Love

別のある日。私はその日出た課題をしていた。すると見慣れた顔の人物が近づいてくることに気づいた。先生だった。

「また、彼氏への手紙か?」

「……違いますっ!もう、揶揄うのはやめてくださいよ」

「思ってないだろ」

「……」

「ほらな。知ってるぞ、俺は。お前が話しかけられてうれしいことをな」

先生はくすっと笑った。本当に悪い人だ。嫌だな。恥ずかしい。それ故に滅多に目を合わせられないし、ツンとした言葉で返してしまう。私の馬鹿。

「……先生が出された課題ですよ」

「そうだな、今日出したな。お前はすぐとりかかって本当に偉いな。やらねえで来るすぐ潰れる余裕のある奴だっているのに」

先生はニヤッと悪い顔をした。そんな生徒、先生は簡単に言うことを聞かせることが出来るのだ。

「……世界史は面白いので……」

私はその後の言葉を先生に聞こえないくらいの音量で濁した。

「何だよ?」

「……先生のお陰で」

「良い返事だな」

そう言って先生はまたくすっと笑った。右手には一週間前と違う本を持っていた。きっとこの前のは返してまた借りたのだろう。

またいつものようにうつむいていると、

「ほんと、お前は良い生徒だよ。教え甲斐がある。俺の授業なんてお構いなしに寝ている奴、世界史なのに違う勉強をしている奴、注意してもしつこい奴だっているのに、お前は俺の目を一心に見つめて聞いてくれる」

先生が机に手をついた。心臓がドキッとした。

「別に……先生の話を寝ないでちゃんと聞くのは当然です」

藍は解きかけの世界史のページを指でなぞりながらまた顔を少しそらして言った。

先生がクラスの男子に怒ったところを見たことがある。いつもの優しい印象とは真反対で、中にはギャップが大き過ぎて引く様子を見せる生徒もいたが、怒られるようなことをしているその人が悪いのだと思っていた。だから、藍は決して授業中にそんなことはしなかった。

「はは、照れてるな」

「……」

「それを続けているのは凄いことだぞ。お前みたいな生徒にあったのは数十年、教師を続けてきて初めてだ」

「先生が忘れているだけなんじゃないですか」

先生が近くの椅子に座って本を置いた。心臓がドキッとした。

「おいおい、まだそんな老いてないぞ、年寄り扱いされちゃ困る」

「先生は私からしたらおじさんです」

「はは、そうかもな。ほんとお前だけだぞ、そう言って許されるのは」

「ありがとうございます」

「なんだ、その礼は」

先生はまたくすっと笑った。そう、これは私だけの特権だった。

「先生、前も言いましたけど私は先生にお前って呼ばれるの、嫌です、嫌いです」

「悪い悪い、もう“おじさん”なんでな。すぐに忘れちまうのさ」

「ふふっ」

「やっと笑ったな」

「っ!!」

藍の顔は真っ赤になった。耳まで真っ赤になった。火照るその耳に先生からの視線を感じた。それは確信に変わった。絶対先生は私の気持ちを知っている……。この会話は一週間前とずいぶん音量を下げたヒソヒソ話だった。誰にも聞こえないこれは、藍にとって嬉しいものだった。先生を独占しているような感じだったから。

「そうやって笑ってくれることがもっと増えたらいいんだがな……」

先生がうつむきがちに言った言葉は聞き取りにくかった。

「え……?」

「課題の途中で悪いが、安藤、真剣な話がある」

「はい……?」

私は先生の顔色が曇っていることに違和感を感じた。

「安藤、最近大笑いしたのはいつだ?」

「え、えーと、」

「安藤、自分自身を追い詰めていないか?」

「え?」

それは私を心配する話だった。

「……いたんだよ、潰れたやつが……優等生でな」

「っ!」

先生は深刻な顔をしていた。そんな顔今まで見たことがなかった。

「安藤には匹敵しなかったが、俺が前勤務していたその学校の中では一番だった奴がいたんだ。その頭故に将来を期待されていた。でも、ある日突然学校に来なくなったんだ。無遅刻無欠席だったのに……」

「ど、どうなったんですか……?」

続きを聞くのが怖かった。心臓が大きな音を立てていた。

「……死んだんだよ、飛び降りてな」

「っ!!」

藍は一瞬言葉を失った。

「その人は女ですか」

「いいや、男だよ」

「……」

こんな時でも、性別を気にするなんて、私……。藍は反省した。

「……良い奴だった、本当に。きっとあいつはたくさん抱えていた。もう耐えきれなくなったんだ、重いプレッシャー、期待する皆の目……俺も含めてな。でも新米の俺は気づくのが遅くて……気付いた時にはもう遅かった……」

「……」

「それで、安藤。お前は今、あいつと同じ道を辿っている」

「っ!!」

藍はまた言葉を失った。先生を庇う言葉なんて出てこなかった。私は自分の心配しか出来なくなっていた。

「最初は、違うと思っていた。そう祈っていた……だが、日に日にお前があいつの鏡みたいになって、お前とあいつが重なって……。あいつは笑うことが少なくなっていた。最終的には笑顔を見せなくなった。必死に繕っていたが、疲れ切った顔をしていた。死んだ後にやっと記憶の中で気づいたことだ……」

「……」

「見たところ、まだお前は大丈夫そうに見えるが、いずれそうなってしまう。勉強は大事だ。お前が努力していることは素晴らしいよ。だけど、俺は、俺はもっとお前に友達と一緒にいたり、勉強以外に好きなことをしたりしてほしいんだよ!!」

「わ、私には友達はっ! い、いません……」

「……。それとお前のその気持ちもだ」

「……?」

「安藤……お前は俺のことが好きなんだろ?」

「っ!! やはりご存じで……っ!」

「最初は自意識過剰で、俺の勘違いだと思ったよ。でもお前が俺を見つめる目にはいつだって熱が混じっていた……今もだ」

「……っ」

「その、気持ちは……忘れろ」

「っ!! 嫌です!! 私は先生が好きです!!!」

席を思いっきり立ってしまったせいで、椅子が後ろに倒れてしまった。大きな音が図書館に響いた。ハッとして周りを見たが、もう誰もいなかった。私と先生と司書さんだけだった。一週間前と同じ時刻だった。司書さんは驚いて、藍の方を見ていた。

「……っ」

こんなタイミングで告白なんてするつもりじゃなかった。告白さえもしないつもりだったのに。気づけば勝手に口が流れるようにそう言葉を紡いでいた。最悪だ。先生に向かって大声を出してしまった。

「……申し訳ありません」

藍は椅子を戻して座りなおした。

「いいよ……その気持ちは、ありがたいから……だがいずれ、お前の足枷となる。俺は、恋愛で堕ちた生徒を何人も見てきた」

「……っ」

「……俺は、お前に自分を追い込みすぎないでほしい。でもそれと同時に、その頭を最大限に使って将来を切り開いていってほしいとも思っている。矛盾していて、結果お前を追い詰めてしまいそうで申し訳ないが……。俺に対する気持ちで、堕ちてほしくないんだよ」

「わ、私は! 私の思いはそんな中途半端なものじゃありません!!」

「分かっているよ……でも、お前も分かっているだろ、安藤?」

「……それでも、私はっ!」

「安藤」

先生の目は私を見ていた。微動だにせず、一心に。

「……はい……分かっています、先生……」

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