第62話 『冷淡公』
『混沌の月』の後半を使って、報告書を書き上げた。
報告書には現在の『ソト』の世界の情勢や、気候情報、流行、食物、その外レーキが解る範囲の出来事を詳細に書き連ねた。
レーキが知っているのは、行ったことのある国の事柄だけ。どうしてもヴァローナ国内の記事が多くなった。
レーキの希望で、報告書には個人名は一切でてこない。レーキの名も鳥人で有ることも伏せられている。
「他の幻魔に大切な人びとの名前を知られたくない。娯楽にされたくない」レーキはそう考え、イリスは個人名を記なさいことを了承した。
出来上がった随分と厚いその紙束を、シーモスが魔法を使って別の紙束二つに複製する。
その二つは、大きな派閥の長である『冷淡公』と『苛烈公』に届けられた。
シーモスの回りくどい説明によると、『呪われた島』の幻魔には現在、三つの大きな派閥があるようだ。
それはすなわち『冷淡公』を筆頭とする穏健派。『苛烈公』を筆頭とする強硬派。そしてそのどちらにも組みしない中立派。
多くの幻魔は、穏健派か強権派どちらかの派閥についているようだが、強大な能力を持つイリスが中立派であることから、中立派も一定の発言力を持っている、らしい。
イリス本人にその自覚があるのかどうかは怪しいが、イリスを中立派の長であると見なしている幻魔もいるようだ。
まれに、イリスの屋敷に中立派の幻魔が訪れてくることもあった。
そんな時、イリスはレーキを部屋に隠して決して誰にも会わせようとはしなかった。
報告書を届けて一ヶ月は、何事も無く平穏に過ぎた。
イリスは、レーキと使用人たちの大半を連れて予定通りに温室におもむいた。イリスお気に入りの温室は島の東側に位置していて、屋敷からは魔獣の引く車で約二刻(約二時間)。使用人たちの数は多く、魔獣車を何台も連ねて行く。
陣を使った魔法で転移する事も可能だが、極力魔法に触れたくないレーキのために魔獣車がしつらえられた。
「こうやって、のんびり出かけるのも楽しいよね!」
先頭の魔獣車に乗り込むと、イリスは楽しげにはしゃぎ始める。今日はシーモスも同席しているので、大人の姿のままだ。
魔獣車は魔具の一種で、石畳の道を走っても揺れはほとんどない。馬に似ているが全身を
魔獣車は街中を抜けて田園地帯を抜け、やがて森の中を走る。『呪われた島』の主な道はみな石で舗装されていて、魔獣車もヒトも通行しやすいようになっていた。
森の中に、ぽっかりと開けた土地が見えてくる。
そこに建てられているのは、金属で作られた巨大で優美な骨組みの温室と、隣接する屋敷。温室の骨組みは曲線で構成されていて、壁も屋根も取り付けられた無数の硝子板で囲まれて、太陽の光をふんだんに取り込んでいた。
「……!」
何度見ても、その大きさ、精緻な細工に圧倒される。温室の骨組みはどこもかしこも美しく装飾されて、この建物が実用一辺倒のためのモノではない事を知らせていた。
「ようこそ! お久しぶりです。『慈愛公』! みなさん!」
温室の管理人は快活で年嵩に見える魔人の男で、イリスの姿を見るとにこやかに出迎えてくれた。
「そろそろ
「やった! 僕、フラゴが一番好き。レーキはウバを摘んだことがあるんだよね?」
「ああ。果実酒にするウバを摘む仕事をした」
ズィルバーとウバ詰みの仕事をしたことが、懐かしく思い出される。
あれは、ほんの一年と少し前のことで。あの時は、まさか一年後に『呪われた島』に居ることになろうとは思いも寄らなかった。
「さあ、どうぞ。温室へ」
管理人に促され、レーキたち一行は温室に踏みいった。
春もまだだと言うのに、夏や秋になるはずの果物がたわわに実り、華やかな香りが温室中に満ちている。
白、赤、桃色に黄色。これから実を付けるはずの花も咲き乱れ、温室の中はどこもかしこも賑やかだ。
「こちらのハサミをどうぞ。沢山収穫してくださいね」
管理人からハサミを受け取って、レーキとイリスは果物を採り始める。使用人たちも思い思いに果物を摘み、楽しげに笑い合っている。シーモスと黒い魔獣は、そんな一行を眺めてのんびりと後から付いて来た。
イリスは採り立てのペルシコの丸い実に、皮ごとかぶりつく。溢れ出る果汁に悪戦苦闘しながら、品良く強い甘味のペルシコを堪能する。
「おいしい! お菓子も美味しいけど、そのままの実も美味しいよね!」
「ああ」
レーキは粒の大きなウバの実を一粒、口に運びながらうなずく。
「このウバは、俺の知っている物より随分甘くて美味しい。俺の知っているウバも甘いんだが……こう、甘さの度合いがずっと大きい」
「果実酒用のウバは、甘みの中に渋味や酸味を残してあると聞きますね。この温室のウバは食用なので、甘味を重視して品種改良してあるんですよ」
温室の管理人が、作業する手を止めて客人に解説してくれる。
「僕もそれ、食べたいな」
「ん。ほら。どうぞ?」
ペルシコの果汁で両手を汚したイリスの口に、直接ウバの実を放り込んでやる。もぐもぐと果実を噛んで味わうイリスは、嬉しそうに笑った。
「うん! こっちも美味しい!」
「イリス様、お手が汚れていらっしゃいますよ。これをお使いください」
シーモスが水の球を宙に浮かべて差し出すと、イリスはそれで手を洗った。服の端で手を拭こうとするイリスに苦笑しながら、シーモスはすかさず清潔な布を差し出す。
