第87話 一文無し

ラージャグリハ王国の国境の町に、八部衆の一人、ティグリスはいた。


彼は、白金蓮の魔法によって、土を凝縮して固められた小さな山に埋め込まれていた。顔だけが地面に向かうように出ており、首を動かすこともできない。封印されてから数日間、このままの状態が続いていた。


この地域では雨季でなければ、ほとんど雨が降らないため、全く身動きのできない彼は、飲まず食わずで過ごしていた。これがあと数日続けば、間違いなく脱水症状で死んでしまうだろう。


そのことを悟ったティグリスは、今は無理に体を動かすことも、意味もなく叫ぶこともしていなかった。


ただ、時を待っていた。

いったいどんな時をか。

それは、ある可能性を期待してのことだ。


そして、ある日の明け方頃、ついに声が聞こえた。


「うーーん。ティグリスぅ……ニャーーんでこんなバカなことしちゃったミャー?」


それは頭上から聞こえた。

自分を封じている小山の上に猫が立っているのだ。

ティグリスは口元だけ笑顔になった。


「フェーリスか……いいところに来てくれたぜ。オレの力でも脱出できねぇんだ。ちょっとこの山を壊してくれよ」


「無茶言うなミャー。キミが破壊できないものをウチが破壊できるはずないミャー」


「そんなことはねぇ。オレは今、身動き一つ取れねぇから、力を十分に発揮できねぇだけなんだ。お前はパワータイプじゃねぇが、それでもフルパワーでやってくれれば、簡単に壊せるはずだ」


「うーーん。でも残念だったミャー。ウチ、今はここにいないミャー」


「なっ!お前、猫の伝令か!」


「そうミャー。こっち向けないから気づかなかったミャーね」


これまでティグリスは、フェーリス本人と話しているつもりだったが、実際は彼女の魔法による猫通信だった。


「ちっ!だったら、誰でもいい!近くにいるヤツに救助に来るよう言ってくれ」


「キミの状況は、もう報告済みミャー。そしたら、『ピクテス』様が、”殺さずに生かしているのは、どう考えても人間の罠だから、助けない”って決められたミャー」


「なっ!なんだとぉ!!」


「自業自得ミャー。勝手に人間に攻撃を仕掛けて、しかも負けて、マヌケもいいところミャー」


「それについては、何も言い訳しねぇ!戻ったら罰は受けるし、落とし前はつける!だからこの山を何とかしてくれ!」


「それは無理だと言ったミャー。とりあえず、伝令だけ伝えるミャー。八部衆全員に招集命令が出たミャー。そしてティグリスには、”もしも命が助かったら、魔王様の城まで来い”ってことミャー」


「いや、助けろよ!この人でなし!」


「ウチ、人じゃないから、どうでもいいミャー」


「だったらよ!せめて水をくれねぇか!飲まず食わずで死にそうなんだ!」


「いやいや、猫ちゃんにそんな力はないミャー」


「なんでもいいから頼むぜ!」


「うーーん………………あっ!そうだミャー♪」


何事か考え込んでいたフェーリスは、楽しそうな声を上げた。すると、しばらくした後にティグリスの顔の近くに液体が流れてきた。一瞬、歓喜するティグリスだったが、そう思ったのも束の間、彼の鼻に強烈な刺激臭が訪れた。


