悲惨な人生に嫁さんは感情移入してしまい、自分のことのように苦悶している。その結果、自分の感情すら制御できなくなっていた。


「落ち着いて!落ち着くんだ!百合ちゃん!!岩山が崩れてしまう!!」


「落ちつけないよ!今も牡丹ちゃんは、魔族と一緒にいる!人間を信じられずに魔族を信じてるんだよ!!そんなの!そんなの悲しすぎるよ!!」


涙を流し、腕を軽く振りながら叫ぶ嫁さん。

その右手が岩の壁を少しだけ、かすめた。


バキッン!!

 ピシピシピシィィィ!!!


ほんの少し触れただけの壁が大きな音を立てて抉れ、そこから周囲に深い亀裂が生じた。


「あっ!」


それを見て、驚く僕と悲痛な顔になる嫁さん。


「もうヤだ!こんな力あったって!!マオちゃんを!牡丹ちゃんを助けてあげられなかったら意味が無い!!私は何をやってるの!?どうしてもっと、うまくやれなかったの!?」


「君だけのせいじゃない!もう一度、作戦を練りなおそう!だから、落ち着いて!!」


「蓮くん!私!自分が許せないよ!!」


嫁さんは、今度は自分の膝を叩いた。彼女自身の足にダメージが無い代わりに、膝立ちしていた地面に衝撃が全て伝導する。そのため、彼女の足元の岩肌に深々と亀裂が走った。


ビキビキィィッ!!!


「あっ…………!」


ここでやっと嫁さんが声を詰まらせた。

すぐそばにいる僕にも危険が及ぶと判断したのだ。


「蓮くん……また私……力を制御できなくなっちゃったみたい……」


その声は、今までと同じように震えているが、怒りのためだけでなく、自分の力への恐怖も含まれていた。僕は、身の危険を感じて焦りつつも、彼女のために平静を保って語った。


「討伐隊の時、初めてモンスターに囲まれた時と同じだ。百合ちゃん、とにかく落ち着いて。ゆっくりと深呼吸するんだ」


「わかってる……わかってるけど、怒りの感情が抑えられない……こんなの初めてだよ……」


嫁さんはまだ体全体を震わせている。彼女のこんな状態は、この世界に来て以来、見たことがない。


周囲に及ぶ威圧感はずっと継続しており、岩山は絶えず振動している。このままでは、本当に魔城が崩れ、二人とも生き埋めになってしまうかもしれない。


まさか、魔王の居城だった場所にやって来て、このような形で生命の危機が訪れるとは、予想だにしなかった。こうなれば、嫁さんを落ち着けるためにできることを全てやるしかない。


僕は、嫁さんを抱きしめた。


「大丈夫だ。僕がついてるから」


「まっ……!待って!蓮くん!今の私に触らない方がいいよ!何が起こるか、わかんないから!私、今、ほんとに力が制御できてないんだよ!」


レベル150とレベル16。


約10倍のレベル差の夫婦が抱き合った。いや、正確に言うと、嫁さんは、自分の力を警戒して指一本、動かしていない。タガの外れた彼女のフルパワーの前には、僕の存在など、風の前の塵に等しい。それを最も恐れているのは、嫁さん自身だ。


「蓮くん……やめて……ほんとにお願い……今の私、ちょっと指を動かしただけで、物を壊しちゃいそうなんだよ。私を置いて、外に逃げてよ……」


「ダメだ。こんな君を置いていけない」


「ヤだよ!私は何があっても死なないけど、蓮くんは死んじゃうよ!蓮くんにハグされてるのに、全然、力が落ち着かない!もう私は、ダメなんだよ!」


「僕が離れたら、君はもっと泣いて、もっと暴走するだろ」


「それ、当たってるけど、もういいよぉ!このままじゃ、蓮くんが死んじゃうよぉぉぉぉぉ!!」


嫁さんの嘆きと共鳴するかのように、振動を続けていた岩山がさらに激しく揺れた。このままでは、空洞だらけの岩山は本当に耐えられない。


正直言って、甘く見ていた。嫁さんが抱え込んでいる力が、これほど危ういものだったとは。レベル150という、人間の領分を遥かに超越した力が、ひとたび感情が爆発するだけで、ここまで制御の利かなくなるものだったとは。


ここで僕は考えた。


このまま嫁さんが力を暴走させ、自分で制御することができなくなるくらいなら、いっそこんな力は失ってしまった方がいいのではないか、と。彼女の力に頼れなくなるのは、あまりにも痛手だ。しかし、それは後で考えるしかない。今は、嫁さんの心と体が第一だ、と。


そして、そのための方法を僕は既に知っている。

ここまで考えが及ぶと、僕は自然と行動を開始していた。


僕は、嫁さんにキスをした。


「……んっ…………!」


驚いた嫁さんは、呼吸を止めた。


この世界に来てから初めての口づけであり、お互いに若返ってからのファーストキスだった。


岩山の空洞に差し込む満月の明かりが二人を淡く照らした。

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