一行は様々な果実を採っては味わって、数刻、和やかな時間を過ごした。
「……おや? 転移陣が反応している……? すみません、失礼します。『慈愛公』」
管理人が、一礼を残して慌てて屋敷に戻っていく。
イリスたち一行は貴人が野外でそうするように、温室の中に小さな天幕を張っていた。日差しを避けて軽食やハーブ茶、そして取れたての果物をそこで味わえるように。
「おや。他のお客様がいらっしゃったようでございますよ?」
本日、温室は貸し切りと言うわけではない。他の客と鉢合わせる、そんなこともあるだろう。
「そっか。それじゃ、そろそろお土産を採って帰ろうか」
「そうだな。帰りも魔獣車だから早めに出たほうが良いかもしれない」
使用人たちが天幕を片づけ始め、取れたての果物は多くの籠いっぱいに詰められた。
イリスは最後にフラゴを摘みに行き、レーキはそれについて行った。
フラゴは背の低い草につく小さな実で、イリスは大きな身を屈めて、赤く熟れた実を摘んでゆく。時々つまみ食いをしながら。
「そんなに食べてばかりだと、籠がいっぱいになる前に熟れた実がなくなるぞ」
レーキはフラゴ摘みを手伝いながら、苦笑気味に言う。
「だって、美味しいから。つい食べたくなっちゃうんだ」
「ねえ、レーキ。お家に帰ったら、今日とった果物を使ったお菓子の作り方を教えて?」
「え? ……珍しいな、君がそんなことを言い出すなんて」
「……うん。レーキみたいにね、美味しいもの作れたら、楽しいかな? って、そう思ったの」
柔らかなフラゴを潰さぬように、丁寧に摘みながら、イリスは微笑んだ。
「……だが、菓子なら料理長に教わった方が良いんじゃないか? 俺よりずっと上手だ」
イリスの料理長は、料理も菓子作りにも優れた手腕を発揮する人物で、宮廷料理とでも言える豪奢な種類の料理も多く知っていた。
この半年の間に、レーキは彼女に教えを請うた。菓子作りは『呪われた島』に来てから、料理長に教わって本格的に覚えたものだ。
「ううん。レーキに教わりたい! 料理長は忙しいしね」
「そうか。俺で良いなら、よろこんで」
「やった!」
フラゴの籠を高く差し上げて、くるくると踊り出すイリスに、今度はレーキが微笑んだ。
「ふふふ……相変わらずだな、『慈愛公』」
不意に誰かの声がした。静かで、優しいがどこか冷たく、威厳に満ちた女性の声。
レーキとイリスが振り返ると、そこには美しい黒髪を背中まで垂らした、整った顔立ちの少女が
切れ長の赤い
「ナティエちゃん!」
イリスが驚いたように、彼女の名を呼ぶ。
白い行楽用のドレスを身にまとったナティエは、笑みを深めてイリスを見つめる。
「久しいな、イリス。今日は果物摘みか?」
「うん! 美味しいよ。ナティエちゃんも食べる?」
「いや、私は止めておこう。口寂しくはない。……新しい奴隷だな。アーラ=ペンナとは珍しい。片翼なのは残念だ」
ナティエはレーキに視線を転じると、冷静に値踏みするような眼で見つめてくる。
彼女は年若い少女の外見をしているが、その眸は老成した大人の女性のそれを思わせた。
レーキは眼を伏せて、その視線をやり過ごす。
「……レーキだよ。奴隷屋さんで買ったの。羽は切られちゃった。ひどいことするよね!」
憤るイリスに、ナティエは「そうだな」と同意する。
「ナティエちゃんはどうしてここに?」
「私も果物を摘みにきた……と、言いたいところだが、お前に会いに来たのだ、イリス」
「僕に?」
ナティエの言葉に、イリスはわずかに身構える。
「イリス・ラ・スルス、報告書は読んだ。お前が拾った『ソトビト』に会わせてはくれないか?」
ナティエの声は優しげだったが、有無を言わせない力強さがあった。
「……それは、だめ」
イリスは一瞬レーキを見て、それからナティエに向き直った。その眸は確かに真っ直ぐナティエを見据えて、拒絶を表していた。
「……どうしても、か?」
「うん。どうしても。『ソトビト』は誰にも会わせない。君にもラルカくんにも、ね」
『苛烈公』ラルカの名が出た途端、ナティエは表情を消した。冷たく冴え冴えとした氷面のように、ナティエは冷めた眼でイリスを見つめる。
──ああ、思い出した。幻魔ナティエの二つ名は『冷淡公』。これが彼女の本性か。
「……そうか。解った、イリス。お前の意志は硬いのだな?」
「うん。それだけは絶対に、だめ」
冷たい眼をしたまま念を押すナティエに、イリスはいつになく真剣な表情で返す。
二人の幻魔の間に、じりじりと互いを燃やし尽くし、凍て尽くすような緊迫を感じて、レーキは息を飲んだ。あまりの緊張感に、そのまま時が止まってしまうかとすら思った。
だが、先にナティエが表情を和らげた。
「……では、お前の気が変わる時を待つとしよう、イリス。邪魔したな」
「うん。じゃあね、ナティエちゃん」
ナティエは
「……アーラ=ペンナの奴隷よ。『ソトビト』に伝えておけ。『いずれ私の前にまかり出よ』とな」
『冷淡公』ナティエは振り向いて、確かにレーキを見た。その遊色の口もとは微笑んでいたが、赤い眸は完全に凍てついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます