第85話 盗人少年とその仲間たち

「ね、スタンプ。他のお友達も呼んであげて」


嫁さんは、捕まえた盗人少年に微笑みながら言った。

驚くスタンプ少年。


「えっ!」


「すぐそこにみんな隠れてるでしょ?私たち怒らないから、呼んであげて」


「…………」


優しく語りかけてくれる嫁さんの顔を黙って見続けるスタンプ。

やがて、路地の曲がり角に向かって、彼は叫んだ。


「おーーい!この人たちは大丈夫だ!出てきていいぞ!」


すると、その方角から、6人の少年少女たちが姿を現した。


「こ……こんなにいたのか……」


僕は唖然とした。盗みを働く子ども達が、こうして仲間になっているのだろうか。彼らを迎え、嫁さんがさらに語りかける。


「みんな、どこに住んでるの?お父さんお母さんは?」


彼らの中で一番の年長者に見えるスタンプが、代表して答えた。


「おれたちは、表通りにある修道院に住んでいるんだ。みんな親がいねぇから、シスターがおれたちを置いてくれてる」


「だったら、どうしてお金を盗もうとするの?」


「置いてくれてるだけだから、飯もロクに食わせてもらってないんだ」


「え……」


驚いた嫁さんが僕の方を見た。

ちょうどその時、子ども達のお腹が一斉にグゥゥッと鳴った。

それに呼応するように僕は答える。


「さすがに僕もわからないな……財政難なのか、それとも修道院だから質素な生活を送っているのか、身寄りのない子どもを住まわせてるくらいだから、慈善事業の精神はあるみたいだけど、子どもが飢えてるのは、酷な話だな」


「そうだね……ねぇ、蓮くん……どうにかできないかな?」


「え……」


嫁さんから難題を振られ、当惑する僕。

気づけば、子ども達も全員、僕の方をガン見していた。


これは本当に困った。今、僕の手元には銀貨10枚しかない。嫁さんと二人だけであっても3日くらいしか生活できない計算なのだ。しかも王国から追われる立場であり、ベナレスにおいてもお金を稼げる保証が無いのだ。


「百合ちゃん……それじゃ、僕たちの生活が……」


「節約すれば、なんとかならない?」


やはりこうなるか。僕たち夫婦の身の安全が最優先、と家族会議で決めたはずだが、心優しい嫁さんが、お腹を空かせた子どもを発見して、放っておけるわけがないのだ。


困惑しながら僕は考えを巡らせた。申し訳ないことだが、一人の男として、嫁さんを飢えさせてまで、赤の他人の子どもを助けようという心は、すぐに生じなかった。そして、やっと結論を導き出した僕は、こう答えた。


「よし、ではスタンプ、これを持って、市場で食べ物を買ってきてくれないか」


僕は、スタンプに銀貨4枚を渡した。


「え、こんなに?」


驚くスタンプに僕は説明を続けた。


「実は、僕たち夫婦は、訳あって騎士から追われているんだ。だから、顔を見せられない僕たちの代わりに食べ物を買ってきてほしい。その駄賃として、君たちの分も一緒に買ってかまわない。つまり、これは”お使い”だ」