「うわっ!!くさっ!!!フェーリス!てめぇ!!何してやがる!!!」


「なんでもいい、って言うからぁーー♪たっぷりあげるミャー♪」


頭の上から流れてきたのは、猫の小便だった。


「ふざけんじゃねぇ!!!てめぇ!次会ったら殺すぞ!!!」


「こーーんな面白い状況になってるんだから、もう少しゆっくりして来いミャー」


「こんのやろうっ!!!」


ティグリスは吠えるが、声に力がこもらない。

するとこの時、少し離れた場所から、何やら人間たちの騒いでいる声が聞こえてきた。早朝であるにも関わらず、数人の騎士が大声で話していたのだ。


「その二人のハンターは、”めおとハンター”と自ら名乗ったんだな!」


「え……えぇ……そうなんですが……」


「そして、そのまま国境を越えていった。間違いないな!」


「は、はい……」


「よし、行くぞ!お前たち!!」


「「はい!!」」


荒々しい声で情報の確認を取った騎士は、自分の部下に号令を掛けて出発しようとした。ところが、今まで質問を受けていた騎士がそれを呼び止めた。


「お、お待ちください!ホーソーン部隊長!今、我々のライラック部隊長が療養中で、指揮を執れる人がいないのです!どうか、お力添えを!」


「今は、国家を揺るがす極悪人を追跡中なのだ!!そんなことで私の足を止めるな!戦後処理など、些末なことは自分たちで何とかしなさい!!」


「いや、しかし物資も何も……」


「行くぞ!!」


騎士は要望もロクに聞かず、問答無用で馬を駆った。

それは、王国騎士団第六部隊の部隊長ホーソーンだった。


彼に質問攻めされた上、要望をはねのけられてしまったのは第五部隊の第一大隊長だった。白金蓮からティグリス封印の件について説明を受けた人物である。


そのホーソーン部隊長が国境の門を通り過ぎたのを見たフェーリスは、嬉しそうな声を発した。


「なんだか、また面白そうなことになってきたミャー♪ティグリス、キミも面白いものを見せてくれたお礼に、少しは助けになれるように考えてみるミャー」


「うるせぇ!!!お前の声なんか聞きたくもねぇ!!!」




――さて、そんなことが国境で起きていたことは、僕、白金蓮が知る由もない。


僕と嫁さんがマオという幼女と出会い、逃げられてから、数日が経過していた。


あの後、僕たちは当初の目的を果たそうと、ハンターギルド本部の副本部長、老紳士のカンファーさんに会うことにし、夕方に接近しようと試みた。


しかし、カンファーさんは人通りの激しい道を使って帰宅するため、ちょうどよく声を掛けるタイミングが見つからなかった。家の中に押しかけようとも考えたが、あまりに失礼な気がするため、その案は見送った。


