Case Extra-3.Blank space

 時間が止まったように感じた。

 心臓も、風も、星の瞬きでさえも。


「え……?」


 息を吐きながらなんとかしぼり出せたのは、声にならない声。


 待って……いた?


 どういう意図で放たれたのかはわからない。だけど。

 俺はその言葉に、聞き覚えがあった。


『私は、そうね……待つため、かしら』


 脳裏によみがえるのは、いつだったか。そうだ、絵の展覧会に行ったときに聞いた。


「その言葉って……部長が天文部に入部したのと、関係ありますか?」


 半信半疑。確証はない。俺の思い上がりかもしれない。だが、


「あら、そんな前のことを憶えていてくれてるなんて、うれしいわね」

「そりゃ、初めて一緒に出かけたときのことですから」


 思えばあの時から、俺はこの人に惹かれていたのかもしれない。


「正解よ」


 短く、俺の問いに対して答えると、悠然と歩きだした。両手を広げて、柵に沿って。その姿はまるで、星空という名の海の、その波打ち際を歩いているみたいだった。

 潮騒しおさいが聞こえてくる。彼女の足元に、さざ波が打ち寄せているような錯覚に陥る。

 そのまま彼女をさらってしまいような波が。


「私が天文部に入ったのは……晴人はると君、君と出会ったから」


 止んでいた夜風が再び吹き始め、あでやかな黒髪とストールと揺らしていく。


「君と出会って、君が天文部に入るって知ったから、私も入部することにしたの」

「――じゃあ、あの夜の部長は」

「そう。あの時の私は天文部員じゃなくて、天体観測のやり方もまったく知らない、ただの・・・東雲しののめとばりよ」


 つまり、この人は俺と出会った日から、俺が入学し天文部にやってくるまでの間に、天文部に入部したということになる。俺の先回りをする形で。


「感謝してね? 天文部、本来なら廃部になるはずだったのに、新入生で入部する人がいるからって、私が先生にかけあったんだから」


 思えば、天体望遠鏡のメンテナンスなどを手伝うよう言ったとき、彼女は「扱い方がわからないから」とすべて断っていた。当たり前だ。天体観測の方法も知らなくて、しかも入部して間もない人間がそんなこと、知るはずもないのだ。


「どうして、ですか?」


 あの夜、俺たちは初めて出会った。なのに、何故この人はそんな初対面の俺を理由に、縁もゆかりもない天文部に入部することにしたのか。

 どうして、そんな場所で『諦め屋』なんてものを始めたのか。

 そして何より。


 どうしてあの夜、この場所にいたのか。


「……」


 彼女は俺の言葉が聞こえていないのか、聞いていないのか、黙ったまま。言葉を発しない代わりに、腰のあたりまでしかない柵を乗り越えて向こう側へと――屋上のふちへと身体を移す。フェンスがまるで壁のように、俺と彼女の間に隔たりを作っているようだった。

 そうして背中をこちらに向けたまま、


「今の私ってね、余白なのよ」

「余白……?」

「そう。晴人君と出会ってからの私は……なにもなくて、真っ白」


 壁の向こうから聞こえてくる独白は、またしても俺の理解を追いつかせない。


「それって――」


 どういう意味ですか。そう訊こうとする前に、彼女は振り返って。


「あの日はね……私の命日になるはずだったの」

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