「う、うん」


「できることなら、安くてたくさん食べられる方がいい。そういうのは、君たちの方が詳しいだろ?そのお金で僕たちの二日分の食糧を買ってくるんだ」


「そんなに要るのか?」


「ああ、このお姉さんは、めちゃくちゃ食うからな。それでも一日で食べきっちゃうんだよ」


「蓮くん、そういう余計なことは言わないの」


嫁さんが横槍を入れてきたが、お構いなしに僕はスタンプに確認を取った。


「そろそろ市場が開かれる頃だろう。どうだ。これは正当な仕事だ。できるか?」


「うん。大丈夫だ。いいもん買ってきてやるよ」


「よし。じゃあ、頼んだぞ!」


「わかった。おまえたち、行くぞ!」


スタンプは、男女1名ずつの子どもを手伝いとして連れて行った。

彼らを見送ると、嫁さんが僕に囁いた。


「なんだかんだで、蓮くんも優しいよね」


「違うよ。たまたま利害が一致しただけだ」


「ふふ、そういうことにしといてあげる」


残った年少の4人の子どもと嫁さんは、しばらく話をしていた。子ども相手では、大した話題も出ないだろうと思ったが、本当に他愛もない話だった。


1時間ほど待っていると、スタンプと2人の子どもが、大荷物を持って帰ってきた。大量の食糧が大袋3つにドッサリと入っていた。


「すごいな。こんなに買えたのか。これなら三日分くらいになりそうだ」


「どうだい!おれたち、市場で売られているもんには、いつも目を光らせてるから、詳しいんだぜ!」


「目を光らせて何をしていたのかは、問題だがな……」


想定以上の働きに、皮肉を言いながらも喜ぶ僕だったが、嫁さんも彼らを大いに称賛した。


「やるじゃない!スタンプ!偉いわよ!」


「まっ……まあね!」


嫁さんから褒められたスタンプは、頬を赤くして照れた。どうやら、この少年、ウチの嫁さんが綺麗なもんだから、デレているようだ。このマセガキめ、これなら扱いやすいじゃないか。


僕と嫁さんは、子ども達7人と座を囲んで食事を取った。と言っても、椅子もないので、その辺に転がっているものを適当に持ってきて座っただけである。


久しぶりにお腹いっぱいにご飯を食べることができたのか、子ども達は嬉しそうに明るく笑っていた。こうして、屋外で子どもの喜ぶ顔を見ながら食事をしていると、困窮する現状を忘れてしまいそうだった。


「こんなのもアリだね」


よく食べる嫁さんが満面の笑みで言った。

だが、そのうち、何か気になることができたらしく、食事のペースが落ちてきた。

僕が疑問に思っていると、嫁さんはスタンプに一言、尋ねた。


「ね、スタンプ、他にもお友達がいるんじゃない?」


「え?ああ、いるよ。『マオ』って言うんだ。時々、街の外から遊びに来るんだ」


「そう……」


そして、何かを考えていた嫁さんが僕に耳打ちしてきた。


「蓮くん、ちょっと私、席を外すね。その後、気配を消して戻ってくるから」


「え?」


いったいどういうつもりなのか、全くわからない僕は、すぐに聞き返したが、嫁さんはサッサと歩いて行ってしまった。


「…………?」


僕は彼女の狙いがよくわからないまま、しばらく黙って食事を進めていた。僕自身も子どもは嫌いではないのだが、こうして見知らぬ子ども達と一緒にいても、何を話していいのか思いつかない。


そこで、はしゃいでいる子ども達をよそに、他のところに目を向けていると、何やら蠢くものが路地の陰に見えた。


よく観察すれば、それは物陰からこちらを窺う一人の幼女だった。


なんとなくデジャヴを感じたが、それよりも、その幼女が羨ましそうにこちらを見つめているので、僕はスタンプに聞いた。


「なぁ、スタンプ。あの子は、知り合いか?」


「え?……あっ!マオじゃないか!どうしたんだ、そんなところで?こっちに来いよ!」


スタンプが幼女を呼んだ。先程、『マオ』と言っていた、もう一人の友達のようだ。


「きっとレンとユリカがいたから、恥ずかしくて来れなかったんだよ」


別の少女が、幼女の気持ちを代弁した。


「バカだなぁ。早くしないとメシが無くなっちゃうぞ。マオ、来いよ!」


他の少年も呼んだ。

実際には、大人二人の三日分の食糧があるのだから、無くなることはない。


「まったく、しょうがないなぁ……」


結局のところ、ブツブツとそう言ったスタンプが迎えに行き、幼女の手を取って、こちらまで連れてきた。


それは、4歳くらいの幼女だった。


長い栗色の髪をしており、頭には大きめの帽子を被っている。なんとなくだが、その帽子には見覚えがなくもない。服装はシンプルだが、他の子ども達と比べると、生地の質感などが全く違う。それなりの家庭で育てられているのだと推測できた。


「『マオ』って言うんだね。僕は、蓮って言うんだ。よろしくね」


僕は、優しく語りかけた。

よく見ると、このマオと言う幼女は、先程から僕に対してチラチラと視線を合わせてきていた。かなり興味を持たれているようだ。


「……レン?」


マオが、かわいらしい声で聞き返してきた。


「うん。蓮だよ。よかったら、こっちにおいで」


じっと僕の目を見てくるマオに、僕は思わず、そう言った。すると、パァッと顔を輝かせたマオが素早い動作でこちらに走ってきた。そして、僕の横にちょこんと座った。お互いの体が少し接触するくらいの位置だ。


「やっば!この子、かわいい!」


僕の耳元で、嫁さんの小さな呟きが聞こえた。

気配を消して、既に戻ってきていたのだ。どうやら、マオが僕たちを警戒して、隠れていたのに気づき、嫁さんは姿を消したのだろう。だが、それならば、なぜ僕をここに残したのだろうか。イマイチ嫁さんの意図をはかりかねる。


「ほら、マオ、これうまいぞ」


「いや、こっちがうまいぞ」


「ええ、これがおいしいんだよ」


子ども達が、それぞれマオにおススメの食材を渡そうとした。マオはそれを順番にもらい、とてもおいしそうに食べた。一口一口に、とてつもない感動を味わっているように見える。


不思議な感じだった。この育ちの良さそうな幼女が、なぜ”質より量”という考えのもと、大量購入してきた食糧を、こんなにもおいしそうに食べるのか。この子は、いったいどこの子なのだろうか。


疑問はありつつも、うまそうに食べ続けるマオを見ていると、とても幸せな気持ちになってしまい、気づけば彼女が完食するまで見守っていた。


しかも、時折、食べながら、こちらの顔をチラチラ窺ってくるのだ。何がきっかけになったのかは知らないが、小さな幼女からモテるというのは悪い気がしない。もちろんロリ的な意味ではなくだ。


食べ終わったマオは、満足そうにゲップをした。

それがまた愛くるしかった。


全員が満腹になったのを見届けた僕は、そろそろ次のことに取り掛かりたいと思い、立ち上がった。


「スタンプ、残りの食糧を隠しておきたいんだが、どこかいい所は知らないか?」


「だったら、ここがいいよ」


スタンプは、袋小路のすぐ横にある木造の小屋の壁に手を掛けた。

すると、その一部の板が簡単に外れた。

中に入ると、誰も使用していない倉庫の裏だった。


「ここ、おれたちが、秘密のお宝の隠し場所にしているんだ。レンたちには、特別に使わせてやるよ」


要するに、盗んできた物をここに隠しているのだろう。

まさかこんなことまで、盗人の手助けをもらうことになるとは思わなかった。


「ありがとう。また、今度、一緒にご飯を食べよう」


僕は、念のために空気の壁を作って、保管した食糧をガードし、その場を離れた。


「さて、これから僕たちはハンターギルド本部に行くんだ。またな」


「えぇぇぇ。もう行くのか?だったら、おれたちもついてくよ」


「え……」


いつの間にか、スタンプたちから、なつかれてしまった。

だが、子連れであれば、逆に怪しまれることが少なくなるかもしれない。

そう考え、彼らも連れて行くことにした。

ところが、マオは一人で座ったままだった。


「マオ、行くよ」


一人の少年が言ってもマオは動かない。


「おなか、いっぱい。うごけない」


まだ単語の羅列でしか話ができないらしく、マオは簡潔にそう言った。

なんと子どもらしいワガママか。


「仕方ないな。ほら、行くよ」


つい愛くるしさを感じてしまった僕は、そう言って彼女を抱きかかえた。


「…………!」


マオがビックリして、大きく息を吸った音が聞こえた。だが、その後には、抱っこしている僕にガッシリとしがみついてきた。僕の目からは見えにくいが、この時、マオの目はランランに輝き、頬を紅潮させて興奮しきった顔をしていた。


この子は、これまで一度も人に抱きかかえられたことがなかったのだろうか。まるで人肌の温もりを貪るかのようにピッタリと体をくっつけ、僕の胸に必死にしがみついていた。僕が手を離したとしても落ちないくらいに思われた。


そう感じていると、今度は時折、とても恥ずかしそうに俯いて、僕の肩に顔をうずめてくる。さらにマオは、僕に抱きかかえられた状態で、せわしなくピョコピョコと動いた。テンションの高ぶりを体で表現しているようだった。


そんなマオを抱っこしたまま、僕は子ども達を連れてハンターギルド本部の裏まで来た。


「さっき言ったように、僕は追われてるから、顔を出せないんだ。みんなギルド本部で話を聞いてきてくれないか」


「何を聞いてくればいいんだ?」


「最近、話題になっていることであれば、何でもいい」


「わかった」


スタンプたちは、面白がってギルド本部に入っていった。

抱っこしているマオは、満腹感と安心感のためか、いつの間にか寝入っている。


「百合ちゃん、いるんでしょ?情報収集、お願いね」


僕は一人、小声で呟いた。


「うん。さっきからやってるよ。”ニセ勇者”のことは、何度も騎士が尋ねに来てるみたい。それを副本部長のカンファーさんが追い返してる」


「やはりギルドと騎士団は仲が悪いんだな。それなら、僕たちにも希望はあるか」


「でも、本部長代理のチェスナットくんは、私たちが来たら、騎士団に差し出そうとしてるみたい」


「やれやれ……あの若造は手のひらを返したか……あいつが手引きして、コリウスと僕たちを引き合わせたのに。だとすると、今、ギルド本部に顔を出すのはまずい。僕たちが頼りにできるとしたら、カンファーさんだけだ。あの人は信頼できると僕は思ってる。彼が一人でいるところに話をしに行こう」


