第59話 青天の霹靂

幼女魔王デルフィニウムは、覗き込んだ窓の向こうにいる男女に目を奪われてしまった。二人が抱き合っていたからだ。


男の胸に顔を埋めるようにしがみつく女と、それを力強く抱きしめる男。

そのような人間の姿をデルフィニウムは初めて見た。


初めて見るというのに、なぜか心が動かされてどうしようもない。これまで、この街で見聞きしてきた全てのものを忘れて、彼女は食い入るように二人を見続けた。


すると、男の方がこちらに顔を向けた。

デルフィニウムは焦ったが、向こうの男も驚いた様子をしている。

そして、お互いに目が合ってしまった。


”気まずい”という単語をまだデルフィニウムは知らないが、なぜか、”とてつもなく気恥ずかしい”という感情が込み上げ、顔が熱くなってきた。


そして、男が声を出した。


「百合ちゃん、後ろ……」


その瞬間、デルフィニウムは一目散で逃げ出した。


何か、好奇心が満たされた不思議な満足感と、見てはいけないものを見てしまった奇妙な罪悪感。


生まれて初めて感じるこの歪な感情に戸惑いつつも、ともかく今はあの大人に捕まってはいけない、ということだけを本能的に察知した。


捕まれば、自分の自尊心が失われてしまうような気がしたのだ。特に抱きしめられていた方の女。巨大な気配は、彼女から感じられた。アレには、自分の姿すら発見されてはいけない。


無意識のうちに自分が発するあらゆる気配を消し去り、無垢の人間のような気配で市場まで走ったデルフィニウム。


今度は、不思議と逃げ切ることができた喜びで胸がいっぱいになった。思わず笑みがこぼれ、充実感に浸る。”鬼ごっこ”すらしたことのないデルフィニウムには、これもまた人生初となる経験だった。


