第51話 ラファ=ハバール

 鱗のない魚のような顔。マストの半分ほどに巨大な灰色のそれから、うねって伸びる吸盤のついた触手はほのかに赤みかがって。船縁ふなべりに絡みついて船を揺さぶっていたのは、きっとこの触手だ。

 ラファ=ハバールは、図説の何倍も恐ろしい生き物だった。

 レーキは驚愕に息を呑む。こんな生き物がいても良いのか。許されて良いのか。

 海を冒涜ぼうとくするために生まれてきたように、おぞましいその生き物は、巨体には不釣り合いなほど小さな四つのひとみを見開いて、触手を甲板かんぱんの上に伸ばしてくる。

「……レーキ! 何してんの?!」

「ネリネ!」

 揺れる甲板の上でバランスをとりながら、連射式のクロスボウをラファ=ハバールへ向けていたネリネが、レーキを見つけて駆け寄ってきた。

「下の船室は何が起こっているのか解らなくて混乱してる! あいつがラファか?!」

「そうよ! アイツが突然下から来たのよ! 今、護衛と甲板要員が揃って応戦してるけど、触手を切っても本体はたいして気にしてないみたいなの! ウィルも苦戦してる!」

 船の護衛は元々、別の船に横付けされて自分の船に敵が乗り込んできた時、つまり白兵戦を想定して雇われている。

 遠距離から先手を打つために天法士も数人揃えられているが、船同士の戦闘とは勝手が違う。護衛の天法士たちも、まだ決定な一撃を与えられないでいた。

 このままでは『海の女王号』はラファに沈められてしまう。レーキは戸惑う。

「……ここはあたしたちがなんとかする! レーキは船室に……」

「……俺も……やる! 俺は死にたくない。今のまま船室で怯えていてもジリ貧だ!」

 ラファ=ハバールは確かに恐ろしい。でも、船室でうずくまっていたら事態が解決するのか。再びラエティアに会えるのか。

 だから、自分が出来ることをする。レーキは決意する。ネリネに告げた言葉は本心で。それに、死の王は言っていたではないか。『未だその時に非ず』と。

「俺は、多分ここでは死なない」

 そうだ。その証拠に、気の置けない仲間、ネリネもウィルもまだ死んでいないのだから!

「……わかったわ! 出来るだけ触手より頭に一撃入れて! 触手はあたしたちが!」

「解った!」

 船縁でラファ=ハバールを迎撃している天法士達は、みな鳥人ではなかった。彼らは必死に法術を飛ばしているが、はっきりとラファに打撃を与えている攻撃は少ない。相手が巨体過ぎる。遠すぎる。

 ──『火』は駄目だ。相手は水浸しで海の魔獣。生半可な『火』ではかき消されてしまう。『水』。これは論外。『土』と『金』と『木』の系統も難しい。では。

「……考えろ、考えろ、考えろ!!」

 焦燥。どうすればラファに大打撃を与えられるか。レーキが逡巡するその時に。遠くの空で稲妻が一瞬辺りを照らし出す。

「……っ!!」

 これだ。『青』の天法は特殊な二系統、すなわち『木』と『雷』!