「夕方にカンファーさんが帰宅するところを狙おうか」


「言い方が怖いな。でも、それしかない」


僕は、かつてハンターギルド本部で出会い、懇切丁寧に応対してくれた、副本部長の老紳士カンファーさんと、病気療養中の本部長に代わって、代理を務めている息子のチェスナットの顔を思い出しながら、今後の方針を固めた。


話がひと段落したところで、嫁さんが意味深な言い方で話題を変えてきた。


「ところで、蓮くん、マオちゃんのこと、覚えてないの?」


「……え?どういう……」


僕が聞き返そうとすると、ちょうどそこに子ども達が元気よく戻ってきた。


「やべぇやべぇ!中をウロついてたら、子どもが来るところじゃない!って怒られちまったよ」


スタンプが笑いながら報告した。


「何か、情報はあったか?」


嫁さんの耳を頼りにしているので、僕は何の期待もなく彼らに尋ねた。


「やっぱり最近の話題って言ったら”ニセ勇者”と”姫賢者”だよな!」


「……え、なに賢者だって?」


僕は予想外の言葉に驚いた。


「”姫賢者”だよ。レンは知らねえの?」


「しばらく、ここには来てなかったからな」


「なんだよ!今、めっちゃ有名なんだぜ!いきなりゴールドなんとかになった、すんごい美人のハンターが、あっちこっちの強いモンスターを退治してるんだ!」


「え……」


話を聞いていて、僕は考えた。

つまり、初回登録時にいきなりゴールドプレートになった女性ハンターがいるということだ。ゴールドプレートということは、レベルは40以上であり、国家の英雄クラスの実力者だ。


一人だけ、思い当る人物がいる。いや、彼女を置いて、そんな女性がこの世界にコロコロ出現するはずもなかろう。


「それでよう!あんまり美人なもんだから、ハンターの男たちがみんな、”姫賢者”を仲間に入れようと誘ったらしいんだ。でも必ず、”わたくしには、心に決めた方がおります”って答えるんだって!おれも一度だけ見かけたことがあるんだけど、本当に綺麗な人だったんだ!」


マセガキであるスタンプは、8歳くらいのくせに、そういう話題が好きなようだった。


それにしても、女性ハンターが蔑視される業界で、何人もの男からスカウトされるとは、とんでもない人気だ。そして、ここまで聞けば、僕の予想は99%当たっているだろうと思われた。


「そ……そうか……すごい子が現れたもんだな……」


苦笑する僕。

と、ここで、スタンプが大声ではしゃいだため、マオが目を覚ました。


「あ、マオ、起きたか?」


「うん……」


そして、この時、テンションの上がっているスタンプに別の少女が反対意見を述べた。


「えぇ、でもユリカの方が綺麗だよ」


「そうか?」


「おれもユリカだなぁーー」


「わたしは”姫賢者”だよぉ」


口々に自分たちの好みを言いあう子ども達。どうやら、嫁さん派と”姫賢者”派が二分されたようだ。その割合は、3対4となったが、しばらく考え込んでいたスタンプが最後に意見を変えた。


「お、おれも、どっちかって言ったら、ユリカだな……」


このマセガキ。直に優しくされたもんだから、嫁さんの方に傾いたんだな。おそらく本人がこの場にいないと思い込んでの発言だろう。嫁さんを目の前にしたら、同じことを言ったかわからない。


