第32話 寮の部屋でⅡ

「オレだと解った途端笑うんだからなー全く失礼な後輩たちだよ」

 怒っているように唇を尖らせてみせるアガートは、籠にいっぱいの朝食と追加の『治癒水』をたずさえていた。

「……さて、二人とも睡眠はちゃんと取れたかい?」

 はい。と頷いた後輩二人に、先輩は「よろしい」と鷹揚おうように返してみせる。

 すぐさま茫洋ぼうようと表情を変えて微笑んだアガートは、レーキの額に手を触れて熱を確認した。

「……うん。熱も下がったみたいだね。何か食べられるかい?」

「はい。……実は今すごく腹が減ってます」

「よしよし。食欲が戻ればもう安心だね。ほら。ヴァローナのパンと野菜のポタージュ。それから『チーズも食え!』ってアニル姉さんが」

 アニル姉さんなら、『食って寝れば治る!』位のことは言いかねない。きっとそれもまた真なのだ。良く栄養を取って休息する事に勝る療養は無い。

 アガートから朝食を受け取った瞬間、焼きたてのパンの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。それはもう幾度食べたか解らないヴァローナの柔らかなパンの薫香くんこう。途端にレーキの腹の虫がきゅうと鳴いた。

 夢中で丸いパンにかじりつく。良く咀嚼そしゃくすると温かな小麦の甘さが舌に心地よい。ヴァローナのパンはミルクをふんだんに使い、こね過ぎず発酵に時間をかける。五大国の主食パンの中では一番柔らかで、贅沢であるのがヴァローナの製法だった。

 水筒に入れられていた、地の野菜をたっぷり使ったポタージュもまた旨い。空きっ腹に染み通り、気持ちを温かくしてくれる。

「……あ、飯は君の分もオレの分もあるからね。遠慮しないで食べて」

 レーキが旨そうに朝食を頬張り出すと、アガートは籠の中から次々と食物を取りだした。ズィルバーは焼きたてパンを手渡されて、おろおろと二人の先輩を交互に見た。

「……大丈夫。この人は君を罵ったりするような人じゃ無い。だから……大丈夫」

 力強く断言するレーキのその言葉に、意を決したようにズィルバーはフードを脱いだ。

「……ああ、君が……噂の蟲人の新入生だったんだね?」

 蟲人を目の前にしたアガートの反応は、思っていたよりもずっと平静だった。一度ひとみを瞬いて、それからいつもと同じように微笑んだ、だけ。

「君の事は教師たちの間で噂になってる。蟲人の天法士はとても珍しいし、ヴァローナの天法院に入学してくる蟲人はもっと珍しいけど……前例が無い訳じゃ無いんだ。蟲人は平均して天分が強いと言われている。今はみんな手ぐすね引いてどうやって君を一人前の天法士にしようかって思案中。君、入学試験の成績もなかなかだしね。二年になる頃には引く手数多あまただろう」

 事もなげに、アガートは続ける。いつだって、先を閉ざそうとする高い壁に風穴を開けていくのは天法士だった。

 レーキにとっての師匠が、そうであったように。今遠い国からやってきて、傷ついた亜人の少年の固い殻を壊していくのは、やはり天法士のアガートで。

「……うーん。その前にさ、何か困っている事とかはないかい? ニクスとヴァローナでは随分気候が違うしね。体調とか文化の違いとか……何でも相談に乗るよ? そのための教師だからね」

「……あの、あの……先生は……小生が『怖く』は無いの、デス……?」

 恐る恐る、ズィルバーはレーキに投げかけたのと同じ問いを、アガートへ向ける。

「ううーん。……怖いね。その若い才能がねー怖いねー」

 いつも以上に冗談めかして、アガートが応えると、ズィルバーは苛立ちを隠せないようにずいっと顔をアガートに向けた。

「あの、その、……そんな事では無くて! この顔! この顔が怖くは無いの、デス!?」

「……君は、『怖い』と言われる方が好みかい?」

「……いいえ! いいえ! 決して!!」

 アガートの静かな質問に、ズィルバーは叫びだしそうな声音で返した。

「……そうか。君が顔を隠しているのはそのせいだね? 誰かに言われたんだね。『怖い』って」

「……ハイ。ずっと、ニクスを出てからずっと言われたデス……『あいつは醜い』とか、『怖い』とかたくさんたくさん……!」

 その言葉を投げつけられた時のことを思い出すのか、ズィルバーはぎゅっと胸を押さえて俯いた。

 そんな新入生に、アガートは穏やかに優しく子守歌でも歌うように続ける。

「……君はそう言われてどう思った?」

「……すごく悲しくて……苦しくて、でも小生は共通語コモンが下手だから、何も言えなくて……でも、おかしい、のは……『怖い』のは、蟲人じゃナイ、あの人たちデス……!」

 それが、ズィルバーの本音。どうして、見ず知らずの他人に酷い言葉を浴びせることが出来るのか、外見が異質だと言うだけで、どうして石持て追うことが出来るのか。蟲人の町に来れば異質であるのは、お前たちの方なのに。

「……そうだよ。その通りだ。……君はね。言葉の事もあるけど、多分必要以上に心に気持ちを封じ込めてしまう人だ。だからね、ホントはもっとそうやって気持ちを吐き出して良いんだよ。人間が本当に恐怖を抱くのはね、『解らないモノ』なんだ。君が言葉を、怒りを吐き出さなければ相手はそれを理解できない。だから君に感じなくて良い『恐怖』を感じる。恐怖を感じると人はその対象を排除しようとしてしまうんだよ」

「……小生が、『怖い』のは、小生のせい……?」

 ズィルバーの発言を、アガートは首を振って否定する。

「ううん。違う。みんなが『君を知らなすぎるせい』さ。君には怒りがあって悲しんで傷つく心があって、才能があって、蟲人で、気持ちが優しいってことを知らない奴が多すぎるんだ」

「……」

 不意に突きつけられた、気持ちを解放すると言うこと。ズィルバーには、まだ良く飲み込めないのだろう。彼はただ黙ってアガートの答えを聞いている。

「……ま、急に『怒れ』なんて言われても君は戸惑ってしまうだろうけどねーまずは伝えたいと思うことだよ。自分が今どんな風に考えているかってね。それで、君がどんな子だか解った上で攻撃してくるような奴は……もうどうしようも無いかなー無視するとかぶん殴る、とか?」

「先生……暴力はいけないと思うマス……」

 アガートの冗談に、ふっとズィルバーの口元が笑った。蟲人の表情は他の亜人や人間に比べると分かり難いと言うが、ズィルバーの顔も手足も複眼も、彼の気持ちを雄弁に語っているようなそんな気がする。

 成り行きを見守って居たレーキも、思わず笑みを浮かべた。自分に出来るのは、ズィルバーと一緒に怒りを溜め込むことだけ。どうしたら、彼が周囲の眼を極端に気にしないで生きられるようになるのか、彼に自信を持たせてやれるのか、考えて導いてやることはきっと自分には出来ない。

 だから、レーキはズィルバーをアガートに引き合わせてやりたかった。彼ならきっと新入生を解ってくれる。導いてくれる。解放してくれる。

 だから、二人がこの場にいて、冗談を言い合う様子がとても嬉しい。そんな日がこんなに早く来てくれて。とても、嬉しい。

 その時、誰かの腹の虫がぐうぅと盛大に鳴いた。

「すみまセン、小生デス……昨日の夜は大変で、食べられなかったカラ……」

 マントを跳ね上げて、おずおずとズィルバーが鉤爪の手を上げる。よく見ればその腕は左右に二対、合計で四本の腕が天井を向いていた。彼は、腕の数が人間と違うことも隠していたようだ。

「……うんうん。冷める前に朝飯食べちまおう。レーキは『チーズも』」

「『食え』ですね。……ありがとう。アニル姉さんにもありがとうって伝えてください」

「えーめんどくさいー君が自分で言った方が姉さんも喜ぶぜー」

「……まったく、もう! その位頼まれてくれたって良いじゃ無いですかー!」

 レーキはアニル姉さんのお気に入りだとアガートは言うが、レーキにはいまいちその実感が無い。

 姉さんは皆に厳しく、優しく、いつも元気な食堂の調理人だ。ヴァローナの国立学院に務められるくらいだから、腕も身元も確かな人なのだろう。

 姉さんには、食堂が空いている時間に調理について質問をしたこともある。ただ食堂に食事をしに来て、すぐに去って行く生徒たちと比べれば、自分は姉さんと親しい間柄であるとは思うが。姉さんは、生徒によって態度を変えるような人では無かった。

「……所でさ、夜食べられなかった、で思い出したんだけど。レーキ、君、最近夜を抜いたり朝を抜いたりなんてこと多かったろ? アニル姉さんが『最近食堂でアイツを見ない』って言ってたぜ」

「そう言われてみれば……最近忙しくて、気がついたら食堂の開放時間が終わっていたりしたことがよくありました。あ。その……アガートと同室だった頃は良く夜食を用意して貰ってたから……その癖が抜けなくて……朝も……ギリギリまで睡眠時間を確保したくて……あ、でも宿屋の仕事の時はまかないも出てたし……食ってないなんてことは……」

 レーキの言い訳じみた言葉に、アガートは心底あきれたとでも言うように苦い表情を作った。

「……君ねぇ。健康な成人男性が一日約一食で体が持つ訳無いだろ? ましてや昼間は実習、夜は仕事なんて忙しくしてるのに。無茶も良いとこだよ!」

「……返す、言葉が、無い……です……」

 指摘されてみれば、反省しきりである。なるほど、授業で知った事実のショックも大きかったが、この所の忙しさにかまけて体調管理をおろそかにしていたツケが回ってきたのが、今回倒れてしまった一番の原因のようだ。

「……とにかく、君は体調が回復するまで食って寝ること! 復調したら一番にアニル姉さんに礼を言うこと! 君の担任と職場にはオレが連絡しとくから。安心して休むこと!」

「はい……」

 しょんぼりと頷くレーキに、びしりと指を突きつけてアガートは命じる。

「新入生。ズ、ズイ……とにかく君は言いたいことを我慢しないこと! 後出来たらで良いけどこいつが飯を食ってなかったら叱ること!」

「解りまシタ! えっと……小生はズィルバー、デス! 先生! 覚えてほしい、デス!」

「お。早速はっきり言えたね! よし! ……でも名前を覚える件はちょっと猶予が欲しい……そんな先生であります! ……えへへ」

 誤魔化すように茫洋と笑うアガートに、後輩二人は思わず顔を見合わせて、笑い出した。

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