落ち着いたところで、再びフラフラと歩き続けた。

だが、頭に思い浮かぶのは、先程の男のことだった。


あんなふうに自分も抱きしめられたら、どうなるのだろうか。

そんなことを、どういうわけか、妄想していた。


父親を知らないデルフィニウムにとって、それは生まれて初めて抱く、父性への欲求であった。


不思議なことに、もう一度、あの男に会ってみたいと思う。しかし、もう一人の女の方には決して出会いたくない。したがって、彼の場所まで戻る勇気は持てなかった。


気づくと、デルフィニウムは再び市場にいた。


ここで彼女は愕然とした。

理由は全くわからない。

ただ、先程と同じ市場に戻ってきたのに、全く異なる印象を受けたからだ。


あれほど楽しく、おいしく、賑やかに感じていた市場の喧騒が、悲しく、辛く、寂しいものに感じられたのだ。


人々の明るく談笑する姿を見ると、自分だけが独り取り残されたような気がして、激しい疎外感を感じた。ここに自分を知る者は誰もいない、ということにひどく恐れを抱いた。


彼女は知ってしまったのだ。人の温もりというものを。そして、それへの憧れを。

孤独感に苛まれた幼女魔王は、目が潤むのを感じた。


「……う……ぅ……」


その悲しみによるフラストレーションが、周囲にまで感染する。市場の空間が、ほんのわずかだがズシリと重くなった。


このまま彼女が感情を爆発させれば、ベナレスの市場は大惨事となるであろう。

だが、そこに救いの声がやって来た。


「マオ!ここにいたか!マオ!」


デルフィニウムが振り向くと、スタンプが元気に近づいて来た。


「さっきはごめんな。あの後、お前がおれの仲間だと思われて、捕まってたらどうしようって、心配してたんだ。それで、ずっと探してたんだよ」


「……しんぱい?わたしを?」


「ああ、心配したよ。だって、仲間にはなれないけど、おれたち、もう友達だろ?」


「……ともだち?」


「うん。友達だ」


「ともだち……」


魔族の間では、ほとんど馴染みのない言葉だったが、意味は知っていた。


デルフィニウムは、ここで初めて、”友達”という概念を実感を持って学んだのだ。彼女の表情が明るくなった。


「じゃあ、ここはもうヤバいから、おれは今日は帰るよ。また街に来たら遊ぼうぜ。あそこで待ってるからな」


「……うん」


スタンプは手を振りつつ、帰っていった。

再び一人になったデルフィニウムだが、先程まで感じていた孤独感は無くなっていた。


「ともだち……」


その言葉を口にすると、とても明るい気持ちになった。彼女は、意気揚々とニワトリ女『ガッルス』のいる林まで戻ることにした。


だが、ガッルスのことを頭に思い浮かべたところで、ふとこんなことを口走った。


「ガッルス、おなか、すいてるかな……」


そして、しばらく考えた後、こう呟いた。


「ともだち……ガッルスも、ともだち」


デルフィニウムは、タコスを売っている露店に行った。そして、スタンプがやっていたことをマネた。


「ふたつ、ちょうだい」


「おや、午前中に来た子だね。さっきの坊やはどうしたんだい?」


「ふたつ、ちょうだい。わたしと、ガッルスのぶん」


「そうかい。2つで銀貨1枚だよ。お金はあるかい?」


露店のおばさんはタコスを2つ、手に持っているが、渡してはくれない。


お金の概念を持たないデルフィニウムは、その理由を理解できず、重力操作で、そのおいしい食べ物2つを自分のもとに引き寄せた。


「え、あれ!?」


驚くおばさんを残し、その場を立ち去ろうとするデルフィニウム。

だが、後ろから首根っこを掴まれ、そのまま持ち上げられてしまった。


「ちょっと待ちなっ!こら、持ち逃げするなんて、どこの子だい!」


食べ物を大事に運ぼうと思っていたので、おばさんにあっさり追いつかれてしまったのだ。


「おう、おう、どうしたんだ?」


別の露店の男が声を掛けてきた。


「この子が盗もうとしたんだよ。子どもとはいえ、こういうのはキッチリしないとね!誰か、この子を百叩きにしてやっておくれよ!」


「いやいや、よく見ろよ。このお嬢ちゃん、かなり身なりがいいぜ。もしも貴族のお嬢ちゃんだったら、面倒なことになるぞ」


「知ったこっちゃないよ!貴族様だったら、盗んだ分のお代をしっかり払ってもらえるから、いいけどね。そうじゃなかったら、誰が払ってくれるのさ!」


そこに別の屈強そうな男が加わった。


「そうだな。貴族の令嬢がこんなところに一人で来るのもおかしいわな。いっちょ、おっちゃんが折檻してやろうかい!」


「ああ、頼むよ!」


気づけば、人だかりができ、デルフィニウムを取り囲む露店商の仲間たちも大勢になっていた。


午前中に感じた楽しい気分も台無しになり、先程まで感じていた明るい気持ちも消し飛んでしまった。


デルフィニウムは憤慨した。


かつて、自分をここまでコケにした者たちは記憶に無いからだ。


「ようし、じゃ、お嬢ちゃん、歯を食いしばりなっ!グーはやめといて、パーにしてやるからよ!」


屈強そうな男が、デルフィニウムに平手打ちを食らわせる。


しかし、その手のひらは、彼女に当たる前に弾き飛ばされた。その勢いで男は地面に仰向けで転がってしまった。


「え?あれ?」


デルフィニウムは、常に自分の肉体の周辺に『反重力バリア』のようなものを発現している。


彼女の許可なく、その体に触れようとするものは、全て180度方向転換して、跳ね返されてしまうのだ。仮に不意打ちであったとしても、このバリアを突き抜けて攻撃することは不可能なことだった。


「ちょっと!あんた、何やってるんだい!」


おばさんが呆れて叫ぶと、幼女が小さく呟いた。


「……だまれ」


「あぁ?なんだって!?」


デルフィニウムの呟きに露店のおばさんが聞き返す。


「だ・ま・れ」


二度目の言葉には重みがあった。

そして、それが聞こえた瞬間、彼女を取り囲んでいた大人たちが一斉に地面に突っ伏した。


「えっ!?」


突如、体が重くなり、全く動けなくなる大人たち。


「あ、あれ?なんだ、これ?」


「う、動かねえ……」


捕まって宙に上げられていたデルフィニウムは、ゆっくりと空中から地面に降りた。


「おまえたち、わたし、だれだと、おもってる」


いかなる強者であろうと、自分の意に介さぬ者に対しては、常にこうして力ずくで押さえ込んできたデルフィニウムだ。相手が自分に服従するまで、この『超重力場』を解除することはない。


「がっ!あっ!あぁぁぁっっっ!」


大人たちがやがて苦しみ出した。重力が徐々に大きくなり、体を動かせないだけだった重みが、次第に肉体が軋み出すほどの痛みへと変わってきたのだ。


「なっ!なんだ!!ごっ!ごればっ!!」


「これ、わたしのもの。ガッルスにあげる」


デルフィニウムは、自分の意思を彼らに伝えるのだが、そもそも大人たちは、この現象の原因が彼女にあることを理解できていない。


目の前の幼女が、魔族を束ねる恐ろしい存在であるなどとは、夢にも思っていないのだ。したがって彼女に返答する者は一人もいなかった。


その結果、『超重力場』は、どんどんエスカレートし、彼らは呼吸すらできない状態となった。


(ぐあぁぁぁぁっっっっ!苦しいっ!息が!息ができないっ!!)