これで、嫁さん派が4、”姫賢者”派が3になった。隣にいるはずの嫁さんが、今どんな表情をしているのか、非常に気になるところだ。


そんな彼らの会話を聞いて気になったのか、マオが話に参加してきた。


「ユリカ?だれ?」


抱っこしているため、顔が至近距離にある状態で会話する僕とマオ。


「百合華っていうのは、僕の嫁さんなんだ」


「よ・め?」


「うん。ずっと一緒にいる人のことだよ」


「いっしょ……」


何事かに思いを巡らしている様子のマオは、数秒間、黙った後、いきなりこう言って、僕の胸に顔を埋めた。


「ユリカ、きらい」


「……え?」


「ユリカ、きらい。レン、すき」


なぜだ。まだ顔を合わせてもいないはずの嫁さんのことを、なぜマオは嫌いと言うのだ。そして、僕の隣にいるはずの嫁さんの声が小さく聞こえた。


「ガーーン!」


案の定、嫌いと言われて、ショックを受けているようだ。


一方の僕は、突然、マオが言い出した言葉に疑問を抱き、頭を回転させた。どこかでこの子は、嫁さんと出会っているのか、と。


そして、ふと周囲に目を向けた時、ちょうど僕の正面に隣の民家の窓ガラスがあることに気づいた。そこに映っているのは、僕と、僕が抱きかかえているマオの後ろ姿だ。その窓に反射して映ったマオの帽子を見て、僕はあることを思い出した。


以前、この街の宿で嫁さんを抱きしめている最中に窓の外から覗いてきた幼女の顔を。その時、幼女が被っていた大きめの帽子を。


正確には、一瞬のことだったので、僕は幼女の顔はほとんど覚えていなかった。しかし、帽子には見覚えがあった。窓に反射する状態になって、やっとその事実に気づくことができたのだ。


だとすれば、その後に嫁さんが市場で遭遇したという、魔族の子どもと疑わしき存在、それがこの子ということになる。


なんということだろうか。

僕は、そんな危険な存在を、抱きかかえた上に昼寝までさせていたのだ。


今日の嫁さんの謎の行動も、これで全て合点がいった。彼女は、市場で騒動を起こしたマオにゲンコツを食らわせ、お説教している。それは正しい行動だが、確実に当人からは嫌われてしまったことだろう。


そして、わかってしまえば、僕の心には緊張感が走った。嫁さんが何もせずに僕の好きなようにさせていたということは、少なくとも今のマオには、危険性はないことになる。だが、そうは考えても、気づいてしまった以上、警戒せずにはいられなかった。


僕はマオの顔をもう一度見た。

すると、マオが僕に尋ねてくる。


「レン、ユリカきらい?」


僕が嫁さんのことを嫌いか?と。

あえて、その質問を正面から聞いてくるところが、とても子どもらしい。

これに僕は、はぐらかすことなく、正直に答えようと思った。


「好きだから、お嫁さんにしたんだよ」


魔族の子どもと思わしき存在が、これを聞いて、どう思うのか、全く想像もできない。しかし、すぐそばに嫁さんがいてくれることを信頼して、僕はキッパリと答えた。


それを聞いたマオは、とても不満そうな顔をした。そして、僕にガッシリしがみついていた腕と足を離し、スルッと器用に僕から滑り降りてしまった。そのまま後ろに下がり、一言だけ口に出す。


「……かえる」


「え」


僕が聞き返した時には、既にマオは4歳児とは思えないスピードで走り、建物と建物の間にある細い隙間に入り込んでいた。子どもならまだしも、大人の通れるスペースではない。彼女はそこを抜けて表通りに突入し、人混みの中に紛れ込んでしまった。


「百合ちゃん!」


嫁さんに追いかけてもらおうと、僕は彼女の名前を呼んだ。

返事がない。既に追っているようだ。


僕は迂回して表通りに出た。

だが、既にマオの姿を判別することは不可能だった。

すると、嫁さんの声が聞こえた。


「ごめん。さすがの私もあの隙間は通れなかったよ。迂回した一瞬の間にもう見つけられなくなってた」


「それにしたって、二度も百合ちゃんから逃げ切るとは、やはり只者じゃないな」


「あの子、気配を消すのもうまいよ。人と全然変わらない。でも、奥に秘めてる、すごい力は、一緒にいてよくわかった」


「まさかと思うけど、あの子が『八部衆』ってことはないよな……」


「わからないけど、それも否定できないよ」


今日、ここでマオと深く関わったことが、吉と出るのか凶と出るのか、全く想像できなかった。しかしながら、只者とは思えない不思議な魔族の幼女と、互いに名前を教えあってしまったことには、一抹の不安を抱かずにいられない。


「なんだ、マオは帰っちゃったのか」


スタンプが僕たちを追いかけてきた。

他の子ども達も口々に言った。


「あいつ、いつも”かえる”って一言だけ言って、パッといなくなるんだよな」


「どこに帰ってるんだろうね」


「さぁなーー」


彼らの言動を見ていると、そんな暗澹たる思いも少し軽くなる気がした。

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