そうしているうちに3日ほど過ぎてしまったのだ。


子ども達のたまり場だった場所で毎晩、野宿したため、宿泊代は掛からなかったが、子ども達に食糧は分けてあげた。その結果、ついに所持金がゼロになった。


「もう後が無くなった。こうなると、相手に失礼とか言ってられないな。今日はカンファーさんの家に乗り込もう。仕事を融通してもらえるように直談判するしかない」


僕は、嫁さんに決意を表明した。

すると、彼女はそれに返事をせず、ある方向を指差した。


「蓮くん、あれ……」


その方角を見ると、一匹の猫がこちらの方を向いて、屋根の上を行ったり来たりしている。


「やっと来たか」


僕はそう言って、子ども達から離れ、猫に近づいた。


「遅かったじゃないか。フェーリス」


「ごめんミャー。こんな隅っこにいるとは思わなかったから、見つけるのに苦労したミャー」


猫から聞こえてくる声は、まさしく八部衆の一人、猫の魔族フェーリスだった。


「なんだ?人間のことは何でもお見通しじゃなかったのか?」


「この街にも猫の友達はたくさんいるミャー。けど、いくらなんでも、その全てをウチが把握するなんて無理ミャー」


「なるほど。監視カメラがいくらあっても、それをチェックする目は二つだけってことか」


「よくわからニャいけど、そういうことミャー」


「……ところで、この前と語尾が違う気がするんだが」


「今日は”ミャー”の気分なんだミャー」


「自由だな……」


「それで、約束のことニャんだけど……」


「うん。どうなった?」


「もう少し待ってくれミャー。まだこっちの準備が整わないミャー」


「わかった。準備ができたら、声を掛けてくれ」


「ありがとミャー」


用件が済んだところで、立ち去ろうとする猫だったが、そこに屋根に登った嫁さんが現れ、サッと猫を抱きかかえて降りてきた。


「よっと、ね、フェーリスちゃん、一つ聞きたいことがあるんだけど」


「なんだミャー?」


「マオっていう、小さな女の子を知らない?」


「マオ?……知らないミャーねぇーー」


嫁さんは、猫を撫でながら再質問した。


「よーーし、よしよしよしよしよしよし……ね、本当に知らない?」


「んんんんん……この子のご機嫌取っても無意味ミャー♪ウチは関係ニャいんだから……まぁ、でもどっちみち知らないミャー。むしろ、誰のこと言ってるミャー」


言葉とは裏腹に、なぜか文字どおりの猫なで声で、気持ち良さそうに答えるフェーリス。


「ううん。何でも知ってるフェーリスちゃんなら、わかるかもと思って聞いてみただけ」


「残念だったミャーね。ウチも何でも知ってるわけじゃないミャー」


「そっか。引き止めてごめんね」


そう言って、嫁さんは屋根に猫を戻してあげた。


「あっ!あとキミたちも気をつけるミャー。そのうち、強いヤツがこの街に来るミャー」


「……なんだ?それは魔族か?」


「それは、会ってからのお楽しみミャー。では、またミャー!」


言いたいことだけを言って、フェーリスの通信媒体となった猫は、今度こそ去っていった。その姿が見えなくなってから、僕と嫁さんは話をした。


「いやいや……なんの忠告にもなってないだろうが。あれだけじゃ……」


「今度フェーリスちゃんが来たら猫を捕まえてくれ、って言われたから、そうしたけど、さっきのでよかったの?」


「うん。あれで十分だよ。ありがとう。それにあいつの能力も万能じゃないってことがわかった。これは朗報だ」


「マオちゃんのこと知らない、って言うのも嘘じゃなさそうだよ」


「マオは、あいつの仲間というわけではないのか……」


「あれからマオちゃん、全然来てくれないけど、私、すごく気になるんだ。あの子のこと……」


「百合ちゃん、僕はマオに会った時、すごく違和感を感じたんだ。それが何か、って言われると、まだよくわからないんだけど、とんでもなく重大な何かを見落としている気がする」


「重大な何か?」


「うん……なんというか……何かが、おかしかったんだ。でも、どこがおかしかったのかをハッキリと見出せない。こんな、もどかしい感覚は久しぶりなんだけど……百合ちゃんは何か気づかなかった?」


「蓮くんにわからないものを、私がわかるはずもないと思うよ」


「それもそうか……」


「そこ、すぐ納得しないでよ!」


この時、僕が見落としていた”重大な何か”とは、僕たち夫婦にとって価値観が変わってしまうほどの事柄なのだが、残念なことに、この時点では僕は気づくことができなかった。おそらくは、次にマオに会った時、それは判明することであろう。


僕と嫁さんは子ども達の集まっているところに戻り、時が過ぎるのを待った。

保存していた食糧も、ついに底を尽きた。



そして、夕方になった。

午後5時を過ぎると、ハンターギルド本部は日中の業務を終え、ほとんどの職員は帰宅を始める。現代日本のように残業をする職員は、数えるほどしかいなかった。


定刻どおり、副本部長のカンファーさんが本部から出てきた。僕と嫁さんは、それを密かに追いかける。やはりこの日も大通りを主に使って帰宅するため、怪しまれずに声を掛けることはできなかった。


カンファーさんの自宅は、大きめながらも質素な佇まいで、小さな庭のある二階建ての屋敷だった。そこに息子さん夫婦と孫たちによる三世帯家族が住んでいるようだ。


僕たちのような”お尋ね者”が訪問すれば、本人だけでなく、ご家族にも迷惑を掛けてしまうだろう。ゆえに、僕はどうしても二の足を踏んでいたのだ。


「蓮くんって律儀だよねーー」


「当然のことでしょ。こういうことはね、正攻法じゃないといけないんだ」


「でもこういう時、物語の主人公なら、相手の家にドカドカ上がり込んで、多少のイザコザがありつつも味方になってもらうもんじゃない?」


「それはドラマだからだよ。普通は、相手から失礼なことや迷惑なことをされたら、嫌悪感を持つもんだ。一度、芽生えた負の感情を覆すなんて、そうそう、できることじゃない」


「だから、ドラマなんだろうけどね」


「相手に味方になってもらうためには、まず、最大限に礼を尽くすのが基本だよ。社会は、そうやって成り立っているんだから」


「とはいっても、もう一文無しだから」


「うん。手段を選んでいる場合ではなくなってしまった。多少の失礼は大目に見てもらって、僕たちの話を聞いてもらうしかない。ここは、夫婦そろって、正面から乗り込むよ」


「りょ!」


僕と嫁さんは、カンファーさんの自宅の庭に入り、玄関の前に立った。

そして、少し緊張しながら、僕は扉をノックしようと腕を伸ばす。

と、ここで嫁さんが急に僕の腕を掴んだ。


「蓮くん、待って!」


「え」


「帰ってきた!」


「え、誰が?」


僕は後ろに振り返って、通りに目を向けた。

しかし、誰も歩いてくる様子は無かった。


「違うよ。シャクヤちゃんだよ!この街にシャクヤちゃんの気配が戻ってきた!」

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