「みんな! 船縁から離れてくれ! 『いかづち』を使う!!」

「レーキ!」

 船縁に並ぶ護衛たちに、レーキは叫んだ。その中にウィルの顔を見た気がした。雨の中、空中に飛び出したレーキはラファに迫った。

 右手を突き出し、ラファに向かって声を限りに叫ぶ。

「おまえの好きにはさせない! 『青雷槌アスル・フルグル・マルテルロ』!!」

 護衛たちが船縁から離れたことを確認して、レーキは自分が知る、もっとも強力な『雷』の天法をラファの頭に叩き込む。

 レーキの右手から、強烈な雷撃がほとばしり、ラファ目掛けて飛んで行く。

 ギギギギギギィィィ……木材をこすり合わせるような音を発して、ラファの触手が船縁を離れていく。

「やっ、た……?!」

 喜びもつかの間。

 ラファの本体が、巨大な口を開けて船に迫る。その口の中を目掛けて、レーキはまたもや『青雷槌』を放つ。幾度も幾度も。

 びくり、とラファの巨体が震えて、その動きを止めた。

 ラファに『雷』の攻撃が有効であると悟った護衛の天法士たちが、レーキの足元でかわるがわる『青雷槌』をラファに食らわせた。

 ラファの体が揺れる。その太い触手がうっとうしい虫でも払うように船縁を薙ぎ払おうとする。

「させるか! 『氷塊撃グラキエース』!!」

 レーキは襲い来る触手をかいくぐって飛び、太い触手を『氷塊撃』でぼろぼろにしてやった。

 ラファは声もなく触手をくねらせて悶えている。それは痛みにのたくっているようにみえたが、そもそもこの怪物に痛みを感じる機能が備わっているのだろうか?

 それすら疑問だった。

「もう一度、『青雷アスル・フルグル……』?!」

『青雷槌』を放とうとしたレーキに、ラファは狙いを変えた。触手は一斉に空を飛ぶレーキを叩き落とそうとうごめいて、殺到する。

「……くっ!!」

 攻撃しようにも、呪文を唱える隙がない。こんな時、師匠なら、無詠唱で法術を使っていただろう。修行が足りない。だが、それは今、嘆くべきことではない。今はただ生き残ることだけを考える。

 レーキは飛んだ。ラファの触手が届かない空高くへ。雨粒が顔を、体を、羽を叩いて、すでに痛いほどだ。

「……雷の王さま……どうか、俺に力を……あいつを倒す力を貸してください……!! 『青雷槌アスル・フルグル・マルテルロ』!!」

 十分な高さを確保して、レーキは天の王に祈りを捧げた。そして、思い切り腕を振り下ろす。特大の『雷』がラファ=ハバールの頭に向かって下って行く。

 同時に。『青雷槌』にかれるように。自然の雷がラファに向かって一直線に落ちて行った。

 沈黙。耳をつんざく雷鳴の中で。誰もが息を止めた。

 次の瞬間、その場に音が戻る。やけにゆっくりと、ラファが嵐にうねる海の中に沈んでいく。

「……はぁ……はぁ……はぁ……っ!」

 レーキは荒く息を継ぎながら、嵐の中を降下していった。

 どうにか海の怪物を倒すことはできた。だが、体力はもう限界だ。早く、船に戻らなくては。この嵐の中、海に落ちれば瞬く間に溺れてしまう。

 よろよろと雨を縫って飛ぶレーキは船縁にネリネとウィルの姿を認めた。良かった。二人は、船は無事だ。

 二人は大きく手を振って、何かを叫んでいる。それが雨音と雷鳴にかき消されはっきりと聞き取れない。

「二人とも、何を言って……?!」

 不意に、レーキは何かに足を捕まれた。そのまま乱暴に振り回され、海面に叩きつけられる。

 一瞬、レーキは何が起こったのか解らなかった。一呼吸遅れて、重い痛みが、はっきりと全身を襲う。

 レーキの足に絡みついたのは。ラファ=ハバールの細い触手だった。

 断末魔に叫ぶ代わりに、ラファは自分を追い詰めたレーキを道づれにしようとしている。

 海中に引きずり込まれそうになって、痛みは一時忘れた。レーキは必死に羽ばたく。ラファに引きずられて、どんどん船が遠くなっていく。

 海から飛び立つ鳥もいるのに。レーキの羽は雨に濡れそぼってひどく重い。

 ──嫌だ! こんな所で死ねない!! 死にたくない!!

「『氷槍グラキ・ランケア』!!」

 ラファの触手が『氷槍』に貫かれて、千切れ、離れていく。

 やった! 喜びに浸る間もない。レーキの体は逆巻く波間に飲まれた。苦しい。息が、出来ない!

「ダメよ! そんな……! 船をもどして!! いやあああ!! レーキ! レーキぃぃぃぃ!!」

 遠く、どこか遠くで。誰かが自分の名前を呼んでいる。意識を手放すその瞬間。レーキはそんな気がした。

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