全員から無視されたと思い、ますます不機嫌になるデルフィニウム。


「おまえたち、どうして、なにも、いわない」


さらに重力が強まった。

周囲の露店も重みに耐え切れず、崩れようとしている。果物を置いてある店では、その果実が勝手に割れ出した。


(なっ!何が起こっているんだ!?ダメだぁっ!死んでしまう!誰か!誰か助けてくれえぇぇぇっっ!!!)


「おまえたち、クビ」


非常な宣告とともにデルフィニウムは、さらに力を強めた。

全員の骨は砕け、肉が裂け、内臓が潰される――



――そう思われた瞬間であった。


「コラッ!なにやってるの!!」


その声とともに頭上に衝撃が走った。



ゴチンッ!!



それは、まさしく青天の霹靂だった。


何が起こったのか、全く理解できないデルフィニウム。


ただ、頭を貫くような痛みにビックリし、思わず、超重力を解除していた。


周囲の大人たちは、謎の重圧から解放された。


デルフィニウムは、呆然としていた。

生まれて初めて味わうゲンコツ。

目には星が、頭にはハテナマークが飛び回り、体は硬直してしまった。


自分の『反重力バリア』を突き抜けて攻撃してくる者など、これまで存在したことがなかった。また、そもそも『超重力場』の中を平然と接近されたことになる。そんなのはありえないことだ。


彼女は恐る恐る後ろを振り向いた。そこには、黒髪をフードで隠した、美しい大人の女性が、買い物袋を左手に抱えて立っていた。


「あなた、どこの子!?今、魔法を使ったでしょ!ダメよ!みんな死んじゃうとこだったじゃない!!」


この瞬間にデルフィニウムは思い出した。先程見た、恐ろしい気配を持った人間だ。怒りに我を忘れてしまったため、彼女が近づいていることに気づかなかったのだ。


デルフィニウムは、自分の予感が完全に的中していたことを悟った。この人間にだけは絶対に関わってはいけなかったのだ。


「……ぁ……あぐ……」


頭の痛みと心の衝撃で、泣きそうになる幼女魔王。だが、彼女に残された最後のプライドが、この場で、この人間の前で、涙を見せることを許さなかった。


そんな彼女の苦悶の表情を見て、反省の色があると感じた黒髪の女は、今度は優しい声で話してきた。


「いい?あなたもシャクヤちゃんみたいに、魔法の才能があるのかもしれないけど、それは人に使っちゃいけないものなの。あなただって、人から痛いことされたら、イヤでしょ?自分が人にされてイヤなことは、自分も人にやっちゃダメ。わかる?」


強烈な一撃を受けた後に優しい声で言われると、もうこの女には、逆らえないという気がしてきた。


知らず知らずのうちにデルフィニウムは、コクリコクリと何度も頷いていた。頷くたびに涙を堪える必死の声が漏れた。


「……ん…………んぐっ…………っすん…………」


目を真っ赤にして、素直に反応する幼女を見て、次第に愛らしさを感じた人間の女――つまり、白金百合華は、さらに穏やかな声で質問した。


「あなた、どこから来たの?お父さんとお母さんは?お名前は?」


「……んん……」


さすがにこの質問に答えるわけにはいかない。そう思うデルフィニウムは、口を閉ざして首を横に振った。


「わからないの?困ったわねぇ……」


その反応を見て、ただの迷子だと思う百合華。


「連れ帰って、蓮くんと相談した方がいいかな……」


その言葉を聞いて、デルフィニウムはなんとなく悟った。あの男のもとに連れて行かれるのだと。


今、この精神状態で、あの男に会えば、魔王としての自分が終わるような気がした。デルフィニウムは恐れた。なんとしても、それだけは避けたい。この場から逃げ出さなくてはならない。


しかし、この女から逃げ切るには、どうしたらよいのだろうか。デルフィニウムは必死に考えを巡らしたが、答えは出なかった。


周囲では、超重力から解放された大人たちが、呼吸を整えて、ようやく起き上がろうとしている。


万事休す、かと思われた。

が、ここで急に百合華の方が声を上げた。


「あっ!あれっ!?蓮くんっ!?なんで蓮くんが来てるの!?」


百合華は後ろを向いて独り言を呟いた後、またデルフィニウムに振り返って言った。


「ちょっとここで待っててね!」


デルフィニウムを残し、百合華はサッと走っていった。そして、外出してきた夫と合流した。


「蓮くん、どうして出てきたの?今日は一日安静にしてね、って言ったのに」


「少しくらい外の空気を吸わせてよ。もうだいぶ楽になったんだから」


「しょうがないなぁ。じゃ、せっかくだから、相談に乗って。あっちに困った女の子がいるの」


「困った女の子?」


そうして、百合華は夫を連れて戻ってきたが、もちろんデルフィニウムは、この隙に気配を消して逃げ出していた。


「あ、あれ?いない……」


デルフィニウムは、既に遥か上空にいた。

重力を反転させれば、空に向かって上方向に落下することは簡単だった。


そこから、ゆっくりと下降し、ベナレスの外、ガッルスの待つ林に降りた。


「あっ!お帰りなさいませ。魔王様!」


待ちくたびれていたガッルスは、喜んでデルフィニウムを迎えた。


「グスッ……グスッ……」


「あ……あれ?魔王様?泣いてらっしゃいます……?」


「かえる。はやく」


「は、はいっ!」


内容はわからないが、街で何かがあったらしいことを察したガッルスは、デルフィニウムを乗せて、いち早くその場を飛び立った。


ベナレスを離れ、上空を飛行して、ようやく安心したデルフィニウムは、我慢していた感情をついに解放した。


「……あぐっ……えぐっ…………うあ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁっっ!!!!」


せっかく手に入れた、おいしい食べ物も、逃げるのに夢中でどこかに落としてきてしまったらしい。そのことに気づくと、ますます泣けてくる。上空でデルフィニウムは、ずっと咽び泣いていた。


「魔王様……」


困りきったガッルスは、空気を読んで、真っ直ぐ帰らず、魔王が泣き止むまで上空を遊覧飛行し、それから岩山の魔城に帰還した。



やがて、その日の夕刻。

再び『八部衆』が勢ぞろいしての会議が行われた。


全員が武装し、かしこまった姿勢で席に着いている。魔城全体も『八部衆』の部下たちで、ひしめいており、攻撃準備は万全であった。


老猿『ピクテス』が、議題を高らかに宣言する。


「さて、それでは、今宵。満月の夜を期して、商業都市『ベナレス』への侵攻を開始したい。『八部衆』の決議は既に行われた。各々方の準備も万全であることと思う。あとは、我ら、魔王様のご決裁を仰ごうではないか!」


「「おう!!」」


全員、引き締まった顔つきで、魔王の発言を今か今かと待ち望んでいる。既に戦闘準備は完全に整っているのだ。


「みんな……」


魔王デルフィニウムが口を開いた。

一同、目を輝かせて息を呑む。


「にんげんと、たたかうの、やめる」


「「………………」」


魔王の発言を受け止めきれず、全員が沈黙した。

互いに顔を見合わせるが、誰も口を出すことができない。

しばらくして、意を決した老猿『ピクテス』が、魔王に聞き返した。


「も……申し訳ありません。魔王様……今、なんと……仰せになられましたでしょうか?」


「たたかうの、やめる」


キッパリとした口調で言い放つ魔王。

全員が愕然とした。


「そ、そんな!今を逃して、いつ戦うっていうんですかい!魔王様!」


痺れを切らしたトラ男『ティグリス』が、つい叫んでしまった。


「や・め・る」


魔王の言葉には重みがあった。

その瞬間、全員にのしかかる超重力。


今までのものよりも数段激しく、レベル40超えの猛者たち全員が、呼吸もできないほどの状態に陥った。


「「ぐっ!!ぐあぁぁぁぁぁっっっ!!!!」」


「やめるの!」


「かっ!かしこまっ……かしこまりました!ま、魔王さ……まっ!!」


老猿の言葉により、なんとか超重力から解放される面々。


「わかった?」


「はい。魔王様のご命令、謹んでお受け致します」


「うん」


全員が改めて悟った。この魔王に逆らえる者は一人もいない。何が理由かは不明だが、ベナレスへの攻撃は一旦、諦めざるを得ないのだ。『八部衆』は、しぶしぶであったが、魔王の攻撃中止命令に素直に従うことにした。


一同が愕然として、うな垂れている中、魔王デルフィニウムは、一人で席を立ち、会議室を出た。


そして、周囲に誰もいないことを確認した上で、目に涙を浮かべてボソッと独り言を呟くのだった。


「にんげん……こわい」



こうして、誰にも気づかれることなく、それどころか、功労者である本人すら全く認識することがないまま、商業都市『ベナレス』は、ひっそりと完璧に救われたのであった――


――たった一人の主婦によって。

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